第104話 東播磨の風
天正七年(1579)三月中旬は、現在の暦の四月下旬にあたる。
播磨の桜はすでにほとんどが散り落ち、平井山は輝くような新緑に包まれていた。
「暖かくなりましたし、身体の方もすっかり良くなりましたので――」
平井山に戻った半兵衛は、驚く藤吉朗らに短くそう説明した。
実際、半兵衛の体調は去年よりずいぶんマシになっている。三ヶ月の療養と曲直瀬道三の尽力で、体力的にはかなり持ち直したのだろう。しかし、その病が一朝一夕に治るようなものではないことは、羽柴家の重臣なら誰もが知っている。
「よう戻ってくれた・・・・!」
藤吉朗は感情の量が多く、感動すればすぐに泣く。この時も半兵衛の両手を握り、溢れて来る涙の始末に困っているようであった。小一郎ら藤吉朗の幕僚たちも目を赤くし、感動と喜びをもって半兵衛を迎えてくれた。
たったこれだけのことで、半兵衛は播磨に帰って来た甲斐があったとさえ思った。
人間は、他人との関係の中にこそ己の価値を見出すことができる。誰をも必要とせず、誰からも必要とされない生き方に、どんな意味や価値があるというのか――
(私を必要としてくれる人々が、ここには居る)
それが、人が生きるということであると――半兵衛はあらためて思った。
藤吉朗は、平井山山麓の与呂木村の農家を一軒空けさせ、そこを半兵衛の宿舎にあててくれた。
「まずは身体を第一に考えてくれねば困る。無理に出仕する必要はないでな。半兵衛殿の知恵を借りとうなった時は、わしらがここに出向いてくりゃ済むことやで」
藤吉朗はそう言って気遣ってくれたが、半兵衛は、小具足姿に身を固めて毎日のように平井山を登り、羽柴軍の帷幕に加わった。
播磨に戻って数日で、半兵衛は三木城包囲戦の現状をほぼ把握した。
(私が播磨を離れた時とほとんど変わっていない・・・・)
変化らしい変化といえば、摂津の有馬を取り、三木城東方の別所方の拠点を圧迫したことと、平井山合戦が行われたことくらいである。
三木城への補給線はまだ完全には寸断できていない。まして、今は静かにしているものの、毛利氏がいつ別所氏救援に兵を動かすかも解らない。毛利氏は水軍を使って数千という規模の軍兵を神速で運ぶことができるのである。もしこれが播磨の海浜に突然現れたとすれば、現状の羽柴軍の備えでは防ぎ切ることは難しいだろう。
(これではおちおち死んでもおれんな・・・・)
昨年の十一月に信長に拝謁した時、半兵衛は「半年から一年ほどで三木城は落ちる」と明言してしまっているのである。信長はそうでなくとも気の短い男であり、藤吉朗がいつまでも結果を出せないようなら、これを更迭して代わりの者に中国征伐を任せるということだってあり得ない話ではない。
(ともかく糧道を断ち、三木城を封じ、城内を干上がらせる)
このことは絶対の急務であった。
「そのためには、包囲の環をさらに狭めねばなりません」
半兵衛は藤吉朗に献策し、羽柴軍に三木城を攻撃させた。
平井山合戦で多くの兵を失った別所軍だが、それでもその戦意は旺盛で、羽柴軍が寄せて来たと知るや城門を開いて打って出、美嚢川を挟んだ射撃戦となった。激しい矢弾の応酬が行われたが、補給が万全の羽柴軍は豊富な火力で敵を圧倒し、美嚢川を渡河して兵を進め、三木城の城下町をことごとく焼き払った。
こうして別所軍を城内に封じ込めると、半兵衛は三木城から半里四方をぐるりと囲い込むように陣城を築くよう献策した。柵を植え、土塁をかき上げ、野戦陣地を構築するのである。あらゆる道を関所をもって封鎖し、山中の樵道には番所を置き、美嚢川には逆茂木を沈め、鳴子をつけた縄を張るなどして通行不能にする。さらに毛利水軍の襲来に備えるため、三木城南方の高地や街道筋に砦を築かせ、兵を置いて警戒態勢を取らせる。
半兵衛は、夜ごと絵図を睨んで砦を置くべき場所を決め、日ごとに実地に足を運んで地勢を見、高所の要害や交通の要地を選んで砦の縄張りをした。毎日、毎日、三木城南方の丘や山を歩き回り、その構想実現のために汗をかき続けた。
(私の身体がどうにか動くうちに――)
最後の命を燃やすように、半兵衛は三木城包囲陣の構築に没頭した。
しかし、これだけの大規模普請をするとなると、羽柴軍とその人夫だけでは手が足りない。半兵衛は藤吉朗とも相談し、信長に支援を要請することにした。
この頃、信長は再び摂津に出向いて有岡城の城攻めを監督していた。
話を聞いた信長は藤吉朗の要請にすぐさま応え、四月上旬、長男・信忠、次男・信雄、三男・信孝、丹羽長秀、筒井順慶、越前衆(前田利家、不破光治、金森長近ら)などを続々と播磨に出陣させた。
総勢三万近いこの大軍が三木城包囲の陣城や南方の砦の構築を手伝ってくれたお陰で、普請は凄まじい速度で進んだ。そのスピードは半兵衛の予想以上で、三木城包囲態勢は半月ほどで荒々ながらもほぼ整った。
それを見届けた半兵衛は、
(たとえ私が死んでも、この備えさえ済ませておけば、もはや大局は動くまい)
そう確信した。
もう何をする必要もない。羽柴軍は陣城を堅固に守っているだけで良く、時間が経過すれば三木城は勝手に干上がり、やがては落城となるであろう。城内の別所軍にはすでに反撃の余地はなく、毛利軍が救援に来たとしても、三木城への防衛線を短期間で突破することはまず不可能である。
つまり、別所氏の滅びは時間の問題と言っていい。
張り詰めていた気が緩んだのか、連日の激務が身体の限界を超えたのか――
四月下旬、半兵衛は再び喀血し、以来、病間で床につくことが多くなった。
さて――
播磨に援軍にやって来た織田信忠らの軍団は、手伝い普請を終えるとそのまま馬を西に向け、毛利側に寝返った御着の小寺氏を攻めた。
織田軍の襲来を知った小寺政職は――呆れたことに――真っ先に城から逃亡し、毛利領の備前へと亡命した。主君に捨てられた家来たちは城に篭って絶望的な篭城戦を戦ったが、もちろん敵うはずもない。
御着城は跡形もなく焼き払われ、小寺氏はほとんど一瞬で滅亡した。
この軍団は返す刀でさらに三木城の東方へと兵を進め、美嚢郡 淡河の別所方の拠点に対して付け城の普請などを行い、これを殲滅に掛かった。
先述したが、淡河には別所方の有力武将・淡河定範が淡河城で頑張っており、また丹生山一帯の山々には別所方の砦が多数築かれ、一向門徒や一揆勢がこれを守っていた。
ことに丹生山はこのあたり随一の難所で、山城として見た場合、非常に攻め難く、守るに易い。この山頂に鎮座する明要寺は、伝承を信じるなら日本に仏教が伝わった直後に開かれたという古刹で、千年の歴史を誇っている。丹生山一帯に百余もの僧坊を持つ、播州でも有数の大寺院であった。
明要寺にとって別所氏は地元でもっとも有力な大檀那であり、数百年からの誼みがある。当然これに味方しており、毛利氏が三木城へ陸路で兵糧を運び入れる際の中継基地と食料貯蔵基地の役割を果たしていた。子飼いの僧兵、一向門徒や近在の一揆勢などが二千人ばかりもここに立て篭もり、守りを固めている。
これを討ち滅ぼすことは、織田の側からすれば必然であろう。
織田信忠を主将とする織田軍は、豊富な兵力にものを言わせてまず明要寺を力攻めに攻めた。しかし、別所方の抵抗は予想以上に激しく、丹生山の天嶮もあってどうにも攻め倦んだ。
信忠らは閉口したであろう。
信長に酷使される織田軍の将兵たちというのは常に忙しい。彼らには次の任務がすでに用意されており、この戦にばかり長々と時間を掛けているわけにもいかないのである。
信忠は、敵を抑える軍兵を付け城にそれぞれ残し、自身は四月の末に帰国した。丹羽長秀、筒井順慶、越前衆の諸将もこれに倣い、続々と摂津へと帰っていった。
この数日後の五月初旬、信長から新たな軍令書が平井山に届けられた。
それを読み終えた藤吉朗は、まるで近所に使いにでも出すような気軽さで、
「小一郎、丹波へ行ってくれんか」
と言った。
「丹波――ですか?」
「日州殿(明智光秀)がいよいよ丹波攻めの仕上げに掛かるらしい。上様は、大軍をこぞって一気に丹波を平らげてしまうおつもりじゃ。わしらには、南から丹波に兵を入れよとのご命令よ」
明智軍は、京方面――つまり東から丹波を攻めている。丹波の南方と西方から別働軍を入れ、敵を挟撃しようというのであろう。先に摂津に帰陣した丹羽長秀らは、摂津有馬から兵を北上させて丹波に攻め入る手はずになっているらしい。三木から北上して丹波に入る羽柴軍とは並走してゆく形になる。
藤吉朗は、別所討伐の総大将として播磨にあらねばならない。別働軍の大将として小一郎が選ばれるのは当然であったろう。
「播磨も片付かんうちに、また余所の手伝い戦ですか・・・・」
小一郎が苦笑すると、
「阿呆。こりゃわしらの別所攻めにも大いに験があることやぞ」
藤吉朗は真顔で窘めた。
現在、毛利氏の矢面に立って織田軍と戦っている勢力は四つある。摂津石山の本願寺、同じく摂津の荒木村重、播磨の別所氏、丹波の波多野氏がそれで、四者は互いに援け合い、励まし合いながら織田と戦い続けている。この中で、丹波という国は内陸にあるため毛利水軍の支援を直接に受けられず、波多野氏は非常に苦しい立場に立たされていた。
明智軍が連年にわたって丹波攻略を続けているため、波多野氏はすでに多くの支城を失い、主城の八上城に追い詰められている。しかも藤吉朗が摂津有馬を奪ったことによって、別所氏とも荒木村重とも連携が取れなくなり、その窮状は極まった。
(四つの敵のうち、もっとも弱っている波多野をまず潰し、丹波を取る)
と、信長は戦略変更したわけである。
四者の一角である波多野氏が滅び、丹波が織田のものになれば、他の三者も前途に絶望し、気力が萎えるに違いない。それに、丹波攻略が終了すればこれを担当していた明智軍の手が空くわけで、この兵力を他方面の増援に送ることさえできるようになる。
「波多野が滅んだとなりゃぁ、三木城に篭りおる者どもも大いに気落ちするやろ」
波多野氏は別所長治の妻の実家であり、織田家に敵対する者同士ということもあって両者は固い同盟関係にある。その波多野氏が滅びれば、別所氏としても動揺せずにはおれないだろう。
その分だけ篭城の将士の士気は落ちる――と藤吉朗は言った。
(なるほど・・・・)
小一郎は、信長の戦略眼の鋭さにあらためて感心した。
「お前に兵を三千つける。弥兵衛(浅野長政)と将右衛門も連れてゆけ」
「心得た」
小一郎は大きく頷いた。
すると藤吉朗は、小一郎の肩をぽんぽんと叩き、
「お前にもぼちぼち貫禄めいたモンがついてきたのぉ。近頃は一軍を預けても不安にならんで済む」
と笑いながら言った。
実際、但馬攻めを任され、一軍を己の裁量で切り回すようになって以来、小一郎は武将として急激な成長を遂げていた。藤吉朗が播磨に不在だった期間は、羽柴軍の総大将の代理を務め続けてさえいるが、一度も失態らしい失態を犯したことがない。
「家中の他の者に負けてはおられんで、気張って働いて来い。頼んだぞ」
藤吉朗は、そういう言葉で弟を激励し、送り出した。
小一郎は勇んで三木を出陣した。率いる三千の軍兵と共に美嚢川に沿って七里ばかり北上し、翌日には山を越えて丹波に入る。丹波南西部で敵対していた綾部城、氷上城、玉巻城などを攻め、わずか半月ばかりの間に次々と陥落させた。
これは別に小一郎一人の功ではなく、ようするに丹波の豪族たちが連年にわたって明智軍と戦い、すでに疲弊し切っていたからこその戦果ではあったのだが、羽柴軍の疾風のような勢いは、織田家の諸将を瞠目させるに十分であった。
「おぉおぉ、小一郎め、やりおるわ!」
その報告書を読んだ藤吉朗が大喜びしたことは言うまでもないが、丹波攻略戦の様子を安土から眺めている信長も、機嫌が悪かろうはずがない。それまでほとんど名も聞かなかった羽柴小一郎という藤吉朗の弟が、意外に器量があるということを知り、驚いていたかもしれない。
小一郎が意気揚々と三木に戻って来たのは、五月中旬である。
すでに季節は梅雨に入っており、連日落ちる驟雨が平井山の新緑を洗い、その瑞々しい美しさをさらに際立たせていた。
連戦連勝の小一郎の軍は、士気が最高潮に高まり、軍兵の端々にまでイケイケの雰囲気がある。
(この勢いで、ついでに淡河も取ってやろう)
と小一郎が考えたのは、その雰囲気に引きずられた部分もあったであろう。
小一郎は藤吉朗の了解を取り、三千の兵でそのまま三木城東方の淡河に入り、丹生山山麓の付け城に陣を敷いた。明要寺に降伏を勧告し、これが拒否されるや全軍を丹生山に攻めのぼらせた。
結果は、惨憺たるものだった。別所方の抵抗は一揆軍とは思えぬほど頑強で、天嶮を生かして高所から鉄砲を撃ちかけ、矢を射かけ、大岩を落とし、あるいは煮えた湯を頭上から浴びせかけるなど、あらゆる手段を使って羽柴軍を滅多打ちにした。
羽柴軍は数百人の死傷者を出し、惨敗した。死者の遺体を回収することさえできぬまま、小一郎は全軍に退却を命じねばならなかった。
(な・・・・なんちゅうことや・・・・)
報告される被害の凄まじさに、小一郎はほとんど呆然とした。
が、後悔しても後の祭りである。
言い訳も、責任転嫁もできない。戦に負けたことも、多くの者を無駄に死なせてしまったことも、責任はすべて小一郎にあるのである。小一郎は、生まれて初めて敗軍の将となった。
(わしゃ大たわけじゃ。知らんうちに驕っておった・・・・!)
と、痛烈に思った。
あらためて振り返ってみると、いつもいつも、小一郎は場当たり的に戦をやっていた気がする。但馬では信長の威光によって、あるいは彼我の兵力差によって、丹波では敵が疲弊し切っていたために、たまたま何度か勝ち戦が続いていただけだったのに、いつしか「自分は戦えば勝てる」というようなとんでもない勘違いをしていたのではないか――
「勝兵はまず勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵はまず戦いてしかる後に勝ちを求む」
「名将は、あらかじめ必勝の態勢を築いてから戦を始め、凡将は戦を始めてしまってから勝とうとする、というような意味ですね」
「――これは、簡単なようでいて、なかなかに難しいことなのですよ」
ずっと以前に半兵衛から聞いた言葉である。
痛恨の敗戦を経験することで、小一郎はその言葉の重さをようやく実感することができた。知っているという事と、解っているという事は、まったく別の事なのだということを、痛感させられた。
(凡将のくせに――分もわきまえず、舞い上がっておった・・・・)
己の愚かさと不甲斐なさに、悔し涙が溢れた。
全軍を山麓の砦に収容して守備の態勢を整え、浅野弥兵衛らにその堅守を命じた小一郎は、その夕刻、わずかな供を連れて馬を飛ばし、志染川の土手を西へと駆けた。
淡河から平井山までは、わずか三里――急げば半刻(一時間)も掛からない。
山麓の与呂木村に駆け入り、小一郎はその足で半兵衛の病間を訪ねた。
「あぁ、小一郎殿――」
半兵衛は夜具から半身を起こし、いつもより少しだけ弱々しい微笑で小一郎を迎えてくれた。
その姿は、半月前とは見違えるように衰えていた。あの時からさらに痩せ、肌の色は透き通るように白く、手首などは静脈が浮き出て見える。時折、懐紙で口元を隠し、コンコンと乾いた咳をした。
(半兵衛殿・・・・)
小一郎は胸がつまった。
こんな幽鬼のような姿になった半兵衛にさらに難題を持ちかけ、その心痛を増やそうとしている自分が、無性に情けなく、やり切れなかった。
半兵衛はすでに病間から出ることはほとんどない。それでも、小一郎の淡河攻めについては耳に入っていたようで、余計な説明をすることなく話はすぐに通じた。
小一郎が今日の不甲斐ない大敗を語ると、
「勝った負けたは武門の常――勝つ日があれば、負ける日も当然ある。いちいち気に病まれることはありません。今後の糧となさればよろしいのです」
と優しい言葉を掛けてくれた。
「負けを知らぬ者は、いつか必ず大きく躓きます。ここで負け戦の味を知ったことは、小一郎殿のこの先にとって、必ず大きな宝になりますよ」
半兵衛は近侍に白湯を持って来させ、それを小一郎にも勧めた。
「丹生山のことは、私も気になってはおりました。三木城包囲の備えが出来たとはいえ、織田に歯向かう者たちが集まる敵方の砦を、そのまま放っておくわけにもいきませんからね」
半兵衛は半身をひねって背後にある書籍の山の上に置いてあった絵図を取り、
「これは――手の者に調べさせた明要寺と丹生山の絵図です」
と言いながら夜具の上にそれを広げた。
一見して小一郎は驚いた。山の登り口、道筋、難所、明要寺の僧坊や塔頭、置かれた小砦まで、実に細々と描き込まれている。ここまで正確で精密な絵図は、丹生山を攻めた小一郎でさえ持っていない。
「丹生山はまさに天嶮の要害――明要寺をまともに攻めれば、少なくとも数百、あるいは千、二千の手負い・人死にが出るのではないか――と、考えておったところです。小一郎殿がこれを落としに向かったともう少し早う耳にしておれば、用心を促すこともできたのですが――申しわけありませんでした」
それが自分の落ち度でもあるかのように半兵衛は謝った。
「とんでもない。此度のことは――すべて、わしの浅慮が招いたものです」
半兵衛はわずかに微笑し、話題を移した。
「二万、三万という兵があるならともかく、我らだけの力で明要寺を一気に抜くことは難しいと思います。しかし、これを囲うて兵糧攻めにしたところで、敵の糧食の貯蔵は十分――夏と秋は山の実りも採れますし――おそらく一年は降参しますまい。丹生山ひとつにそれほどの手間と時間を掛けるわけにもいきません・・・・」
そう言うと半兵衛は湯で喉を湿らせ、大きく一息ついた。
「色々と考えてはみましたが――丹生山を日数を掛けずに落とすとすれば、奇策を弄するよりないと思います」
「奇策――ですか・・・・?」
半兵衛は再び近侍に声を掛け、ある家来の名を挙げ、それを呼ぶよう言いつけた。
しばらくすると、次室の襖が外側から叩かれたようなわずかな音を立てた。人の気配はなかったし、もちろん足音なども小一郎には聞こえていない。
「開けよ」
半兵衛の声に応じて中から襖が開かれる。
見ると、薄闇の中に数人の人影が控えていた。
「あれらは私の目となり耳となっておる者たちです。この絵図を描き上げたのもこの者たちで――丹生山の山々についてもよう知っています」
忍びの類なのであろう。一味の頭格か――もっとも前に座る年長の男がわずかに頭を下げた。小一郎とは目を合わせようとせず、床板を眺めている。よく日焼けした顔は百姓のように篤実そうで、壮年のようにも中年のようにも見える。取り立てて特徴のない茫洋とした雰囲気だが、そのことがかえってある種の怖さを小一郎に感じさせた。
「この者たちを夜陰に紛れて明要寺に忍び込ませ、寺の主立つ建物に火を放たせます。それを合図に、山麓から兵を攻めのぼらせる。敵が火災で混乱するに乗じ、一息に山腹まで攻め寄せ、山ごと寺を焼く。さすれば一揆の者たちは拠るべき城砦を失い、おのずと山から逃げ散りましょう」
「・・・・・・・・・・」
小一郎は言葉を失った。
寺社に対して焼き討ちせよなどということを、半兵衛が口にしようとは、思ってもみなかったのである。
「明要寺を焼けと・・・・」
呟くように言うと、半兵衛はわずかに視線を落とした。
「好むものではないですが、他に手がありません」
「それは――そうなのかもしれませんが・・・・」
「明要寺を残しておけば、仮に一揆の者たちを退散させたとしても、彼らは蝿のように戻ってきて再び我らの背後を騒がせるでしょう」
そうならないよう、拠点そのものを消滅させておかねばならぬ、というのが半兵衛の意見であるらしい。
半兵衛の選択は、おそらくは正しいと、小一郎も思う。味方にできるだけ死傷者を出さず、しかも迅速に丹生山を落とすには、それが最善手であるに違いない。
しかし――
「明要寺は、千年の古刹。ましてあそこには近在の領民も多く篭っておるやに聞きます。一向門徒や僧兵どもはともかく、淡河の百姓たちを寺と共に焼けば――我らに対する恨みがかの地に長く残り、その後の仕置き(政治)にも障りとなるのでは・・・・?」
「そうですね・・・・」
半兵衛はその点には反論しなかった。
「ですが、一向門徒とそれ以外の領民を見分けるすべなどありません。明要寺にあくまで篭りおる者は、敵に合力する者と看做して討つほかありますまい」
その表情は、水のように淡々としている。
(半兵衛殿・・・・)
小一郎は、なぜだか無性にもの哀しい気分になった。
以前の半兵衛ならば、こういう手段は決して選ばなかったように思うのである。
下衆の勘ぐりかもしれないが、
(生あるうちになんとか別所討伐に目鼻をつけておかねば・・・・)
という焦りが、半兵衛の視野を狭めているのではないか――
「小一郎殿は、ご気性がお優しい・・・・。それはそれでとても良いことだと思いますが――この役は、お辛いかもしれませんね・・・・」
半兵衛の言葉で小一郎は我に返り、慌てた。
そもそも半兵衛の知恵に縋ったのは小一郎なのである。小一郎がそれをせねば、他の誰かがそれをすることになるかもしれない。丹生山攻めに失敗し、多くの味方の血を無駄に流させた小一郎にすれば、その尻拭いを別の者にされたのでは、武将としての面目は丸潰れになる。
いや、面目とか功名争いとかいうことではなく、多くの家来を死なせてしまった者のケジメとして、丹生山は自分の手で落とす――と、小一郎は固く心に決めていた。
「いえ。わしがやります。お知恵、ありがたく拝借します」
きっぱりとそう明言し、半兵衛に頭を下げた。
半兵衛の家来たちを借り受け、小一郎はその夜のうちに丹生山に駆け戻った。
付け城で陣を張り、丹生山系の山々を睨みつつ雨が止むのを待った。
たまたまその翌々日の夜から雲が去り、梅雨の合間に二日ほどの晴天が続いた。
「今宵、明要寺に夜討ちを掛ける!」
決行は、五月二十二日の夜と決まった。
羽柴軍は丹生山山系の山々に火を掛け、砦を焼き討ちにし、山頂の明要寺と山中に散らばる百余の僧坊、塔頭を焼き滅ぼした。堂塔伽藍を焼き尽くし、僧俗を問わず皆殺しにまでしたというのは、これまで人を無用に殺すことを嫌ってきた羽柴軍にしては、異例と言うしかない。ましてその指揮を執ったのは、元が百姓の小一郎である。性格として戦に無辜の民を巻き込むことを好まないし、その恨みを買うことも嫌う。
軍配を握りつつ、内心は忸怩たる想いであったに違いない。
蛇足ながら、この丹生山山系に「稚児ヶ墓山」という名前の山がある。この名は、羽柴軍に虐殺された明要寺の稚児たちの亡骸を里人がその山頂に埋葬したことに因んでいるという。この蛮行が、そういう形で永遠に記憶されるということを、半兵衛は果たして見通していたであろうか・・・・。
藤吉朗は播磨平定後に明要寺を再建しているが、地元の人々は羽柴軍がやった殺戮を長く忘れなかった。
丹生山の敵の拠点を焼き払った小一郎は、軍を反転させて一里北方の淡河城へと攻め寄せた。
淡河城は淡河川支流の河岸段丘に築かれた丘城で、本丸、二の丸、三の丸と曲輪が切られた城域はなかなか広い。丘の比高は二十メートルほどでそう高くはないが、城の東西北が切り立った断崖となっており、織田信忠らが攻め倦んだことでも解る通り要害は決して悪くない。別所随一の合戦上手として名高い淡河 弾正 定範がここに拠り、五百ほどの兵と共に防備を整えて待ち構えていた。
今回は、小一郎に油断も慢心もない。
敵城の備えをあらかじめ入念に調べ、丘の斜面や大手の道に菱が撒かれ、多くの罠が仕掛けられていることもちゃんと見抜いた。軍兵たちに十分の用心をさせ、大手、搦め手から正攻法で攻め寄せた。
序盤は射撃戦である。激烈な矢弾の交換が行われたが、これは羽柴軍が火力で圧倒した。
援護射撃を受けながら、羽柴軍の武者たちが寄せに懸かる。すると、城の大手の城門が突如開き、中から数十頭の無人の牝馬が溢れ出し、茶色の奔流のようになって一斉に丘を駆け下って来た。
うろたえたのは、羽柴軍の武者たちである。乗馬が驚いてあちこちで暴れだし、ことに牡馬は興奮して狂ったように嘶き、跳ね回り、先陣にいた数百頭がそれぞれ牝馬を追って十方に駆け出した。乗っていた武者は多くが振り落とされて負傷し、運の悪い者は牝馬の洪水の中で馬に蹴られ、あるいは踏まれ、あるいは跳ね飛ばされた。
大手前の主戦場は、一瞬で収拾のつかない大混乱となった。
この機を、淡河定範は逃さない。
三百の兵が鬨を上げ、まっしぐらに坂を駆け下って羽柴軍に槍を入れ、これをたちまち突き崩し、坂下へと蹴落とした。指揮系統が無茶苦茶になった羽柴軍の先陣はこの強襲にまったく歯が立たず、わずかの間に百余人もが討ち取られたという。
淡河勢は羽柴軍の首をひっさらうようにして素早く兵を返し、再び城内に逃げ込んで守勢を取った。
(戦にこんな法があるのか・・・・!)
小一郎は愕然とせざるを得ない。
ともかく敗兵を収容し、陣を立て直し、負傷者を後送するなどの作業でおおわらわとなった。
ほどなく日が暮れる。夜の城攻めはしないのがセオリーであり、今日の場合は兵の損耗も酷い。小一郎は野陣を敷き、敵の夜討ちを警戒しつつ全軍に休息を与えたのだが、小一郎がもっとも驚かされたのは、この夜であった。
淡河城が、突然にあちこちから火を噴いて燃え出したのである。
「なんじゃ!? どうした!?」
城内に裏切り者でも出たのかと思ったが、内通する者があるなどという話は小一郎は聞いてもいない。呆然とそれを見守っていたが、火勢は明け方までまったく衰えず、ついには城があった丘の全域をほとんど焼き尽くした。
翌朝、夜明けと共に淡河城を調べさせてみたが、すでに敵兵は城内に一人もいない。焼け落ちた城跡があるのみであった。
淡河定範は、夜陰に紛れて鮮やかに城から軍勢を退去させていた。
定範にすれば、どれほどこの淡河城で粘ったところで結局は多勢に無勢であり、滅びざるを得ないということが解っている。二度、三度、羽柴軍を破ったとしてもいずれは敗北するしかなく、淡河勢が滅びれば三木城の別所軍は落胆し、その士気をさらに下げることになるであろう。
それならば、無駄な兵の損耗は避け、奇策をもって羽柴軍を痛撃し、その勝利をひっさげて城を放棄し、三木城へと退去する方が賢い。局地戦とはいえ羽柴軍に勝ったと聞けば三木城の者たちは喜び勇むに違いなく、精強な淡河勢が三木城に入れば守戦の援けにもなり、味方の士気を高めることにもなるのである。
地元の地理を知り尽くす淡河勢は夜の闇の中を間道伝いに北へと駆け、羽柴軍の警戒線を大きく迂回する形で北方から三木城へ向かった。
羽柴軍の包囲陣は、毛利水軍への警戒感から瀬戸内海に面する南方の備えが手厚く、逆に平井山に大軍が駐屯しているという油断からか北方の備えが薄かった。淡河定範はすでにそのことを探知しており、これを逆手にとって北から三木城へと突っ込んだ。
藤吉朗も仰天したであろう。
敵襲を告げる鐘の音で黎明に叩き起こされたが、薄闇で視界が利かず、状況がまったく解らない。続々と入る報告を総合してみると、どうも敵勢が美嚢川支流筋の防御柵を裏から突き破り、平井山の西方をかすめて三木城へと駆けているらしい。敵は前面の三木城からではなく、真逆の北方というあり得ない方角から現れたのである。しかも、その旗印は小一郎の軍勢にまさに攻められているはずの淡河勢――!
「なんじゃぁ!? 何が起こった!? なんで淡河弾正が湧いて出る!?」
鼻先の闇の中で起こっている事態が、まったく信じられなかったに違いない。
「えぇい! 何をしておる! 敵を追わんか! 陣貝を吹け!」
藤吉朗は叫んだが、羽柴軍が大慌てで出陣の支度をしている間に淡河勢は美嚢川を渡河し、悠々と三木城へ入った。わずかに駆け出した者たちも淡河勢の足に追いつけず、虚しく引き上げて来ざるを得なかった。
結局、淡河定範にはやられっぱなしの形である。
「花も実もある武将というのは、あの淡河弾正のような男のことやぞ。その武略といい主家に対する忠節といい――敵ながら天晴れ、見事と言うほかないわ」
藤吉朗にすれば、敵将を褒めることでわずかに自尊心を保つしか手がなかった。
淡河定範が三木城に入ったことで三木城東方の敵はいなくなり、ともかくも淡河掃討戦は終わ
った。
がっくりと肩を落とした小一郎が平井山に戻ったのは、五月の末である。




