十五. 1868年、大坂
1868年、大坂
「人手が足りない!」
大坂城幕府侍医・松本 良順は高い天井の下叫んだ。怪我人が続々と運ばれて来る。城内は怪我人で溢れ返りつつあった。
新選組本陣は大坂に下り、大坂城に居る近藤達と合流した。大坂城には凄腕の医師・松本 良順が居る。
沖田隊の隊士達が怪我人の搬送に控えている中、佐倉は沖田の看病に従事していたが、
「佐倉っ・・・ちょっと来い」
八十八に突如呼び出され、沖田の傍を離れざるを得なくなった。八十八にしては珍しく余裕が無い。眼が潤んでいる様で、黒眼がより大きく見えた。絹ごし豆腐の様な頬もいつもより輪を掛けて白く見える。
「・・・沖田先生、少し、行って来ます」
同じ位顔色の白い沖田に向かって佐倉は声を掛けた。沖田の白さには死相の蒼さが混じっている。沖田は返事をする代りに
「・・・・・・佐倉、さん」
と、か細い声で佐倉を呼ぶと
「・・・・・・気だけは・・・確かに」
と、だけ言った。佐倉はそう言われただけで気が狂いそうになる。沖田がどの様な意図を以てそう言ったのかは判らないが、自分の心の奥底も之からの運命も凡てこの男は見透かしている気がして、以前の様に胸板に縋りついて泣いて仕舞いそうだった。
その胸はもう、自身のものより薄い。
「・・・・・・尾形さん」
・・・・・・程無くして襖がスッと開き、尾形が沖田の部屋に入って来た。尾形は先程まで着ていた緋色の袴衣装ではなく、白衣姿であった。
「・・・・・・敗られてきましたか」
沖田は力の無い笑みを浮べ、穏かに訊いた。どんな答えでも沖田は冗談にして蟠りを解く或る種天性の技を持つが、この男は其とは対極に位置している。
・・・答えない。
「・・・・・・監察は」
と、尾形はこの質問から逃げはしなかった。敗られた、と尾形の口からは言えない。其は近藤の代理指揮官である土方が決める事だ。尾形が把握しているのは、目付として総轄している監察方の事のみ。
「死者1名、重傷者1名、安否不明者1名という有様だ」
「・・・・・・」
白衣と共に肌を覆う白い晒は何重にも厳重に巻かれているにも拘らず、緋が滲み始めている。純白を蝕む緋をぼんやりと見つめながら
「・・・・・・2名なんじゃないかなぁ」
と、沖田は呟いた。
「山崎さんに何かあったでしょう」
沖田は突然話題を変えた。口調は世間話の様だが、中身は怖ろしい程現状を鋭く見透している。之には尾形も面喰らい、無視する事は出来なかった。
「・・・・・・銃で撃たれて意識が無い」
尾形は飾り気の無い言葉で答えた。彼岸の世界が視えるからか、世界というものを悟りつつあるこの青年に気休めの言葉など無駄でしかない。労咳という死病に侵されて以来、沖田は剣客であった時以上に感覚が研ぎ澄まされている時がある。
「・・・付いていてあげなくていいんですか」
「私は貴方の前以外に姿を出せない。佐倉さんが崎さんに付いている間、私が貴方に付く。最後に薬を飲んだのはいつです、沖さん」
ああそうでしたね。沖田はのんびりと言った。近藤先生も非道い事するなぁと取り留めも無く思う。
「山野さんがね、佐倉さんをわざわざ呼んで来てくれたんですよ。其でね、一刻を争う容体なのかなって思ったんです」
「・・・・・・沖さん」
沖田は何が可笑しいのか淡く微笑んだ。尾形は薬缶を揺らす。軽かった。缶の中身が切れている。
「・・・・・・法眼のお作り為さった薬は何処へ」
「私預りの隊士ながら、よく出来たものだと思いましたよ。現実から目を背けるのは、私も良い事だとは思えませんから。
でも、私は山野さんの事も心配しているんです。だって山崎さんは―――・・・凸凹三人組の、同期でしょう?」
「・・・・・・・・・」
―――・・・尾形は、湿り気を帯びた眼で沖田を見つめた。・・・薬缶を持った侭立ち上がり、背後の襖に手を添える。
「・・・・・・薬を」
戴いて来る。乾いた声が過ぎ去って、沖田はゆっくりと目を伏せる。口を押え、噎ぶ。寄せられた眉は悲しげであった。病の苦しみだけではない遣り切れなさが、襖が閉められてからどっと溢れてくる。
「―――沖さん」
襖の向う側にあってくぐもった声が思いの外近くで聴こえ、沖田ははっと顔を上げた。尾形は沖田のすぐ裏側にいる。
「・・・貴方は凸凹三人組の事よりも自身の事を考えた方が良い。身体に障る。・・・・・・其に、崎さんには借りがある。心配せずとも私はもう逃げまい」
沖田は背後に残された僅かな気配に気づけなかった現実に己の剣客としての衰えを痛感した―――・・・が、崩れそうな顔を崩すまいと歪めて苦笑し
「そういうのじゃないんですよ、そういうのじゃ・・・」
と、か細く独り言を言った。
「・・・・・・山崎さんの時期の人達は、皆自分の事よりも他人の事ばかりだ・・・・・・」
八十八が、ごった返す城の入口で傷病人の交通整理を行なう。山崎は既に土方自らが肩を貸し、奥の部屋へと運ばれていた。異常な程に冷静に其に同行した佐倉も彼は見送っている。
「力さん」
―――大方の隊士が入城し、入口が空いてきたところで、入口付近で傷病者の運搬を手伝い同じく手すきとなりかけていた島田に声を掛ける。この時彼等は同じ情報を共有しており、其に対する感情も同じものをもっていた。
「八公」
「山崎 烝の怪我、あれ大丈夫なのか」
「ああ・・・」
そう答える島田の顔は蒼い。冷静に持場につきながらも、どこか平常でない様子だった。とはいえ八十八も、十分な衝撃を受けている。
「何があったのかは俺にもよく判らん。只、如何やら銃で撃たれたらしい」
同期が重傷を負う事は、彼等の間ではとても久しい。その上敵からの襲撃に因るものというのは、彼等にとっては初めての事であった。文久3年5月組の中では、敵というのはいつも、襲われる側である同期に潜んでいる。
・・・・・・慣れていない。安定した土壌をつくるのにも慣れていなかったが、漸く安定しつつある土壌を掘り返されるのにも彼等は慣れていなかった。
「・・・・・・左之助が答えてくれないんだ。副長も」
島田は橋本の戦いでは永倉と山口の隊におり、男山にて戦っていた。だから山崎が撃たれた時の事を知らない。
よって。
「・・・・・・なぁ、アイツは?」
・・・・・・山崎の事だけでなく、八十八のこの質問に対しても島田は答える事が出来なかった。
「アイツは無事なのか?」
八十八は島田を両手で押して外に追い遣る。戸を閉め、自らも外へ出て、入口から少し離れた所に立った。之以上は他人に聞かれる訳にはいかない。
「・・・・・・俊の事か」
「他に誰がいるってんだよ!!」
八十八が思わず怒鳴る。島田の表情がみるみる曇ってゆく。島田にも其は判らなかった。
「騒がしい」
―――ぴしゃんとした声が冷え込んだ空気に通る。島田と八十八が一斉に声の方向を向いた。廻縁の欄干に白い影が見え、白い影も叉、彼等の方を見ている。
八十八と島田は顔を見合わせ、櫓内へ入って、白い影が立っていたであろう部屋へと駆け込む。其処は沖田の部屋のすぐ隣で、傷病人の様子を見に部屋を出ていた近藤は、其を見かけて指揮が少し鈍った。
「俊!!」
勢いよく戸を開け、島田と八十八は夢中で叫んだ。白い影は闇に紛れる事無く、室内で彼等を待ち構える様にして佇んでいた。手には薬缶。紛う事無き、その白い影の正体は尾形 俊太郎であった。
「―――大声を出すな。・・・・・・私はまだ、隊士に存在を知れる訳にはゆかぬ」
この部屋には何も無かった。燈り無く、応急用具も無い。応急用具は総て傷病人の部屋に集められており、其もいつ尽きるとも知れぬ。尾形の姿は、着物だけでなく細面の顔立ちや手足も闇に浮び上がっていた。
「・・・八十。沖さんの薬が切れている。補充して来て貰いたい」
尾形が八十八に薬缶を手渡す。その折に「・・・序でに、包帯を何包か戴いて来て貰いたい」と言った。八十八は愕いて尾形の白い顔を見た。
「俊、お前治療受けに行けよ」
八十八が薬缶でなく尾形の腕を掴む。冷たい。だが尾形は八十八の手を払った。だが其でも八十八は尾形の手を再び掴んだ。
「包帯さえあれば我で行なえる。存在を知れる訳にはゆかぬと・・・言った筈だが」
「なら包帯持って来るから、俺に治療させろ。大体、沖田先生の看病も、一番隊か佐倉の仕事なんでぇ。勝手にすんな」
・・・・・・。尾形は反論したい事が山程浮んでいる様な表情で睨んだが、言って理解させる事はもう諦めている。
「・・・其は君の郷里である加賀の理屈か。一から十まで理解できぬ。大した腕を持ってはおらぬが、私も医術を修めた身だ。動けぬ怪我でもあるまいし、私に割く人手があれば他に回せと言っている」
八十八が手を振り上げる。手を上げられるとはまさか予想しておらず、尾形は驚愕の余り身体を硬直させた。殴られるかと思いきや、ぐっと身体を引っ張られ、抱しめられる。
「・・・・・・――――」
尾形は咳き込んだ後、八十八の項に視線を落した。・・・白い頸が震えている。
「この―――!糞餓鬼ッ―――!!」
八十八は尾形を強く抱しめた侭、一向に放そうとはしなかった。彼の方がどちらかというと餓鬼の様だ。
「動けないヤツより質悪ィんだよお前・・・・・・!」
広島の時といい伊東一派との抗争といい、そして今回の戦いでも、尾形は彼等の眼の届かぬ所で身一つに近い状態で危険に晒している。細々(こまごま)とした任務を加えれば、山崎と同程度の数を熟し、また接近の仕方は違えど同じ任務に就く事も多かった。
何が命運を分けたのかは知れないが、尾形が山崎の様になっていても不思議は無かったのだ。
・・・併し。
「・・・怪我は大丈夫なのか、俊」
島田も心配そうに尋ねた。いつもは欝陶しい位に世話焼きなのに、こういう時に限っては妙に遠慮がちだ。
「・・・・・・血は止り始めているが、肋骨を3本ほど折っている。包帯を貰いたいのも、止血ではなく圧迫の為だ。・・・呼吸の度に骨に響くものでな」
「なら八公の言う様に手当てを受けて安静にしていろ。息ももう上がっているぞ。痛いんだろう?」
「・・・八十が圧迫しているからな」
怪我人の手当ての為、新年早々に切って仕舞った八十八の髪に触れる。短くなっても輝きを失わず寧ろ一層益してゆくその濡烏を、尾形は硝子玉の様な眼で見つめた。
―――不変、といえるのは彼の美貌くらいだろう。後は凡てが移り変ってゆく。
時間は止る事も戻る事も無い。前にしか進まない。もう起って仕舞った出来事は・・・・・・無かった事には出来ない。
絶望的な過去を踏まえて、最善の未来を構築しようと試みる事。・・・・・・其しか、人類に与えられた選択肢は無い。
「―――私はまだ、歩みを止める訳にはゆかぬ」
―――・・・八十八が顔を上げる。島田も疑問に満ちた眼で尾形を見た。
「・・・・・・動けぬのなら動くまいが、動けるのなら動くしかあるまい。其が生きるという事ではないのか」
この男にとって、無事である事は運が良かった事を示していない。ある意味で非常に解り易い考え方をしていた。本当にここで足でも撃たれて動けなくなっていれば、この男は早々に諦め大人しく臥せっていたかも知れない。併し、幸か不幸か、この男は多少の無理をすれば動ける身体だ。動かぬ理由が無いと言えばそうなる。
「・・・・・・動けなくなる迄動く心算か!?」
「悪化して死ぬなんて事になったらどうすんでィ!」
・・・・・・尾形の発言には、身体が動かなくなった刻が休み刻―――・・・詰り、引際であるという意図がある様に聴こえた。そして、其が即ち死である事を暗示している様にさえ感じる。丸で、今ここで動けなければ存在の価値さえ無いとでも言いたげな。
「其が天命だとでも言いたいのかよ!?」
「そうではない」
尾形は遮る様に言った。余りに感傷的な解釈に辟易している。彼の頭脳はこの局面に於いても冷徹に立ち働いていた。
「ここで私が死ねば確かに天命だと言えるやも知れぬが、死ぬ事は断じて在り得ぬ。
故にここに戻って来た。・・・・・・私にも何か出来る事がある筈だ」
「―――尾形先生・・・!」
―――転がる様な足音と裏腹に、戸を開く音とその切実な声は素早くも其程大きくない。中に居た島田や八十八の方が大声を上げた。
「佐倉―――!?」
「・・・っ、近藤局長より尾形先生が生きておられる事をお聞きしました。山崎監察の鳩尾の銃弾を取り除く手術を之から行ないます。ですが其には医術に長けた方の助けが必要です。尾形先生、如何か力をお貸しください。医術に精しいのは、もう私と先生しかいないんです!」
佐倉が必死に頭を下げる。尾形は八十八から離れ、白い身形を整えて佐倉の頭を真直ぐ見下ろす。島田と八十八は尾形の背を、どう転んでも不安だという眼で見つめる。
「―――了解った。だが少しばかり準備が要る。四半刻の更に半刻でいい。時間をくれまいか」
八十。早く。 尾形は八十八に包帯を急がせる。八十八は張り詰めた顔をして部屋を出て行った。佐倉も持場へ帰す。
・・・・・・尾形は己の胸倉に手を入れ、押えた。
「―――共倒れは在り得ぬ」
彼と共に二人で部屋に残された島田が、もう一度その背を見た。少し前屈みになっている。痛いのだろう。併し声は確りしている。
「・・・・・・我が身はきちんと弁えている心算だ。助かれば其が最善だが、私まで共に墜ちる訳にはゆかぬ。
私には―――・・・まだ遣る事がある」
―――この男をここ迄衝き動かすものは何だろうかと島田は想う。日常が生と死の硲である事は全隊士が共通しているが、この男は丸でその番人だ。誰よりも境界に近い処にいる。血を見るのが嫌だと言いながら鮮血を常に直視し、誰よりも恨みを買いながら決して境の向うへは往かない。最も死に近い処で、併し常に見送る側だ。其は保証でもあった。
「・・・・・・待っている。お前は本当に勝手なヤツだが、道を外した事は無いからな。八公にも諭っておく。只、無理はするんじゃないぞ」
島田は他の傷病者の手当ての為に部屋を出て行く。新たな絆の柵が、きりきりと胸に巻きついてゆくのがわかった。
「君も矢張り、医学が出来たのか」
佐倉の人選に依り現れた人物を、松本 良順は驚きよりも納得の声で出迎えた。傍には辛うじて意識を繋ぎ留めている山崎が浅い息を上げている。
「―――尾形です」
両者は簡単に挨拶を交した。良順と尾形が顔を合わせたのは慶応元年の健康診断以来であった。隊医育成の為に医術を伝授する際、山崎の他にこの男が候補に出なかった事を当時は不思議に感じたらしい。学者としての尾形はその道の者には印象に残る趣をもつ様だ。
「医家の出身かね?其とも―――」
「郷里の塾に通っておりました。肥後の亦楽舎でございます」
「―――あぁ、城下の鳩野 宗巴医師の家塾か。ならば信用できるな」
佐倉がぱたぱたと戻って来る。人手は集められたか!?と良順は尋ねた。手術室と謂えるこの隔離部屋には、良順と尾形、佐倉しか立会が在ない。
「―――いけません!」
佐倉が息を切らしながら叫ぶ様に言った。
「殆どの隊士が何らかの形で傷が開き、出血しています。山崎監察と血が混じると危険です!」
・・・尤もな判断だ。良順は厳しい瞳で尾形を見、・・・其は?と額を何周もはしる白い包帯を指摘した。尾形は包帯と然程変らぬ色の顔で
「血は既に止っております。傷も塞いである。崎さんの血が触れて危険な傷はありませぬ」
と言った。・・・・・・。良順は何か気になる節があった様だが黙っている。
「・・・・・・麻酔薬を使うのでありましょう。人手は充分では」
尾形が訊いた。だが、良順はまつげを落してゆっくりと頭を振る。
「・・・・・・麻酔無しで行なう」
尾形は眼を見開いた。佐倉は予め聞いていた様で驚きは無いが、想像したらしく顔を背ける。
「・・・・・・将軍に麻酔薬を持って往かれて仕舞った様なのだ」
良順は悔しそうに声を張った。尾形はこの時まだ何も聞いていなかったが、徳川 慶喜・松平 容保等主君は夜の内に城を脱け、彼等を措いて江戸へ退却したと云う。麻酔薬は僅か20年前に米国にて開発されたばかりで、輸入品である為高価だ。幾つかの高価な薬品と共に持ち去って仕舞ったのだろうという事だった。
「・・・・・・幹部に手伝って貰う事は」
尾形が白を過ぎて少し蒼い顔で、佐倉に尋ねる。麻酔無しで行なう以上、激痛で山崎が暴れる事は必至だ。佐倉はすぐに首を横に振る。
「山口先生が殊の外重傷で、安静が必要です。永倉先生も血を流しています。原田先生は御二人の分も指揮を執っておられるので手が離せません」
之で幹部の線は消えた。沖田隊も之以上人手を割くのは酷だ。監察はとても無理。
「せめてもう一人、いてくれれば・・・」
医術の知識は尾形や佐倉がいるのでもう問わない。無傷で力の有る者が在れば―――・・・
・・・そんな時、戸を叩かれ直後に松本法眼。尾形先生。と呼ぶ声がした。自身の生存を知る平隊士の声に、尾形は部屋の戸を開く。
其処には
「小幡 三郎、先程伏見より到着しました。之から山崎先生の手術の御手伝いをさせてください」
小幡は顔だけ室内に忍び込ませ、良順と尾形を交互に見つめ、深く頭を下げた。尾形は顎を引き、怪訝な眼で小幡を見下ろしている。良順は、新しく入った隊士かね、と尾形に訊いた。・・・半年ほど前に。と尾形が答える。どんな、と良順が再び訊くと
「伏見薩摩藩邸の潜入調査の折に、尾形先生に助けて戴いたのです」
と、小幡自身が答えた。吉村が伝えたのか如何かは知らぬが、何らかの方法で尾形の正体と生存を確信したらしい。
「・・・・・・無事で何よりだ」
尾形は感情の籠らない声で言った。小幡は感極まった様に再び頭を下げる。そして、・・・その御礼をさせて頂きたいのです。と言った。
「先生は私の命を救ってくださいました。私は医学を学んでいないので山崎先生のお命を救う事は出来ませんが、せめてその御手伝いをさせて欲しい。尾形先生が生きていらっしゃる事を知るのは新入りでは私一人ですし、決して他言はしません。尾形先生が御仕事を遂行されるのに、一番都合がいいのではないかと思います」
「―――頼む」
・・・・・・尾形が言った。良順が肯いている。小幡が顔を上げると、尾形が自身に向かって頭を下げていた。
「小幡さんには、崎さんの足を押えていて貰いたい。蹴り上げられればその時点で手術は失敗する。一時も気を抜かぬよう」
次の瞬間には尾形の挙動にはもう人間らしさが消えていた。佐倉が山崎の頭・首筋等に氷を詰めてゆく。人為的に脳を冷し低体温だと錯覚を起させる事で多少は痛みが和らぐのだという。当然ながら山崎の呼吸は更に弱くなる。尾形と佐倉は山崎の顔に目を配った。
「・・・・・・いくぞ」
・・・・・・良順がメスを握り、大きく息を吐く。尾形と佐倉は両側から山崎の肩と腕を押え、大きく息を吸い、己が握る手に力を籠めた。
「・・・っ」
刃を浅く皮膚に入れる。山崎の顔が突然生じる痛みに歪んだ。まだだ。之をまだ更に奥まで挿し入れなければならない。
「・・・・・・此の侭一気に奥までいって切開する。今以上の固定を頼む」
・・・・・・良順の額には、もう汗が浮び上がってきている。
ぐっ、と刃全体が皮膚の奥に隠れ、山崎の胸が隆起した。・・・・・・!急激に力の入る山崎の身体を、尾形と佐倉が力を強めて押え込む。
「・・・・・・っ」
力が強い。山崎の腕の逞しさを、佐倉は両手でひしひしと感じた。すぐに手に余る力の限界が見え、非力な生き物である女に生れてきた事を今ほど後悔した事は無かった。
・・・・・・涙さえ浮べる佐倉の凛々しい顔を、尾形は静かな表情で見つめる。
「・・・・・・佐倉さん」
尾形が静かな声で呟く。その視線は既に山崎に注がれていた。佐倉は余裕の無い眼で尾形を見上げる。
「・・・はい」
「―――崎さんへの言葉掛けを恃む」
佐倉は忘れていたものを思い出した。尾形の態度は飽く迄落ち着いている。その貌を見ると、不思議とこちらの心も冷静になってくる。
「尾形先生・・・」
「崎さんは貴女を信頼していた。・・・貴女にしか出来ぬ事だ」
必要とされているのは力仕事だけじゃない―――・・・寧ろ佐倉は忙しかった。
「山崎監察、佐倉です。傍に、居ますから」
身近な人の言葉掛けは患者にとっての励みとなる。患者の正常な意識を保たせる為に強ち其も馬鹿には出来ない。殊に
「そろそろ鉤が必要になる。佐倉君、準備を恃む。・・・愈々(いよいよ)皮膚を開いて留める。鉗子もすぐに使うからその用意も忘れんでくれ。
尾形君、きっちり押えたか。痛みから来る無意識的な力は凄まじい。執刀医と息を合わせねば押え切れんぞ」
・・・・・・之からが地獄の苦しみなのだ。狂う程の痛みが山崎を襲う事になる。佐倉が声掛けを止めずに離れ、尾形が一人で山崎を押えた。佐倉が手早く器具を洗浄し、用意をする。その間にも執刀医の良順は手を止めておく事を許されない。更に深く刃を突き入れ、遂に山崎の口から声が漏れた。
「ぐ・・・・・・!」
「山崎監察・・・!」
矢張り人の手で用意する氷では痛覚を麻痺させるのに限界がある。氷自体も叉、室内の常温に融けかかっている。
「鉤を」
良順が強い口調で言う。佐倉はすかさず鉤を渡した。そしてすぐさま尾形の助勢に入り、休む間も無く山崎の身体を共に押える。
「あ・・・・・・!」
余りの痛みに山崎が悲鳴を上げる。首から上が無意識に横に振り、其でも時折痛みを堪える様に顎を引いた。
「監察、大丈夫ですから。松本先生が助けてくださいます。もう少しの辛抱です」
山崎は佐倉の声を聴き入れているかの様に身体を動かさず、耐えている様に見えた。併し、手術創が拡がり空気に触れていくにつれて其も難しくなってくる。
「鉗子をそろそろ渡してくれ、佐倉君。其と、次は鑷子の準備だ」
「はい」
「三郎君といったかな、足の固定をもっと強く!今から弾の在処を探る。内壁を抉るから痛みが大きい。之では患者の力に負ける!」
「はい!」
「・・・佐倉さん、声を」
「山崎監察!!」
佐倉の声が水気で曇った。山崎は体内をまさぐられる激痛に声を荒げている。舌を噛み切らぬよう、彼の口に白布が宛がわれた。
「鑷子の前に剪刀を恃む!」
良順が叫ぶ。弾は可也奥にまで侵襲り込んでいた。内部組織を剥して取り出すしか無い。
「うっ・・・!あぁあ・・・・・・!!」
・・・・・・。跳ね上がる山崎の肩を尾形が押え込む。併し、その尾形の顔色も決して良い方ではなかった。蒼・・・寧ろ緑に視える。手術衣の用意がある良順と違って、術前から貌の全体的に白かった彼に血の色が投影されそう見せているのだろう。黒い眼ばかりが血の色を吸収して、彼は妙に覚醒している様に視えた。
「・・・ぐ・・・っ!!ああああっ―――!!」
「山崎監察―――っ!!」
佐倉も良順に器具を渡した後、山崎の身体を押えるも、痛みで力の制御が侭ならない山崎に押されている。尾形が急いで佐倉の側の助勢に加わる。鼻梁にはいつの間にか透明な水滴が浮んでいた。
ズキッ!
「―――・・・・・・!!」
ごほっ!ごほごほっ!! 尾形が激しく噎せ返る。のみならずぐらりと身体が大きく傾いた。
「尾形先生!?」
「何を遣っている!!」
良順が怒号を上げる。尾形は崩れる寸前で何とか持ち堪え、・・・済みませぬ。と嗚咽にも近い声で謝った。手が離せず押える事の出来ぬ口には微量ながら血が滲んでいる。
「先生・・・・・・!」
「崎さんの・・・・・腕を押えて・・・両肩は私が・・・・・・」
尾形の声は、日頃の自分に対する厳しい態度からは想像できない位に弱々しかった。咳がまだ残っており、其を必死に堪えている。
「鑷子!」
良順が怒鳴った。尾形が濡れた瞳で佐倉に目配せする。佐倉が手を引くと、山崎の肩と尾形の手の間にあった其はするすると抜けた。鑷子を握り、良順の手に無事に渡す。
「・・・・・・銃弾が取れた。後は縫合して終了だ。先の様な痛みはもう無いから安心しなさい」
良順が山崎だけでなく皆に向かって励ます様に言った。痛みの山を越えて、山崎は声を上げる余力も無く荒い息だけを上げている。
つられる様に尾形も浅い息を上げていた。
「・・・・・・手を握って遣ってくれ」
尾形の声は其でも先程と比べると幾分張りが有った。張り詰めていなければ崩れて仕舞いそうだ。だが彼は、珍しく冗談を言った。
「肩を押えるだけでは心許無いのでな」
尾形は顔を上げて佐倉を見る。微笑っていると形容するには表情に乏しく、冗談と謂うにも然程諧謔的ではなかったのだが、不思議と其が冗談の意味で言われているのだと理解できた。
―――手術が終ったその瞬間に、次の事件の幕はもう開いていた。この部屋が手術室の機能を果し終え、緊張感という結界が解けたその刹那から、様々な情報が彼等の耳に入って来る様になった。ドンドン!ドンドン!!軈て、隊士が襖を激しく叩く。
「松本法眼!!松本法眼!!」
「・・・三郎君、恃む」
「はっ」
片付けなり何なりで未だ手の離せない良順に代って小幡が受ける。小幡が廊下に出てすぐに、尾形も山崎の側を離れ、
「・・・・・・後は恃んだ」
と、佐倉に託けて襖の裏に控える。小幡が入室するのに合わせてするりと身体を滑らせ、入違いに部屋を出て往った。背後を通られた小幡は尾形の退室に気づいていない。
「火事です!」
小幡から突如放たれた言葉に、佐倉と良順は思わず顔を見合わせる。そして同時に、縫合を終えたばかりで手術創すら塞がり切れていない山崎を見下ろした。
「兵士小屋から出火したとの事!城内の一部に燃え拡がっており、他の隊士は既に脱出の準備が出来ているそうです。我々も、直ちに城を脱出せよとの事です!」
皆が城の出口に向かって駆け抜けてゆく流れに逆らい、尾形は奥に向かって突き進んでいた。火事だー!!仮同志格の新入隊士が城内に残り、声を張り上げて周囲に危険を知らせている。炎の姿はまだ視えないが、近いらしい。白い煙が立ち込め始め、幽霊になったのではないかと思う位足下を蔽っている。
「其方は奥です!出口は此方!」
身を案じて案内をしてくれる者もいる。その者達は皆決って怪訝な表情をしていた。屹度、味方である様なそうでない様な貌に何かを想い出そうとしているのだろう。
「おがっち!!」
・・・・・・極め付きはこの男だ。背後に声を掛けられて、尾形は振り返った。原田 左之助が息を切らして彼を追い駆けて来ている。
「・・・・・・貴方はつくづく、不思議な男だ」
そう言って、笑みを漏らした。極めて自然な笑みだった。綺麗な程に自然な笑みであったので、原田は逆に怖ろしく感じた。
「おがっち、監察の方は如何なんだ?出られるか?」
その間にも煙は濃さを増し、互いの姿は白に掻き消されつつある。尾形の顔からはすっかり血の気が失われていた。
「・・・・・・済まぬ。まだ之からだ。左之さんは先に出てその報告を」
「大部屋の負傷隊士はもう出した!俺も手伝える!」
監察だけは別に部屋を宛がって貰っている。たった二人しか其処には居ないが。彼等の居る部屋は最奥に在って、窓から外が見える様になっている。監察という職にぴったりな、物見を兼ねた誂えだ。
「・・・丁度よい。一つ頼まれてはくれぬか」
男は所作といい白さといい、幽霊そのものであった。之迄何人もの隊士を見葬っていた境界の向うに、この男も確実に近づいている。
「西の最奥の部屋に、崎さんと松本法眼が居られる。崎さんを運んで遣ってはくれぬか。生憎、手術に立ち会ってくれた者に崎さんを運べる程の腕力を持つ者がいなくてな。術後すぐ故、創が一寸の事で開く。努めて慎重に、頼む」
そう言って頭を下げる。気にしない様に見えて実は矜持の非常に高いこの男が、他者に頭を下げる事はそう無い。破格の待遇で自らより上の地位に立ち、一時期は恭順している様に見えた伊東にさえ、この男は一度たりとも諂った事は無いのである。
「わかった、わかったよおがっち。だから・・・死ぬな」
原田がわかり易い表情で、極めて直截的に懇願した。顔を上げた尾形はそんな原田を見て、可笑しそうに笑った。そして
「たれが死ぬものか」
と吐き捨てる。
「つくづく不可解な御仁だ」
そう言う尾形の笑顔は、彼から最も遠いと思われた朗らかなものであった。人間としての本質はそこにあるのではと思える位、人間らしい。
「・・・信じられぬというのなら、之を預ってくれ」
尾形の多面に翻弄され、放つ言葉も信じられずに天地が引っくり返った時に見せる様な顔をしている原田に、尾形は例の黒い数珠を投げ渡した。数珠は、帯の背中側に挟み込まれていた。
「貴方は経を読めぬだろう。戻って私が読むしかあるまい」
・・・この時点で、尾形は何かを予感していたのかも知れない。・・・願掛けをさせてくれ。ぼそりと独り言の様に言ったのを、原田は聞き漏らさなかった。だが
「・・・・・・八軒家・京屋方でよいな」
「あ・ああ」
その内容を尋ねようとした時には、尾形の姿は煙の向うへと消えていた。
「!!」
尾形が襖を開いて監察の居る部屋を確認した時、其処には腹から背中を刀が貫通した状態の首無し死体が転がっていた。
「・・・・・・・・・」
・・・・・・尾形は後ろ手で襖を閉め、窓から見える炎の色以上に凄惨な緋が撒き散らされている部屋に入室した。足袋が再び紅く染められてゆく。
「・・・・・・清さん・・・・・・」
尾形は呟きながら、血の海と化した畳の床に膝を着いた。魅せられた様に死体のくびを覗き込む。血はまだ止っておらず、無い頸から噴水の様に肩や背骨を伝って流れている。
「介錯しときましたぜ」
―――出口付近の部屋の隅に、大石 鍬次郎が腰を落していた。千切れた首を持ち上げ、検視する様に四方に引っくり返して視ている。慶応元年に入隊した、尾形と同郷の肥後出身の、村上 清の首であった。
「城下の炎を見て自刃したんですわ。在ろう事か切腹という方法を用いて。あ、俺が焚きつけたんじゃあありませんぜ。兵士小屋が燃えていると隊に報告したのは俺です。すると平達は新政府の襲来と勝手に騒ぎ始めてですねえ?流石に自刃したヤツは平では見なかったが、戻って来たらコイツが切腹して呻いていた訳です。屹度、平と同じ様な思考をしていたんでしょうなぁ」
・・・言った後、大石は見飽きた様に村上の首をぞんざいに抛った。理解し難いといった顔をしていた。
「・・・・・・本陣に危険が迫った時、足手纏いとなるを避ける為、傷病人は自決する取り決めが為されていた。清さんは違えた事はしていない」
「自決する体力は残っていた訳で。ともかく、痛いのは俺自身が耐えられないんで、斬っちまいましたよ。俺を責められても困ります」
「責めなどせぬ。貴方がしていなければ私がしていた」
「へえ」
大石は言葉を切った。三白眼を光らせて、尾形の後ろ姿を見る。
「・・・あんた、俺が言うのも何だが、やっぱ鬼だな」
・・・・・・。尾形の視線は村上の死骸ではなく、遠く窓の外に拡がる緋い焔を見ていた。
「・・・・・・其が武士の考えというものなのだ。そして・・・・決めれば其を全うするのが肥後の男だ」
肥後出身の隊士は、入れ替えの凄まじい新選組組織でも片手に余る数しか在ない。中でも、心底新選組に同志していた肥後者は村上のみで、後は薩長に毒されていった。尾形にしては気に掛け、年上の相手ながら可愛がったと言えると思う。二人きりは避けたが、村上が平隊士の時代に食事に連れて行った事もあった。自ら含め、他の肥後出身の隊士の動きが怪しい分、この隊士も苦労が多かった。
「―――なら、動けない様なケガをしていたら、あんたも村上の様になっていたと」
大石は立ち上がり、軽侮の眼を保った侭尾形の背後に来た。上から覗いてみると、尾形は顔を引きつらせ、浅い息を立てながら胸元を押えている。
「・・・センセイ、あんたは頭脳派にしては面白い人間ですからね、そう簡単にくたばられるとこっちの愉しみも減っちまうってもんです」
・・・・・・言い種はまるで悪魔だった。背後に殺気を感じ、尾形はぴたりと動きを止める。自分自身の状態に、彼は返す言葉も無かった。
「何だってこんな四方を炎に囲まれる処で逃げずに俟っていたと御思いですか。何だか随分まともになっちゃって少し幻滅ですが、斬れば叉戻りますよ。あんたは結局、自分の心血を注ぐなんて偽善的な事は出来ないんですよ。葬るだけだ。返り血を浴びている時の方が余程生き生きしていますぜ」
・・・・・・。尾形は呼吸を整えると、ゆっくりと立ち上がった。数珠は原田に預けてある。加え、弔っていればその間にも炎に囲まれる。
「・・・・・・京屋方へ向かう」
村上の死骸に背を向けて、尾形は歩き始める。手すら合わせぬ墓守の非情ぶりに、大石はひゅう、と口笛を吹いた。
「あんたは本当に面白い。訳が解らないから面白い。詰らない柵なんか早々に断ち切って、もっと人生愉しみましょうよ。
あんたは所詮、俺と同じ類の人間なんだ」
尾形は大石の言葉を無視して部屋を出る。・・・煙は、村上の血に濡れた緋いこの部屋も白く覆い始めている。
「――――・・・・・」
―――山崎がうっすらと瞳を開ける。長らく意識が混濁していたが、漸く明瞭さを取り戻しつつあった。自ら身体を動かす事が出来ず眼だけで状況を掴もうとする。視線を空中にぼんやりと泳がせていると、視界に割って入る様に佐倉の顔が現れた。
「山崎監察―――・・・!」
佐倉が涙を浮べて此方を見ている。
「佐倉はん―――・・・」
喉が渇き切って掠れた声しか出ない。だが、其でも佐倉には届いた様で、山崎の声を聞くと佐倉は、崩れる様に山崎の肩口へ顔を伏せさめざめと泣いた。日頃賑やかな彼女が滅多に見せない、抑えた泣き姿であった。
「―――・・・済まんかったな・・・・・・」
山崎が囁く様に謝った。結果的にそうなった。笑う程の余力がまだ無いのと、こう遣って泣きついて来た時にいつも背を摩って遣る手を上げる程の力も湧かない事、そして、彼女にそういう泣き方をさせて仕舞った事の重大さに・・・笑えなかった。
此処が京屋方と云われていた処ではなく碇泊中の船内であると明かになったのは、山崎が波に揺られている様な不安定な感覚に気づいたからであった。新選組一行は火災の城下から大坂天満の八軒家船宿・京屋 忠兵衛方へと移動した後、更に木津川に碇泊している船内へと移動していた。この間の山崎の記憶は無い。術後2日間、山崎は痛みの感覚さえ忘れて眠り続けていた。
之から、江戸へ帰還るらしい。
山崎はその言葉を聞いて、意識を取り戻してから初めて笑った。江戸なんて全く馴染みが無いし、行った事さえ無い。其は京での第一次募集で隊士となった、彼より遙か西国生れの尾形や北陸から直接上京して来た八十八なんかもそうだろう。
只、その様な表現から近藤・土方・沖田といった者が郷里をとても愛している事が窺えた。
「之で病人仲間ですね」
沖田が佐倉に身体を支えられながら、早速見舞いに来た。相変らずその口は冗談ばかりだ。久し振りに会った沖田はめっきり痩せ、冗談が皮肉と取れて仕舞う位痛々しかったが、自分もこんな状態だから逆に余計な同情などせずに済んだ。沖田は純粋に、病人と医者ではなく対等な人間として自分を見てくれる様になった事が嬉しい様で、
「江戸に着いたら行きたい甘味処があるんです、一緒に行きませんか?」
等、色々と彼等を誘った。
「俺は江戸は初めてですさかい、案内してくださいよ。沖田先生」
「勿論ですとも」
山崎と沖田が屈託無く笑った。沖田の笑顔は通常ながら、山崎が之程無邪気な笑顔をするのを佐倉は初めて見た様な気がした。
永倉・原田といった馬鹿の面々も山崎の顔を見に来た。彼等は「馬鹿は○○ない」の馬鹿守護神に護られ、浅い傷で済んだらしい。見て異変が無い事がすぐに判る位、ピンピンしていた。
曰く、彼等軽傷の可動隊士は、今から別の船に乗り換え、逸早く江戸を目指すらしい。
「この船(富士山丸)が到着する迄の間に必要な手続きは全て踏んで、自分達が着いた時点で戦が始められる状態にしてろって。土方さんの鬼度は健在どころか益々上がっていってるぜ」
「可動組は可動組で、仕事が増えて大変ですね」
「こりゃあ、甘味処はえろう先になりまっせ、沖田先生」
そういう訳で、永倉と原田は江戸までの海路を同乗できない為、暫しの別離を伝えに来たらしい。
「ぬおおおーーーっ!!山崎さーーーーんっっっ!!俺は寂しいよーーーーーっっっっ!!!」
「!!?」
原田が布団にダイブして山崎にハグしようとする。っ!之が例の原田式洗礼法・・・・・・!だが躱す程の体力は無いので如何しようも無い。
「洒落にならないからやめてくださーーーいっ!!傷が開いて仕舞います!!」
佐倉が渾身のツッコミを放つ。ある意味で身体を張っていた、くだらぬ事に。『あの頃』の一枚岩であった新選組に戻った様な錯覚を覚える。
「おーおー。山崎 烝の部屋のくせに盛況してんじゃーねィかい」
そして『あの頃』を象徴する彼等も遣って来る。如何いう風の吹き回しか、島田 魁と山野 八十八の究極マイ‐ペース凸凹コンビまで現れ、女神が微笑んだ様な天文学的確率の見舞いに
「・・・・・・何しに来たん?」
「平和な日常を邪魔しないでくださいよ。しっしっ」
「オイ。本編に出ないからって俺達を日常から排除してんじゃねェよ」
山崎のみならず佐倉まで排他的な視線で彼等を見る。
「俺達・・・・同期だろ!?見舞いに来るのは当然じゃあないか!」
「何やのんその『俺達友達だよな』的な科白。子供返りするにはまだ早いで」
島田が露骨に傷ついて原田の様な言動になっている。如何やら、山崎と島田の関係はこういったところで定着しそうである。
「あんた達も船を移るんか?」
山崎が島田をほっぽって、例の如く佐倉といがみ合う八十八に話し掛ける。背後で行われている島田と原田の寂しさの共有が暑苦しい。永倉が呆れた眼で、其でも見捨てずに彼等を見ている。
「俺と力さんはこの船に残る。怪我人の世話をしなきゃあなんねぇ」
滅多に山崎から自身に絡む事は無いので、八十八は少し目をぱちくりさせつつ答えた。すると
「・・・・・・えー?別に居らんでええのに。あんた居ると悪化する気ぃするわ」
「お前実は根本はめっちゃムカつく奴ってヤツかよ・・・・・・!」
完全に遊ばれている。山崎はにやにや笑っている。あしらわない関係を今後築いていくのだとしたら、こんな感じになる事必至だろう。
「済まん済まん。見舞い来てくれたんは嬉しかったんやで」
だが、相手が女装させて忍び込ませたい容姿の持主のせいか、自然と逢引に行けなかった弁解をする男の様な喋りが付け加わる。
「尾形さんの方は大丈夫なんですか?」
沖田が小さな声で訊く。声を上げると肺に響くのだ。直後、ごほごほとつらそうな咳をする。佐倉が支えた。
「・・・今、漸く寝たとこなんで見舞いは勘弁してくだせィ。法眼の治療をやっとこ受けてですねィ」
「良かった・・・」
佐倉が安堵の声を吐く。手術中の彼の咳がずっと気になっていたのだ。気にしすぎなのかも知れないが。
・・・・・・。山崎は或る事を思い出した。
「・・・佐倉はん。俺の鳩尾の手術、尾形はんも立ち会うた?」
山崎には、そこからして記憶が無い。無いと言うより、不確かである。居た様な気がする。その程度で、後は痛みの記憶が占めている。
「はい」
「何か俊が治療を受ける時、山崎 烝が如何だとか言ってたなぁ?力さん」
ぎく。山崎の記憶の不確かさを補足する様に、八十八が実にピンポイントな示唆を与える。
「ん?」
原田・永倉と新ユニットを組んでいた島田は今迄の件を全く聴いていない。・・・だめだぁこりゃ。八十八は早々に諦めた。
山崎は引きつった笑いをした。
「いやぁ手術相当痛かったから・・・何か目の前のヤツ殴った気ぃするわ・・・・・・」
山崎が全員から視線を逸らして、まさかの告白をする。佐倉がえ!?と叫ぶ一方で、其だい!と八十八が合点きた表情で言った。
「手術中にお前の腕が当ったとか言ってたぜ、危うく失敗するとこだったとか」
「あぁ・・・何処か骨が折れとんなコイツという記憶だけ朧げに残っとるわ・・・あの痛み、もう殺される思たから全力で道連れにしよ思うてな・・・・・・」
佐倉は、尾形が手術中に言った冗談を思い出した。「肩を押えるだけでは心許無い」の部分である。その前には、腕を押えてくれと言っていた。尾形が咳き込んだのは、佐倉の助太刀に入った時に腕に対する注意が等閑になり、腕が傷に当ったからなのだと納得する。
「其で師匠の治療が必要になっとったら本当洒落にならへんな」
言いながら、山崎は笑っている。まぁ今迄散々振り回したんやから、之でチャラやろ。軽口まで叩いている。尾形の冗談といい、洒落にならない命の預託さえ笑い種に出来る程に、彼等は気軽く互いを任せられる様になっていた。
「凸凹三人組最後の砦の尾形さんに迄そんな事をして仕舞うなんて、素晴しい三段跳びですね、山崎さん」
沖田がくすくす笑う。島田や八十八に対する扱いも見ての感想だろう。そうでっしゃろ。と山崎は誇らしげに言った。
「まァ実際は自業自得でさァ。無理して動き回るから医者に世話になる事になるんでィ」
八十八が沖田に向かって言った。山崎に対抗しているというよりも、本当に怒っている様であった。多分、尾形に怒っているのだろう。
「アイツ、見た目より気ぃ若いもんな」
其も山崎が笑いに変換して仕舞う。山崎の方が心理的に八十八よりも大人だ。まぁ、実年齢もなのだが。
「私達の同年代で言うと尾形さんが一番若いかも知れませんね」
「沖田先生や山口先生は落ち着きすぎなんや」
山崎がツッコむ。確かに、まだ二十代前半なのに変に悟り切った世代だ。彼等に藤堂を加えても、平均精神年齢が下がる気がしない。
「まぁー冗談は措いて、尾形はんはまだ戦えるんやろな?」
山崎が案じた。流石に、笑い飛ばして終りなのは可哀想だと思ったのかも知れない。口調は全然冗談から改まっていないのだが。
「殆ど疲労みてェなもんだ。お前の怪我と比べたら如何って事ねェよ」
八十八の機嫌はまだ直っていない様だ。如何した?と相手にされない哀しみを発散し終えた島田が八十八の背中から覗き込んで来る。中途半端に会話を聴いていたらしく
「俊は後2日も休めば叉動ける様になるさ。その時は俊も此処に連れて来るぞ」
と、彼らしい含みの無い笑顔で言った。『あの頃』を髣髴とさせる特徴の一つであった。山崎は一瞬、懐かしくなりながらも
「・・・いやぁ~島田はん、あんたはええわ」
と、からかう。常に前を向いていたい。山崎はそういう男だった。過去を懐かしがるよりも。
併し過去は確実に存在するが、未来は構築できるとは限らない。
ざーっ
・・・桶に入った手拭を絞り、其を広げて折り畳んだ。山崎の額に乗せる。
尾形は氷水を作って、白い布で包んだ其を山崎の頸元や頬に当てた。
「・・・・・・」
佐倉は今、沖田の部屋。
尾形は枕元に正坐し、自分と入れ替る様に容体の悪化した山崎を見下ろした。細く眼を開いて此方を見ているが、眼に映る景色は凡て彼の意識には幻となって消えるだろう。山崎が銃で撃たれて以降、意識のはっきりしている状態の彼と顔を合わせる事は無かった。
・・・高熱に荒い息を立て、魘されているか、昏睡の様に寝息すら立てず、奄々と眠り続けているかのどちらかだ。
「・・・・・・・・・」
山崎の枕元に坐る尾形はまるで人に憑りつく死神怨霊の類の様だった。ひっそりと傍で見下ろしている彼は、大石の言う通り誰一人死の淵から掬い上げられてはいない。常に葬送る側だ。自ら血を流してでも人の死を食い止める事をこの男は只の一度もしてこなかった。寧ろ積極的になって、彼等を彼岸に葬送っていた様にさえ想う。学者肌で、口数の少ない尾形が饒舌になる話し相手であった山南 敬助の遺体に触れ、後処理をしたのが、初めて自身が葬送る事しか出来ないと自覚した瞬間だった。葛山 武八郎に信頼され、数珠を托された翌日に葛山をその数珠で弔ったのが初めての葬送。否、其以前から、葬送る事でしか苦しみから解放させられぬ無力さは解っていた。
葬送は形を変えて大きくなり、武田を殺し、伊東とその同志を殺し。彼等の亡骸を墓へと埋めたのも叉、尾形だった。彼等が不穏分子であった事は確かだが、彼等と同じ括りにあった尾形にとっては其だけの人間ではない。認めていた。邪魔な相手ではあったがその分魅力的であった。其は、自身が伊東の監察をしていた頃の吉村や山崎に対しても似た感情を懐いていた。そして、吉村も尾形は葬った。自らが葬送った相手の同志の手に拠って葬られるのを。
「―――――・・・・・・」
尾形は黙って見つめていた。表情の無い顔で。虚ろに景色を映している山崎と眼が合った。其は、嘗て自分が葬送ってきた者達と同じ瞳をしていた。彼等は尾形を見つめても、人物の正体が視えていないかの様に揃って反応を示さなかった。尾形が認めた相手は、皆彼を見ず去ってゆく。
「尾形はん・・・・・・」
山崎に名を呼ばれ、尾形は眼を見開いた。とても小さく、か細い声だった。その後に続く言葉は、小さすぎて聞き取れない。
尾形は耳を近づけて、山崎の言葉を聴いた。聞き終えると顔を上げ、大きく二・三度、首を横に振る。
「・・・・・・その条件だけは呑めぬ」
本当に頑固なやっちゃなぁ・・・こういう時位、気の利いた言葉を返さなあかんで。山崎の声はもう殆ど出せていない。口許の緩慢な動きと無理に笑ってみせる頬が、恒例の軽口である事を尾形に教える。
「・・・疾うに忘れて仕舞った言葉だ。近藤局長の命令ならば努めて思い出すところなのだが」
「ほんにあんたは・・・」
意地の悪い返答だ。だが其は山崎も同類だ。意地の悪い事を言って、意地の悪い言葉で返された。
何故彼等をここ迄上司が、隊が、他者が、信用し、命まで左右される事になったのか、彼等の正体を知る者は理解できないに違い無い。外面がいいのだ。彼等は決して、互いの事など理解は出来まい。
「―――任務は、果そう」
そんな彼等が人格的に認められる唯一の瞬間は、他人を騙し遂せた刻だ。幻想を、夢幻を他者に魅せた刻だ。其が彼等の果すべき職務の一つであり、彼等は職務に対して常に真摯でいた。
騙し騙され、疑い疑われる。其無くして彼等は彼等として成立しない。本質などは関係無く、彼等はいつも互いに対し、本気で臨んでいた。微温湯に浸かった様な対立も、仲間にしては意地悪な遣り取りも、相反したその両面性は、どちらも彼等が活きる核となる姿であった。
「・・・さようなら、崎さん」
尾形は山崎に別離を告げた。山崎は・・・ああ。と肯き、ほなな。と言った。尾形はもう、生きている状態の山崎とは逢わない。
もうすぐ佐倉が戻って来る。その前に山崎は土方と話す用があった。土方も、そして勿論山崎当人も、そうしなければならない理由を互いに言わずとも知っている。其には佐倉も尾形も、同席すべきではない。
尾形と山崎は其から一言も交す事無く、軈て尾形の方が部屋を出て行った。山崎は再びうつらうつらと眼を瞑り、互いを其から見る事は無かった。後は恃んだ、とか、引き留める柵の声も無く、彼等は夫々(それぞれ)の進む道へ向かう。柵や絆ほど彼等が厭うものは無い。其等は幻想を他者に見せる彼等の配分を狂わせる。自らも絆の創り出す幻想に取り込まれ、真実を歪んで捉えさせる。
彼等は互いから解放された。其は他の人はしてくれない事だった。特に・・・此岸側にまだ留まる尾形には、非常にありがたかった。
彼等を乗せた富士山丸は、碇泊と出航を繰り返しながら江戸へ向かっていた。尾形が山崎と別れた時、富士山丸は紀州由良港にいた。松明で漸く足下が視える暗さだ。波間に漂う船内を、松明を持って尾形は歩く。土方が部屋を出ようとし、室内に居る松本 良順と出入口で会話をしているところに出遇った。土方は、尾形の存在にすぐに気づき、彼に隠す様に扉を閉めて廊下を速歩で歩き始める。
「――――・・・」
―――尾形と土方が擦れ違う。尾形は頭を下げ、土方に向かって会釈をした。土方が通り過ぎる。・・・顔を上げ、土方と背中合わせに再び歩を進める。
「俺を」
―――ぴたりと、尾形が足を止める。併し、振り返らない。土方も同じ様に歩を止めて、尾形に背を向けた侭言葉を続ける。
「―――怨んでいるか?」
「・・・・・・何故でしょう」
尾形が訊いた。松明がパキパキと音を立てている。土方は先を言わない。めらめらと燃える焔が、尾形の頬を流れる一筋の滴を緋く映した。
「―――崎さんが撃たれたのは御陵衛士を仕留め損ねた私の失態でもあります。副長を責めるのは筋違いというもの」
・・・・・・松明の炎が映す土方の表情は、悔恨に満ちていた。自らを責めている。責めて貰った方がこの鬼にとっては楽だ。併し其さえして遣らず、自責から解放して遣らぬこの男も叉鬼だ。そして、その逆も叉然りだ。誰もが自らを責めている。
「・・・・・・松本法眼がお前に用だそうだ、尾形。見ていただろう、俺の部屋にいらっしゃる。入れ」
「・・・尾形です。失礼致します」
尾形が松明を燭台に立てて入室した。室内には松本 良順と、先程は見えなかったが近藤の姿も在る。近藤は、よからぬ話を聞いたのか半ば放心している。良順は、・・・尾形君。と神妙な声で言うと、先ずは言い忘れていた手術の立ち会いについて礼を述べた。次に
「―――山崎君と君は、同業であり同期だったそうじゃないか」
と、訊く。尾形は始終、黙っている。感情の無い黒眼だけを、くっきりと闇に浮び上がらせて。その無反応とも謂える態度に、良順は声を詰らせる。その眼は先を促がしている様に視え、叉先を告げられる事を拒んでいる様にも視えた。孰れにしろ、この男は宣告される内容について薄々勘づいている。
「山崎君について―――・・・覚悟しておいて欲しい」
・・・・・・良順は極めて短い科白で、引導を渡した。近藤が受け容れられずにいるのは、恐らくこの科白なのだ。一時は沖田と同じ飯まで食える様になる迄回復したあの男が、何故死の宣告をされなければならないのか、理解できないのだ。
「・・・山崎君は、傷口に感染症を起している。免疫力が低下した所為だ。脳を冷す麻酔法が・・・・・・祟ったのだ」
抑々、脳を冷す方法は体温を低下させる為、風邪を引き易い状態を招く事と同義である。其でも、全く冷さない場合よりも痛みに因るショック死を免れる可能性は高かった。孰れも結果でしかないが、山崎が手術中にショック死しなかったのも、氷に依って痛覚を多少は麻痺させる事が出来たからといえるのかも知れない。だが其は単に、死期を僅か数日延したに過ぎなかった。
「・・・・・・山崎とは、既に最後の言葉を交してあります。次に私が山崎の事で呼び出されるのは、彼が死した後でしょう」
尾形の意外な返しに、良順は色素の薄い瞳孔を開いた。・・・尾形は亦楽舎の医師であり、山崎も叉医者だ。余命幾許も無い事は、互いに解っていたのであろう。併し、死する前の最後の言葉を交したという事は、死に際を看取る事は無いという事か。
「君達は―――・・・」
「・・・・・・私は、葬儀の仕度をせねばなりませぬ」
良順は黙った。江戸に着くにはまだ日数が掛る。その前に山崎は息を引き取る事だろう。尾形ほど淡々とは出来ていなかったが、土方も、水葬の準備が要るなと呟いていた。
―――翌々日の昼。
尾形は船上に出て空を見上げていた。雲一つ無い、真青な空だ。船は太陽の照る方向に向かって進んでいる。
この日、富士山丸は由良から横浜に向かって帆を進めていた。ちょくちょく碇泊していたこの船にしては長い海路だ。だが其は、最早碇泊の必要が無い、負傷者に対して容赦の要らない状況に成り果てた事を示すに他ならなかった。
「・・・・・・」
尾形は黒い数珠を持ち、全身黒尽くめの格好で独り、甲板に立っていた。―――眼を細めて、碧空を飛ぶ真白な鴎を見る。
透き通った空海に富士山丸という黒い軍艦は、非常に重々しく見えた。同じ様に、黒衣に身を包んだこの葬送人も、鴎の様に空の向うへ飛ぶ事など、到底叶いもしない夢幻であった。
「―――尾形」
―――近藤が、島田に肩を借りながら甲板上に出て来た。近藤の着物は正装で、紋服と、仙台平の袴をつけて、孰れも黒色であった。島田は唇を噛みしめ、声を殺している。
「――――・・・」
尾形は振り返り、近藤と島田の方を向いた。ざざぁん・・・と、凪いでいた筈の海が鳴った。




