第五話 森と滝とつきと
森の中は思ったよりももっと獣道然としていました。地面から突き出た鋭い葉は体を斬りつける刃のようです。
覆いかぶさる勢いで頭上に迫る木はちっぽけな少年を威圧し、気を抜けば押しつぶそうとするみたいでした。
「……ふぅ」
行けども行けども同じ景色が繰り返され、気がふさいできます。恐らく、自分だけで迷い込んだりすれば出ることもかなわない場所だからでもあるのでしょう。
そう考えると背筋がぞっとして、服の裾をつかんでいた手に力を込めました。
「大丈夫?」
「う、うん」
こんな弱い気持ちでいてはダメだと分かってはいても、大自然の前では無意味な勇気だと何度も思い知らされます。
先を行くクェイルは決して迷った素振りを見せません。足を止めることなく、時折振り返ってネオルクの状態を確認するだけで、黙々と植物をかきわけて進んでいきます。
「あ、あの」
まるで何か道しるべがあるかのように。ネオルクはさやさやと鳴る葉擦れの音に紛れてしまわない程度の声をあげました。
歩き続けた疲労で声は途切れがちになっていますが、今ある重い空気から抜け出したかったのです。
「どうかした?」
クェイルは歩くスピードが速かったのかと思い、少しだけ緩めました。
「クェイルには行く方向が分かってるんだね」
そう言うとキョトンとした顔になり、彼は少し面白く感じます。大人には似つかわしくないあどけなさがあったからです。
「……あぁ、私達には鳥のように方向を知る術や風を読む力が備わっているから。時間も分かる」
「へぇ、凄いね」
今度は、覗き込んで興味を示すネオルクを見、子どもっぽさにクェイルがふっと笑う番でした。
同時に天使にとっては当たり前のことが、人間にはとても異なるものとして映るらしいと思い至ります。
「……ネオルクと居ると、何だか忘れかけていた物を思い出す」
こうしている間にも自分は本当の主に導かれ、差し出された手を取るように歩いているだけだというのに――。
それは霞がかかった昔の記憶に呼ばれる感覚。とても懐かしいような、ハッキリとしない何かです。
「わ」
そうしてふいにひとりごちた姿に、ネオルクは瞳を見開いて声を上げました。
「え?」
一体自分が今どんな表情をしていたのかと思案するクェイルに、微笑みかける少年がいたのでした。
それからも二人はかなり進みました。木が屋根のように折り重なったこの場所では日の光もほとんど届かず、薄い空気の中にいる気分にさせます。
時もゆっくりと流れているかのようで、おかげで今がいつなのかネオルクには知る方法がありません。
時々、それを察したクェイルが教えてはくれます。けれど、どうにも実感を伴わず、いつしか現実感が薄れていくのを感じました。
「はぁはぁ」
息の荒い繰り返しが耳にこびりつきます。反対に、前を行くクェイルに疲れは微塵もありません。
――いや、自分にはもっと体力があったはず。確かにこんなに歩けば疲れはするでしょうが、ここまで体力を消耗するだろうかと疑問に思いました。
「ネオルク」
え、と声を上げるまもなく世界が回転し、始めは何が何やら分かりません。少しして、やっと自分がクェイルに担ぎ上げられていることに気付きます。
「わっ、何々!?」
ジタバタといくらもがこうとも、お構いなしに天使はそのままの体勢で更に森を突き進み始めるので、彼は「やっ、やめて!」と喚き立てました。
「疲れたって」
「それは思ったけど」
すとん。さっきとは違う意味で荒い息を吐きながら、やっとのことで地面に降ろされたことを確認します。
突飛な行動に面食らって言葉が見つからず、ようやく整った呼吸にホッと胸をなで下ろしてから、疲れた目で見上げました。
「急がなくては」
感情を押し殺したような表情には、一筋の汗が流れています。もともと暗い中にあって、一層闇を濃くした森は異様な雰囲気に囲まれ始めていました。
「はぁ、どうしたの?」
「夜をここで過ごすわけには行かない」
ばさばさという一際大きな羽音が後方の木影で起こります。鋭い風切りを見せてすぐ上方を飛んでいくのが感じられました。
温々と暮らしてきた10年間で、こんな体験も恐怖も本当に始めてです。
「な、何かあるの?」
「この森は、昼は光の者達の世界だ。でも、日が落ちれば闇の世界だ……そこでは私の力も弱まる」
光の代表格のような存在が、ぐっとネオルクの肩を掴んで引き寄せ、耳元に小声で囁きました。
見上げた天には、じょじょに赤みがかかってきたようでした。
時間を惜しんだ行程が続きます。恐ろしさから饒舌になったネオルクに応じ、会話は長々と行われました。
「気になってたんだ。この世界に何がいて、どう関わってるのか」
そこにきっと、自分も関わっていくのだろうから。訴える瞳には澄んだ光が宿っていました。
今まで知り得なかった世界への扉が開かれ、先の見えない道へと繋がっています。そこに果たさなければならない役割を感じるのです。
「……」
答えはすぐには返ってきませんでした。いつの間にか再び足は止まって、静かな中に二人の息づかいだけが聞こえています。
天使は何故だか酷く躊躇っている仕草で2・3歩前を行き、何かを探すみたいに辺りを見回しました。
「とにかく今は急がないと」
やっと吐き出した声には焦りがあり、ネオルクも仕方なく頷いてあとに続きます。
どうして教えてくれないのだろう。自分の姉は一体何者で、家族なのに会いに来てくれないのは何故?
考えてみれば謎は山積みです。そこまで考えたとき、ふいに何かの気配が現れました。ぞくり、と恐怖が彼の背中を貫きます。
「こっちへ」
手をクェイルに取られ、二人は走り出しました。日はかなり傾いてきています。
気配が段々と二人に迫ってくるのが分かります。びりびりと強い力、それもあまりいい感じのしない物です。
足音も何もしないのに、ネオルクにはそれがはっきりと分かりました。
森はどこまでもどこまでも続きます。荒く草を踏みつける音だけが聞こえ、走りに走っても全く逃げられた気がしません。
それどころかすぐそこまで来ています。そう、背中のすぐそばまで――。
「えっ」
パァン! 何かが弾ける音がしました。
びっくりした拍子に立ち止まって振り返ると、凄まじい光が森に現れ、そして一瞬にして消えたのです。それも、怪しい気配と共に。
「何が起こったの?」
もう背中にも何も感じません。先程までと同じ、静かな森が横たわっているだけです。
クェイルは考えがあるように何事かを口の中で呟きました。けれど、すぐに顔を上げて再び歩き出してしまいます。
ネオルクが疑問に思ったことをいくら聞いても、答えてはくれませんでした。
唐突に森は切れて無くなっていました。いきなり景色が変わったので、少年はびっくりです。
葉擦れの音がさぁっと鳴ったかと思うと、次いでけたたましい何かが聞こえてきました。
「うわぁ」
思わず声が漏れます。石場に囲まれた滝がその姿を現したからです。どうどうと落ちる大量の水の流れに圧倒されます。
こぢんまりした滝だとクェイルは教えてくれたけれど、初めて見たネオルクにとってはそんな風には思えない程のスケールがありました。
「綺麗……」
弾ける水に日光が当たって光ります。そうしてしばらく反射した後、太陽が完全に森の向こうに消え去り、取ってかわった月が彼等を照らしました。




