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「……それで?
業務に支障をきたすようならば、降格を覚悟しているのだろうな、セリア」
「問題ありません。イリスなら、必ず一晩で復帰します。
今夜のところはわたし1人でも、お嬢様につつがなくお過ごし頂けるよう努めます」
「君の能力に不安は抱いていないが、今宵、エステファニアお嬢様はグラシアノ様と連れ立って観劇に出向かれる予定だろう」
「グラシアノ様は、もとより目付役の干渉を疎まれご自分で身の回りの事は片付けられるお方です。差し支えは無いかと」
机に着いて書類に目を通しながら難色を示していたゴンサレスは、それでもめげずに懸命に訴えてくるセリアに視線を向けた。手にした書類を下ろし、机の上に片肘をつく。
そして、セリアが両腕で抱っこしているユーリをじっくりと眺める。やはり、上司へ直談判に向かうには子ネコ連れはマズいのではないだろうか。何かやたらとガン見されているのだが。
というか、セリアさんの上司って……メイド長とか、そういう立場の方じゃないんですかね?
イリスさん落ち込み事件の事情も把握していて、使用人で一番偉い方だからでしょうか?
「……動向を推し量るに、頃合いかもしれん」
「はい?」
ポツリと呟くゴンサレスにユーリがカクリと小首を傾げ、セリアは聞き返すも、彼はふんと小さく鼻を鳴らすのみ。
だから何故、彼は毎度毎度、子ネコ姿のユーリが現れても眺めるばかりでスルーするのだ。自ら胸の内でツッコミを入れるのもなんであるが、ここは、仕事場にネコを連れ込んだ部下を叱責して追い払うべき場面ではないのか。
「ラウラは定刻通り休ませる。それでも良いのだな?」
「はい」
「では下がれ」
「失礼致します」
お辞儀をして退出しかけたセリアだったが、彼女がノブに手を伸ばしたドアが先んじて開かれた。勢い良く引かれた扉に、反射的にノブを追い掛け身を乗り出したセリアがバランスを崩す。
「きゃっ!?」
「おっと。はははは、これは思いがけない不意打ちだ。ゴンサレスの趣向かい?」
「主人への粗相を容認する方針はございません」
彼女の両肩を軽く支えて転倒を防いだ入室者が何者なのかに気が付いたセリアは、顔を青褪めてさっと体勢を整え、即座に半歩下がって頭を垂れた。
「大変申し訳ありません閣下。ご無礼を……」
「いやいや、私が予告無くドアを開けたからだろう。気にする事はない。
いつも礼儀正しいセリアが可愛らしく胸に飛び込んでくるとは、これが役得というやつかな」
「閣下。執務が滞っては、レディ・フィデリアとお過ごしになられる時間が減りますが」
頭を下げたまま固まっているセリアの頭をぽんぽんと優しく撫で、朗らかな笑い声を響かせるパヴォド伯爵閣下へ、自分の机に着いたままのゴンサレスは、顎で冷たく窓際の立派な執務机を示す。雲が流れて晴れ間から午後の日差し差し込む机の上には、目を通して下さいとばかりに山積みされた手紙がこんもりと。
有力者であるパヴォド伯爵と友好関係を築きたいあちこちの貴族達からの、イベントや夜会のお誘いらしい。
「やれやれ。セリアは私の娘も同然だと言うのに、我が家の口煩い爺は満足にお喋りさえさせてくれないのか」
「もったいないお言葉です」
「また今度、フィーとエストの4人で一緒にお茶会をやろうねセリア」
「は、はい」
……どうやら閣下は、セリアさんの事がお気に入りのようです。
まさかこのお方の、ばっちん(お星様キラキラ)とか特殊効果が付きそうなウィンクを拝む日が来ようとは、私思いもしておりませんでしたとも。どうせ同じ顔なら背筋に悪寒が走る伯爵閣下ではなく、愛くるしいエストお嬢様のウィンクが見たかったです。
『さあどうぞお嬢さん、お通り下さい』とばかりに、パヴォド伯爵閣下がわざわざ開けて下さったドア。彼の脇を、恐縮しながらすり抜けるセリア。
あの伯爵様がこうまで特別扱いをするとは、彼女は本当にお気に入りなんだなぁ、と、半ば感心しつつセリアの腕に抱かれて運ばれながら閣下を見上げたユーリは、例の怖い笑み……口元は笑っているけれども目がちっとも笑っていない表情を直視してしまい、いつぞやと同じようにピキーンと固まってしまった。
パヴォド伯爵はドアを支えていない方の手を伸ばしてきて、軽くユーリの頭を一撫で。
「今夜、あの子をよろしく頼むよ」
すれ違いざま、胸元にギュッと抱き締めた黒ネコを撫でながら小声で囁かれたパヴォド伯爵の一言に、セリアは虚を突かれたように瞬き……深々としたお辞儀と共に答えた。
「御意」
その、セリアの迷いの無い従順な態度に満足したのか自信の程を見出したのか、パヴォド伯爵は笑みを崩さぬまま執務室のドアを閉めた。
クルリと踵を返し、絨毯の敷かれた廊下をしずしずと進み……使用人用廊下へと通ずる目立たないドアを開閉し、家人や客人など人目が避けられるそちらへと足を踏み入れたセリアは、またしても突如としてしゃがみ込んだ。
「きっ……」
不意に、ユーリを抱き締めていた腕に力が籠もる。
「きんちょーしたぁぁぁぁっ!
まさかまさかの旦那様遭遇やらかすだなんてっ。てっきりまだお戻りじゃないと思ってたのに!」
“ったく、思ったより時間食っちまった。
こっちはようやく王都に着いたぞ。おいユーリ、そっちは上手くいったか?”
大きな独り言を漏らすセリアの腕の中で息苦しいともがいていたユーリの脳裏に、主人からのテレパシーが届けられてきた。
……あ、主……私は今、ネコ生の難関に見舞われている危機的状況です……
“……はあ?
いや、俺が聞きたいのは、あれから上手くゴンサレスさんの様子を見張れたのかどうか、って件なんだが”
……あ゛。
「よーっし! 旦那様からも期待されている以上、生半可な仕事は出来ないわね!
今夜のオペラ鑑賞……お嬢様を素敵レディに飾り立てねば!」
ご主人様からの経過報告を促すお言葉に、ユーリは己の失策を悟った。
「みにゃっ、み~っ!(ちょっセリアさんっ、私をさっきの部屋に行かせて下さい~っ!)」
「さあユーリちゃん、エストお嬢様のお部屋に帰りましょうね!」
慌ててセリアの腕の中から逃れ出ようともがくも、彼女は子ネコの抱き方をしっかりと習得したのか抜け出せれない。それどころか、今ユーリの身を解放すれば長時間不在にする腹積もりである事を見抜いているのか、暴れれば暴れるほど拘束は強まるばかり。
「今日の演目は確か『フレイセ』だったから、ご衣装はグリーンが良いかしら」
本館の表廊下に繋がるドアへとユーリが虚しく前足を伸ばすも、仕事にやたらと張り合いを出したセリアがスキップしていそうな勢いでリズミカルに駆け抜けるせいで、どんどん遠ざかってゆく。
ああ何故、先ほど執務室に連れて行かれた際に、本来の目的を思い出さなかったのだろう。
パヴォド伯爵にゴロゴロと懐けば、もしかしたら室内への残留許可が下りていたかもしれないというのに。
“……なあユーリ。
お前のその、目先に提示された一つの物事に集中すると他が疎かになる性質は、諜報には向かんと判断せざるを得んのだが”
申し訳ありません……初歩的なミスです。
油断を誘える姿であるからといっても、そうそう上手く狙った相手の懐に潜り込めるものではない。
パヴォド伯爵から、期待されているというニュアンスの台詞を頂戴したセリアにエストの部屋へ大人しく運搬されながら、ユーリは先ほどの短いやり取りを反芻して小首を傾げた。
……『今夜、エストをよろしく頼む』って……閣下は娘に付き添うメイドさんの急な勤務変更を、何でご存知だったんでしょう?
まさかドアの前で聞き耳を立てていたのかと、一瞬愉快なパヴォド伯爵閣下のお姿を想像しかけて、しかし即座に直感が『違う』と告げる。
“……まさか今夜、閣下は鼠に何か動きがあると踏んでいらっしゃるのか?”
劇場にエストお嬢様とぐらぐら様のお2人でのお出掛けだと、伺っています。
何かあるんでしょうか?
“全ては推測の域を出ない訳だが”
未だに何も確証は得ておらず、動くに動けない状況に、カルロスもまた焦燥感を押し殺して答える。
“今夜は念の為、俺は伯爵邸の周辺を警備しておく。ユーリは何としてでも、劇場に向かうエストとグラシアノ様に引っ付いていけ”
エストお嬢様のお側にいらっしゃるのが主でなく私で、それでよろしいのですか?
“オペラ鑑賞会に向かうエストに、俺が絶対に付き添って行ける理由付け……上手い言い訳が見付からん! 仕方がねえだろうが!”
影からこっそり護衛すればそれで良いのではないかと、ユーリは心の中だけで反射的に考えるのだが、ご主人様的にはエストの側近くで状況を把握出来、瞬時に動け判断を下せる方が良いらしい。
そうですね……もしかしたら今夜のオペラ鑑賞の幕間休憩とかで、ぐらぐら様がエストお嬢様にご友人を紹介なさる場とかなのかもしれませんし。
あ、いや意外と、『多分求婚者?』のアティリオさんも来場する手筈とかで、今夜はプチおデートというお膳立てがなされているのかもしれませんし! そんな状況を主が歯噛みしながら見守らなくてはならないだなんて、大変ですしね。
エストは今夜も社交場に出るのだからして、そういった状況が待ち構えていても何らおかしくはない。軽く冗談めかした言い方で誤魔化してはみたが、主人はユーリの懸念を読み取りこう返事を返してきた。
“……心と魔法陣の準備はしておく”
わざわざ事前に備えておくだなんて、私の嫌な予想が的中した暁には、我らの主様はいったいどんな方向性の高等魔法をアティリオさんに繰り出すおつもりなのでしょう……
それ以上のツッコミは控え、ユーリは今夜のお出掛けに同行する手段について、あれやこれやと想像を巡らせてみた。
基本的に、いかに動物大好きな主人に飼われている飼いネコであろうとも、不特定多数の人々が参加する社交場へは連れ出されない。つまりユーリは大抵、お留守番である。
セリアは優雅さを失わない程度の足取りで廊下を渡りきり、目的地であるエストの部屋のドアを軽くノックした。
「エストお嬢様、セリアでございます」
「お入りなさい」
促すエストの声に従い、しずしずと入室したセリアの腕の中からぴょんと飛び降りたユーリは、ぐるりと室内の様子に視線を巡らせ状況の確認に努める。
どうやら湯浴みを済ませたばかりらしきエストは、普段から艶やかで滑らかな純白の肌が、上気して眩いばかりに輝いている。薄い寝間着姿で寝室に設えられた鏡台の前に腰を下ろしており、ふわふわでクルクルとした天然カールがかかった長い髪の毛を、ラウラに乾かして貰っているところであった。
ユーリがお散歩に出る前、2人でやたら親しげに語らっておられたエストの兄君様も、流石にそろそろお出掛け前の身仕度に取り掛かっているのだろうか。
毎度の事ながら、エストの着替え場面から席を外すべきではあったが、まだ肝心の『お嬢様に引っ付いていくぜ大作戦』の概要さえ決定していない。ユーリは最近定位置となりつつある窓辺に腰を下ろし、天頂から傾きつつある午後の王都の風景を何とはなしに見つめる。
日差しを浴びて煌めく白亜の宮殿。その背後にそびえ立つ巨大な崖、そして王都と宮殿の間に縦軸で割って入るかのように蒼穹へと伸びる象牙色の馬鹿デカい塔、それはまるで前後から王宮を守るように……
そういえば、この王都には住宅用の建物は掃いて捨てる程建っているが、エストの私室のようにこういった高所から見渡した際に、馬鹿デカくて目立つ分かり易い観光名所的な建造物が少ない。せいぜい、今夜の外出予定先である『歌劇場』それに『王宮』や『魔術師連盟の塔』と『中央広場噴水』ぐらいではなかろうか。
むしろ、王都を囲む巨大な城壁の内部であるというのに、宮殿の背後の大滝とそこから流れる川周辺の豊かな森林の方が目を引く。
むぅ……こういった都につきものの、巨大神殿だとか大聖堂といった趣向の建物はどこにあるんでしょう?
……いや、今考えるべきは王都の観光地巡りではなくて、いかにしてエストお嬢様に付いて行くべきか、な訳ですがっ!
「ねえセリア、イリスはどうしたの?」
「それがですね、ちょっと彼女、体調不良でして」
ユーリの背後では、今夜もドレスを大量にバサーッと広げたらしきセリアが、嬉々としてエストにあてがっている最中であるらしい。だがしかし、お仕えしているお嬢様も当然自分のメイドの勤務予定を大体把握しているようで、身仕度の手伝いに姿を見せない年少のメイドの不在を訝しんだ。
「体調を崩しただなんて、まさか風邪?」
「大丈夫ですよ、お嬢様。あの子ったら、傷んだザシュトを捨てるのが勿体無いからって、隠れて食べ漁ったんです!」
「え」
「まあ」
「それでお腹を壊して、ゴンサレスさんにお叱りを受けながら今夜はきっと一晩中、トイレの佳人と化してますね!」
セリアはとんでもない言い訳を堂々と言い張り、驚きに声を失うエストとラウラに畳み掛けた。
確かセリアは、イリスに『お嬢様には上手く言っておく』と言っていたが……この言い訳で本当に良いのだろうか。確かに、エストお嬢様がうっかり『それなら、出掛ける前にお見舞いに寄りましょう』とか、『今夜はわたくしと一緒に出掛けて欲しいわ』などとは、言い出しにくい病欠理由ではあるが……
「イリスの事ですから、明日になったらケロッとした顔で復帰してますよ、きっと。今夜はお腹がゴロゴロいってそうですから、そっとしておきましょう」
「そ、そうね。とても大変そうだものね」
「……ザシュト、そんなに好物だったのね、あの子」
我慢出来ずにチラッと背後の様子を窺ってみると、同僚の名誉を赤面もののでっち上げにて勝手に失墜させた暴走型メイドさんは、いかにも『無事に一仕事終えたゼ!』と言わんばかりにふーっと安堵の吐息を漏らしている。明日の朝、事件を知ったイリス嬢から殴り飛ばされなければいいのだが。
さて、それはさておきどうやってエストに同行するかについての問題だ。思い付く限り、作戦の脳内シュミレーションを行ってみる。
計画①出掛けるエスト達に真っ正面から飛び付き、自分も一緒に行きたいアピールをしてみる。
「にゃんにゃ~ん(お嬢様~、私も私も~)」
ユーリ、ドレス姿のエストに抱き付く。
「あら、ユーリちゃん遊んで欲しいのかしら? ごめんなさいね、わたくしこれからお出掛けなの」
グラ、エストの胸元からユーリの首根っこを摘み上げて引き離し、ポーンとラウラに放る。
「それを父上と母上の部屋に放り込んでおけ。では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、若様、お嬢様」
……ダメだ。何度脳内でシュミレートしても、ぐらぐら様が私を放り投げるお姿しか思い浮かびません!
別の作戦を検討してみましょう。
計画②エストのドレスの裾の影に隠れて一緒に移動する。
「お嬢様、よくお似合いですわ~」
「ありがとう、セリア」
綺麗に飾り立てたエストにご満悦のセリア。注意が逸れた隙に、ユーリ、ドレスの裾の中に潜り込む。
「エスト、支度は調ったか? そろそろ出掛けるぞ」
「はい、お兄様。では、留守はよろしく頼みます」
「行ってらっしゃいませ、若様、お嬢様」
グラにエスコートされて玄関ホールまで優雅に移動するエスト、その後を付き従うセリア。ユーリはひたすら、ドレスの中の空間に隠れたままエストの歩調に合わせてコッソリ移動。
そして兄妹は玄関ポーチに停められている馬車の前へ……
……おお、この作戦はなかなか良さそうじゃないですか!?
エストお嬢様のドレスの裾ってどれもこれも、絨毯の上を引き擦りそうなぐらい長くて、靴なんか殆ど見えないデザインですし!
バッスルだか骨組みだかで、ドレスのスカート部分はちょっぴりふんわり仕様ですし。
自らの妙案に、ユーリは思わず万歳三唱とばかりにワ~イと両前足を掲げた。
だがしかし、
「さあエスト、手を」
「ありがとうございます、お兄様」
ユーリの脳内シュミレーションはそのまま場面を進行し、グラのエスコートによってエストが馬車のタラップを羽根のような軽い足取りで上がり、彼女はふわりと馬車に乗り込む。
後に残されているのは、先ほどまでエストが立っていた地点で万歳三唱ポーズのまま硬直している黒ネコと、それを凝視しているグラとセリア。
ユーリは自らの優秀過ぎる脳内シュミレーション機能を中断して、窓枠に背中から倒れ込み掲げていた両前足で頭を覆った。
“……なあ、ユーリ。俺はお前に、コントのネタを考えろと命じた覚えはないんだが……”
真剣に作戦を練っています!
いったいいつからユーリの思考を読んでいたのやら、笑いを必死で堪えているらしきご主人様からのテレパシーに、ユーリは憤然と叫び返した。
嗚呼、これが本来の姿だったなら、ただ一言『エストお嬢様、私もお連れ下さいませ』で話は済むというのに。
せめて意志疎通が図れれば、賢いお嬢様は何かを察知してユーリを同行させてくれるかもしれないし、もっとスムーズに物事は進んでいただろうに。
いや、知能を警戒されたデメリットの方が大きいのだろうか。
“……まあ、俺の方から助言をしてやると、だ”
と、どうにか笑いを引っ込めたらしきカルロスから、重々しいお言葉が降ってくる。
“正攻法での同行が難しいから、隠れて……という点までは良い。だが、狙うべきはエストじゃねえ”
と、申しますと?
“エストに付き従うセリアの方が、まだ付け入る隙がありそうじゃねぇか?”
カルロスの助言を受けて、ユーリは身体ごとくるりと背後を振り返った。
どうやら無事に今夜のドレスを決定し、着付けを終えたらしきセリアが、楽しげにアクセサリーをとっかえひっかえしている。その傍らではラウラが黙々とエストの髪の毛を結い上げていて、エスト本人はされるがままだ。
結局のところ、置いてきぼりを食らわなければ良いのですからして、道中を誤魔化せれば良いんですよね……




