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「ずっと帰りたいと思っているんだ」と、彼は言った。



なし崩し的に所属する事になった天文サークルであったが、そこの部員達はどちらかというとさほど熱心という訳では無く、ほどほどに集まり、ほどほどに活動し、皆でご飯を一緒にする機会ならばそこそこ、というのが実情であった。


よく晴れ渡った、とある春の日。その日悠里は、夜に行われる天体観測に参加して部室を訪れていた。今夜は春の流星群として有名な、こと座流星群というものが観測出来るらしい。

皆でお喋りをしながら天体望遠鏡を覗き込み、流星群が現れるまで悠里はひとまず春の星座を眺めてみた。肉眼ではまったく見えない星の光も、天体望遠鏡を通せばそこには眩いばかりに輝いている。


「んと……これが北斗七星だから……カーブの先の星がアークトゥルス、かな?」


星空を眺めるだけでは星座の形などまったく見えてこない。この状態で他の何かを連想出来るだなんて、古人は想像力豊かだなあ、と感心しながらぶつぶつと呟きつつ、たどたどしく指先で空中に描いてみる悠里。


「どれ?」


ふと、背後から声が掛けられて、悠里は望遠鏡から背中の方へと視線を振り向けた。彼女の後ろに立っていた野々村は、悠里へと星座盤を差し出すと、肩からぬっと覆い被さるような形で一度天体望遠鏡を覗き込んでから、おもむろに悠里の傍らへと腰を下ろし、まだ星が流れぬ夜空をじっと眺めた。


「森崎さん、この白い星の光の色……牛飼い座を通り越して、あれ、乙女座のスピカじゃない?」


野々村は右腕を床に着いて背後に体重を預け、もう片方の手は人差し指で夜空にクルリと円を描いた。スピカを囲んでみせているのだろうか、傍らで同じように夜空を見やっても、悠里にはいまいち分からない。星座盤を見比べてみて、なんとなく納得しておく。


「私には星座とか、どーも難しいや。野々村君は、やけに詳しいね」

「一般常識の範囲でしょ」


入学式の日から野々村とはこれと言って何か進展があった訳でも無く、友人と呼ぶまでには至らない単なる顔見知り、ご近所さんという関係が形成されていた。軽く挨拶を交わす程度の交流しかしていなかった為、こうして雑談するのも実のところ久々であったが、悠里としては彼にさして惹かれるところも無く。

早く流れ星が降ってこないかなあ、と、心のうちで呟きながら、悠里は立てた両膝を抱え込み小さく欠伸をもらした。

その様子を横目でチラリと確認した野々村は、不思議そうに尋ねてくる。


「森崎さんってさぁ、星に興味が無いなら何で天文サークルに入ったの?」

「別に、全然興味が無い訳じゃないし。こうやって眺める夜空って、わりと綺麗だよね」


他のサークルに深い興味も無かったし、これも一つの縁だろうかという、深い理由の無い残留だ。

ただ、観測の為にこうして集まるには、この春先の夜間はとてつもなく寒くて、心底億劫なだけだ。真冬の集まりは遠慮したいかもしれない。

そんな、微妙にやる気の薄さが透けていそうな悠里の言葉に、彼は皮肉げに唇の両端を軽く持ち上げた。


「……ここから見える星空なんて、ちっとも綺麗じゃないし。目で見えるのなんて、せいぜい二等星ぐらいじゃん。

本当の夜空ってのはさ、もっとこう……広げられた漆黒のビロードの上に、数え切れないぐらいの宝石が転がり落ちたみたいな」

「ふぅん」


野々村の言はありがちな例えではあるが、写真やテレビの映像という媒体を通してでしか眺めた事が無く、満天の星空というものの実物を見た経験の無い悠里は、ひとまず曖昧な相槌を打った。


「野々村君は、そういう星空を見たことあるんだ?」

「見たことあるってゆーか……あそこにね、帰りたい。

ずっと帰りたいと思ってるんだ。森崎さんにとっては、違うのかもしれないけど」


目線は夜空へと向けられたまま、野々村は静かに言葉を紡ぐ。悠里は今ひとつ話が見えぬまま、小さく首を傾げた。


「あのさ、森崎さん。折り入って話したい事があるんだけど……」

「……?」


急に身体の向きを変えて彼女の方へと身を乗り出してきた野々村は、適切な言葉を探すように一旦口を閉ざした。悠里は数度瞬いて彼に向き直り、一応話を聞く体勢を取ってみる。


「えっと……なんつーか、オレとなるべく一緒に過ごしてくんない?

大学の行き帰りとか、アパートに居る時間とか」


一風変わった切り口だが、これもある種、交際の申し込みだろうか。

だがいかに現在フリーであろうとも、悠里としては野々村に対して特に惹かれるような感覚を覚えないのだ。


「悪いんだけど、私、その話断らせてもらうね」

「ええ~、森崎さん結構意地が悪いなー。オレ、これでもかってぐらい、下手に出てるんだけど……」


何やら野々村はぶつぶつと文句を言っているが、徐々に2人の周囲が騒然とし始めた。悠里も部員達の声に従って夜空に目を向ければ、幾つもの星が瞬きながら暗い天幕を滑り落ちてゆく。


「向こうとはもう、関わりたくないのかもだけど……オレは違う」


綺麗だと歓声を上げる仲間達の騒がしい声に紛れて、そんなどこか不穏な呟きを拾い上げた悠里は、思わず野々村を振り返った。彼はゆっくりと空へと向かって腕を伸ばし、流れゆく星々を掴み取るかのようにぐっと握り拳を作る。

その姿に悠里は何故だか、言い知れぬ不安を抱いたのだ……



ゆらゆらと揺れ動くような、不可思議な黒い空間をボンヤリと眺めるような間を挟んでから、パチリとユーリは瞼を開いた。薄いシーツ越しでも寝藁は相変わらず痛い。

今日は寝起きでも夢と現実の境で戸惑う事も無く、今の自分がカルロスの使い魔である黒ネコ姿であり、天狼さんな同僚であるシャルは彼女のすぐ傍らで相も変わらず「ぐー、ぐー」と健やかな寝息を立てている。


昨夜、あれほど散々シャルの行動に悩んだり心配したりしたというのに、いざ眠ろうと自室へと向かったユーリを、シャルはいつも通りの飄々とした態度で出迎え……そのまま同じ寝藁であっさりと就寝と相成った。はっきり言って、拍子抜けである。

いったい、時折見せるシャルの奇妙な態度はなんだと言うのか、問い詰めたいという気持ちもあるが、また避けられるような態度を取られるのも気まずい。悶々とした葛藤を抱えるユーリをヨソに、天狼さんの寝顔は平穏そのもの。


ユーリは小さく息吐いてをもぞもぞと体勢を整えて寝藁の上へ立ち上がると、雨戸が開けっ放しになっている窓へと飛び乗った。

吹き付ける夏の夜風は涼しく心地良い。

葉ずれの優しい囁きに耳を傾け、花畑から漂ってくる甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。

ふと見上げた空は夜明け前の薄暗さと、隙間無く散りばめられたラメのように煌めく星々……


先ほど見た夢を何気なく思い返して、ユーリはふと首を捻った。

こうして振り返ると、今更ながらに野々村のあの発言は何か意味深ではなかろうか。元々、奴の戯言は話半分に聞き流していたようなものだが……彼が再三に渡り、「森崎さんは人の話最後まで聞かないよね」などと文句タラタラな台詞を口にしていたが、交際を申し込まれたあの日は特に、流星群に気を取られて野々村の話が中途半端であったような気がしてくる。

第一、奴ははっきりとこう言ったのだ。「話があるんだ」と。けれども結局彼の台詞を総合すると、皮切りに口にする言葉は「頼みがあるんだ」もしくは「お願いがあるんだ」が妥当では無いだろうか。

それはつまり、ユーリが野々村の言いたい事を聞き逃したか、聞かずに有耶無耶の内に切り上げたという事になる。


私……何か、見落としてる?


自分の行いが間違っていたのだと、そう認めるのは勇気が必要だ。けれど、人と人との友好関係など、些細なすれ違いから決定的に袂を分かつ事になりかねない。

日本で暮らしていた頃のユーリは野々村に対して無関心であり、やがて修復不可能なレベルにまで印象を悪化させたが……もしもあの時、もっとよくよく話を聞いていたら。自分はそもそも、あんな不愉快な思いをせずに済んだのだろうか?


なぅ~と唸りながら、ほんのりと暁がかってきた空を見つめつつ尻尾で窓枠をパタパタと叩いていたユーリは、背後の床がギシッと小さく軋む音を聞いた気がして振り返った。

目の前に肌色の壁がある、などと認識するかしないかのうちに、ユーリの身体はヒョイと持ち上げられていた。


「おはようございます、ユーリさん。今朝は早起きですね」


いつの間にか目を覚ましていたらしきシャルは、まだ眠たいのか細めた眼差しでユーリの頭をぐりぐりと撫でてきた。


シャルさん……お願いですから、そちらのお姿の時には服を着て下さい、服を!


抱き上げられている胸元より下に目を向ける度胸は無いので真相は定かではないが、朝っぱらから真っ裸な同僚は「えー」と不満げな声を漏らす。

服を着ていないシャルの腕の抱かれているなど、途方も無く居心地が悪い。ユーリは彼の腕の中から抜け出そうとジタバタと暴れるも、彼女が「服を着ろ」と文句を口にした時点で、シャルは早々にユーリをむぎゅっと抱き潰す勢いで閉じ込めてきていた。


シャルさんっ!


フシャーッ! と、苛立ちの鳴き声を上げつつもがくユーリに、シャルはようやく彼女を解放した。


「まったく。自分の部屋の中でぐらい、自由な格好でいさせて欲しいものですね。

わたしは人間の服を着るのは、あまり好まないのですよ」


……部屋ではなるべく服を着ていたくないって、シャルさんフリーダム過ぎではないでしょうか?


恐らくユーリがこの部屋で暮らすようになるまでは、シャルは『自室で裸族生活』を送っていたのだろう。何しろイヌだし。

腕から解放され即座に床に降り立ったユーリはプイッとシャルから顔を背けながら、いつものように仕切りを回り込んで自らの服が仕舞い込まれているタンスの前にお座りした。

仕切りの向こうの背後では、シャルが渋々と身仕度を整えているらしき小さな衣擦れの音が聞こえてくる。


主~、あ~る~じ~っ。

おはようございます、着替えたいので人間に戻して下さ~いっ。


むむむむ……と、ユーリは全神経を集中させながら念じ、しばし大人しく待つが、カルロスからのお返事はいつまで待っても返ってこない。

どうしたものかと小首を傾げたユーリは、ひとまず仕切りの影から共同部屋の……有り体に言えばシャルの様子を窺ってみる。

動きやすい服装に身を包み、靴紐を結び終えたシャルは、続いてブラシに手を伸ばしているところだった。

もう大丈夫そうだと判断を下し、ユーリはトテトテと同僚の足下に近寄る。


シャルさん、私も着替えたいのですが、主の反応が返ってこないんです……


しゅん、とうなだれるユーリを見下ろしながら髪を梳きつつ、シャルは「ああ」と頷いた。


「マスターは寝ぎたないですからねぇ。この刻限では、まだ夢の中でエステファニアお嬢様との逢瀬をお楽しみ中でしょう」


サイドに纏めた銀髪を、器用に黒いリボンで一本に束ね、キュッと結ぶ。相変わらずその指捌きは非常に素早い。


主がお休み中では、私、しばらくはネコのまま……


ガックリとうなだれるユーリをヒョイと抱き上げて寝藁の上に腰を下ろしたシャルは、彼女を膝に乗せておもむろに朝のブラッシングを始めた。人間の姿に戻れれば自分で髪に櫛ぐらい入れるのだが、この、主の趣味集大成的にゃ~んな姿では、日常生活すらままならない。


ユーリの毛並みを綺麗に整えたシャルは、立ち上がってブラシを仕舞うと、彼女を抱き上げたままスタスタと仕切りを回り込んだ。

そのままユーリのタンスに直行して迷わず引き出しを開け、中からピンク色のリボンを取り出す。


「今日はどうせ遠出しますからね。

あなたが人間の姿のままでは、道中でわたしの背中から落ちそうですし。そちらの姿のままの方が良いのではないですか?」


そんな何気に失礼な予想を立てつつ、シャルはユーリの首に器用にリボンを結んだ。今日も可愛い蝶々結び。


この姿のままって、シャルさん……その方が空飛ぶシャルさんの背中から落下率が高そうなんですけどっ!?


思わずビシッとネコパンチでツッコミを入れると、シャルは得意げに含み笑いをしだした。

おもむろに自らのタンスに歩み寄り、中から見覚えのある黒い生地を取り出す。

ユーリを床に下ろし、彼はそれをどうだっ! とばかりに両手で広げて見せ付けてきて……


えーとそれは、以前隠密夜間飛行の際に、シャルさんが身に纏っていた照る照る外套ですよね?


「『晴れろぽかぽか』外套?

……これは、わたしの飛んでいる姿を目立たなくする為に着ていた外套です。

それよりユーリさん、ここに注目して下さい」


そう言ってシャルは、本来の着こなし方では背中に当たるが、照る照る外套ルックとしては前面でお腹の辺りを指し示した。

言われた通りにそちらをよく見てみると、外套と同じ生地で大きなポケット一つ、ど真ん中にど~んと付いている。


ポケットですね。マレンジスの外套って、変わったデザインなのですねぇ……


「何を仰っているのですか、ユーリさん? もちろんわたしがわざわざ、チクチクと針仕事をして付け足したに決まっているではありませんか」


同僚はえっへんとふんぞり返って、鼻高々である。


はあ。


「まったく、あなたは飲み込みが悪いですね。

つまり今日は、わたしが人間の姿でこの外套を纏って移動し、あなたはその道中、ネコ姿でここに放り込まれて運ばれるんですよ」


……は、はあ。


確かに、常にシャルのポケットの中という場所ならば、空中を移動中に落っこちたり、森探索中にはぐれたりといった懸念はせずに済むかもしれない。


照る照るコソ泥ルックの次は、照る照るカンガルースタイルですか……


この同僚が大真面目に繰り出すコスプレは、なかなかに芸域が広い。



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