3
初めて出会った時、悠里が彼に抱いた印象は『男のクセに、髪がツヤツヤな濡れ羽色で羨ましい』だった。
そのアパートへは、受験した大学の合格発表前から目星を付けていた。部屋を借りる店子は近隣の大学や高校に通う学生が多く、壁は薄く大抵の物音は丸聞こえだが風呂とトイレが付き、家賃も良心的。
母と暮らしていたマンションを引き払い、そのオンボロ……もとい、数多の歴史を刻んだアパートへとお引っ越しをし、どこか拭えぬ不安を抱きながら新生活を始めたのだ。
「ふぁ~」
今日から通う事となる大学の正門を潜り敷地内へと足を踏み入れた悠里は、その広いキャンパスに思わずキョロキョロと辺りを見回してしまった。
桜並木の広場、そのあちこちに折り畳み式のテーブルが出されていて、この大学に通う先輩らしき人々があっちでもこっちでも新入生達に声を掛け、我先にと勧誘合戦を繰り広げている。
悠里はなんとなく、自分の服装を見下ろした。小さな花柄がさり気なくプリントされたワンピースに、ピンク色のブラウス。頭に手をやると、何色にも染めずに編んでも結ってもおらず、カールを付けている訳でもない、ただのロングストレートの髪の毛がストンと指先を滑ってゆく。
周囲の人々のファッションと比べて……なんとも垢抜けておらず、地味かもしれない。そんな風になんとなく、落ち込んできてしまう悠里の肩に、突如ポムと何かが乗せられた。
「ねっ、ねっ、君、新入生だよね? うちのサークル入ってみない? 天文サークルなんだけどっ」
ギョッとしてそちらに視線を向けた悠里は、見知らぬ勧誘男から注意を引く為に軽く肩に手を置かれたらしかった。彼女が目を向けるその前に、先輩らしき勧誘男は悪意も下心も無い事を示すかのように、悠里の肩から素早く手を撤退させ、両手を顔の前に上げてにこやかな笑みを浮かべている。
「あっ……えっと……」
「今日ね、新歓コンパやるんだ! そっちに顔出すだけでもどう?
無理にサークルに入ってくれなくても良いからさ、皆で楽しくご飯を……っ!?」
「ひっ!?」
「そこの君、テニスに興味は無いかい?」
「皆で楽しく科学実験!」
「黙れこの、腐れマッドサイエンティスト集団!」
「うるさいタカビーテニスマニア!」
「うちのっ、うちのサークル、人数が少なくてこのままじゃ……無理に活動してくれなくても良いっ。名前だけでも貸してくれませんかぁぁぁっ!?」
な に ご と だ !?
一番最初に話し掛けてきた、天文サークルの勧誘員の先輩を突き飛ばす勢いで続々と悠里の周囲を取り囲む、各所サークルの勧誘先鋒陣。
悠里が答える前に、ナンパっぽいが人は良さそうな天文サークル員は、勢いに押し出されて体勢を崩して転びかけ……
「おっと。大丈夫ですかぁ?」
悠里は謎の緊急事態に混乱をきたし、好き勝手かつ口々にまくし立てる勧誘員達に答える事も出来ず、振り切る方法も分からない。
あうあうと無意味に唇をパクパクさせるしか出来ないまま取り囲まれる悠里の傍らを、素知らぬ顔をしてそのまま通過しようとしていた男子学生が、目の前で人が転ぶ事までは見て見ぬ振りが出来なかったのか、すかさず両腕を差し延べて転倒を防ぐ。
「あ、ああ、ありがとう。君も新入生? 星とか興味無い?」
「星……星座を眺めるサークル?」
ナンパっぽい気質が見え隠れする天文サークル勧誘員は、取り囲まれた悠里にあっさりと見切りを付けて、新たなる獲物に標的を切り換えた。素早すぎる。
そんなやり取りを視界の端に納めつつ、四方八方から懇願されたり目の前で対立されたりといった混乱の真っ只中に放り出されている悠里は、なんとかその場から逃れようと人の隙間の抜け道を探っていた。
「ん~、新歓コンパねえ。んじゃ今日はそれ参加しちゃおっか、花子ちゃん」
突如そんな言葉と共に、悠里は急に右手を掴み上げられて人の輪から引きずり出される。彼女へ向けて謎の発言をかました主は、例の天文サークル員を支えて勧誘されていた新入生らしき男子学生で……
「は!?」
「って訳で、この子売約済みだから。はい散った散った」
話に付いていけずに狼狽える悠里をヨソに、彼女の右手を掴んだままもう片方の手で『シッシッ』と、勧誘先鋒陣の面々へ向けて追い払う仕草をみせる。1人でも多くの新入生獲得を命じられているらしき彼らは、望み薄と感じ取るや即座に身を翻して新たな獲物を求めて駆け出した。
結局、悠里が一言もまともに口を挟む隙さえ無いまま、幻のように実に呆気なく嵐は過ぎ去っていく。
彼は悠里を見下ろして、掴んでいた手を放すとそのまま彼女の頭に軽く置いて髪を一房梳き、ニッとどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「桜の花びら、頭に乗っかってたよ、花子ちゃん?」
抜けるような青い空には雲一つ浮かんでおらず、まだ冷たく感じる風は薄桃色の花弁を艶やかに舞い上げ青に溶けてゆく。
そんな情景をバックに、彼女の髪から薄い花びらを指先に挟んで振ってみせる彼を見上げた悠里は、些かズレた感想を抱いたのだ。
即ち、『男のクセに、髪がツヤツヤな濡れ羽色で羨ましい』と。
それが、野々村との出会いだった。
その数時間後、なし崩し的に参加させられた天文サークルの新歓コンパにて、野々村とは同じアパートに住まうご近所さんであるという事実が発覚し、悠里は些細な疑問を覚えて少し首を傾げたのだ。
……はて。アパートに越してきてすぐにお引っ越しの挨拶回りをした時、野々村とは顔を合わせていないのは何故なのだろうか、と。
――あのさ、森崎さん。折り入って話したい事があるんだけど……
「みゃ……」
「ユーリさん、ユーリさん」
「み……」
体全体が、乱暴に揺さぶられる感覚に、悠里は無意識の内に口の中だけで漏らしていた言葉にならぬ吐息と共に、ハッと両目を見開いた。自然災害といった非常事態であるならば、即座に行動に移さなくては……と、飛び起きようとするのだが、いわゆる『脳は覚醒していても体は眠っている』状況下にあり、両手両足は全く言うことを聞かずにへにゃんと突っ伏してしまう。
そんな悠里の顔面からお腹、脇腹から背中へ、何か巨大な湿っぽいモノが滑らされ……ぐにぐに押し付けられてゆく。その強さに、悠里の体は呆気なく転がされて仰向けから横向き、うつ伏せへと体勢変更を余儀なくされ。彼女が下敷きにしている何かは、チクチクと身に突き刺さるような感覚を伴う。
な、なななな、いったい何~っ!?
目を開いて見渡せど、薄暗い最中では悠里の瞳に映るのは闇と……僅かな隙間から漏れ出る細やかな光。
ジタバタともがいて体勢を立て直すも、足場のチクチクした床はあっさりと隙間を開けて手足を沈め込む。
「うにゃ~っ!?」
バタバタと、謎の物質に半ば溺れる悠里の喉からは、発しようとした言葉とは全く違う、そんな鳴き声。
「ユーリさん、今は真夜中ですよ。そんな風に暴れ回って、マスターが目を覚ましたらどうするのですか」
次第に混乱から立ち直ってくるにつれて嗅ぎ分けられるのは、ふわりと立ち上る、獣っぽい匂いと草の緑の匂い。
悠里……ユーリは、薄く仄かな月光でさえ反射し、その毛並みを輝かせる同僚を見上げて、「ふみぃ」と溜め息をついた。
寝起きの謎の災難の正体は、どうやらこの天狼さんが子ネコ姿の彼女を舌で舐めて転がしたらしい。
擬音でその情景を表すと、ベロ~ン、ごろんごろん。であろうか。
今夜からシャルとユーリの共同部屋で就寝する事と相成り、敷かれていたシーツは主人たるカルロスの体に巻き付けてくるみ、即席ミイラを製作したせいで、微妙に寝にくい寝藁の上でもう休むべく横になった……筈なのだが。
軽い子ネコの体はシャルの舌で眠っている最中に実に呆気なく転がされ、毛並みが無駄に濡れたせいで寝藁は絡まるわ引っ付くわという悲惨な状況に陥っているらしい。
シャルさん……何故急に私を揺さぶり起こしたりなどするんです?
せっかく眠っていたのに……と、不満を露わにするユーリに、シャルは不機嫌そうにあふ、と欠伸を漏らした。
「あなたが眠りながら、うなされていたからですよ。安眠妨害されたのはこちらの方です」
眠る時は、大抵本来の姿である天狼の姿に戻るというシャルは、狭くなった寝藁の上に優雅に寝そべって両前脚を軽く組み。腹の辺りにシーツミイラ……もとい、主人たるカルロスの頭を乗せられたまま、鼻面を左右に振った。心なしか、彼もまた寝ぼけ眼なように見える。
「何か悪い夢でも見たのですか、ユーリさん」
パッタパッタと、シャルの尻尾が動いて寝藁を打っているらしき微かな物音が、静かな暗がりから聞こえてくる。
もぞもぞともがいて藁の海を泳ぎ、ユーリがシャルの鼻面の辺りににじり寄ると、彼はユーリの顔面を大きな舌でベロンと一舐めしてきて、その勢いに押されて危うく首がもげるかとさえ思ったユーリである。
何か悪い夢……って、私、何を唸っていたんでしょう?
「頻繁に『にぁ~』と口にしていましたよ。とても嫌そうでしたけれど、『にぁ~』とは何の事です?」
本来の体よりもかなりか細い子ネコの首、後ろの辺りがズキズキと痛むのを堪えながら問い掛けると、逆に同僚から質問され返されてしまった。
……すみません、『にあー』とは何か、私にも分からないのですが。
「『にあー』ではありません。『にぁ~』です」
全く心当たりがなかったので正直にそう答えたというのに、シャルは細かく発音の違いに訂正を入れてくる。
『にあ~』ですか?
「違います『にぁ~』です」
ユーリは眉を顰めつつ、再度言い直してみるも、因縁をふっかけてくる小舅並みに細かいシャルは、まだまだ違うとダメ出しをしてくる。ユーリとしては、どこがどう違うのか全く理解出来ないほど小さな差異である。
……というかシャルさん。仮に正確に発音出来たとしても、ただ音をなぞるだけでは、どんな意味なのかと問われても全然分かりません。
しばし『にぁ、にゃあ、なう~』と四苦八苦しながら鳴いていたユーリは、ハタと我に返ってその明確な点に思い至った。
「それもそうですね。やれやれ、ユーリさんのせいですっかり目が覚めてしまいました」
ユーリを起こしたのはシャルの方であるというのに、天狼さんは気怠げに嘆く。
ねえ、シャルさん。そもそもシャルさんは私の言っている事が分かるんだから、その謎の『にぁ~』の意味がどうして分からないんです?
ユーリは組まれたシャルの両前脚の上にぽすっと自らの頭を乗せて、背中を丸めてゴロ寝体勢に入りつつ、不可思議な点について言及してみる。
頭上のシャルはすり寄ってきた子ネコを振り払うでもなく、毛繕いでもするかのようにユーリの後頭部から背中へと舌が滑ってゆく。
動物は、気を許した相手を舐める習性があるという。ユーリがこんな風に、シャルから頻繁に舐められるようになったのは、そう、かなり大きな進展ではないだろうか。
寝返りの要領で、ゴロンと横向きから仰向けになると、シャルの金色の瞳と眼が合った。
「よろしいですか、ユーリさん。わたしとあなたが意志疎通を交わしているこの言語は、マスターから焼き付けられた『大陸共通語』です。
平たく言えば、それに存在しない単語は耳で拾った音を繰り返すしか無いではないですか」
同僚に対して内心かなり気を許しているらしき行動を取る割りには、相変わらずシャルの発言には冷ややかというかトゲがある。ユーリはめげずに再び口を開いた。
つまり、私は寝ぼけて『大陸共通語』に翻訳出来ない日本語を呟いてたんですね。ネコ姿のまま。
ユーリが見ていた夢からして日本特有の何か、もしくは固有名詞か何かだろうか。
あまり良い夢見ではなかったな、今度は楽しい夢を見たいものだと考えながら、チラリと同僚の腹の辺りに視線を投げかけると、主人たるカルロスは先ほどと全く変わらぬシーツの怪人スタイルのまま、健やかな寝息を立てている。
それにしても主、我々がこれだけ騒ぎ立てても起き出さないだなんて……よほどお疲れだったのですね。
そんな呟きを漏らしながら、シャルの前脚の上で無意味にゴロンゴロンしてみていたら、彼は鼻面を寄せて彼女の動きを止めた。
「ねえ、ユーリさん。前々からずっと気になっていた事があるのですが」
はあ、何ですか?
シャルはお腹の辺りに体重を預けているカルロスの頭に鼻面を向け、ペロペロとその頬を舐めてやってから、改めてユーリを見下ろした。
細やかな動き一つで、その見事な銀色の毛並みは月光を捉えて反射し、白く美しい輝きを弾けさせる。
やっぱりシャルさんは綺麗だなあと、呑気な感想を抱いているユーリに、彼はかねてより抱いていたという疑問を差し出した。
「マスターはこの通り、人間の中でも魅力的なオスだと思うのですが。
どうしてユーリさんは、マスターと子作りなさらないのですか?」
シャルからの思いがけない質問に、ユーリはむっくりと身を起こし……取り敢えず、ほけっとした表情にしか見えぬシャルの鼻面に、ネコパンチを全力で連打しておいた。




