第三十四話 姉とのかいこう
「開門! なんてね」
冗談交じりに使いが手をかざすと、誰も触れていない扉が勝手に開き始めました。
鼓動が一気に高まります。中からは光と聖なる力が吹き出して、三人を清めました。
まず見えたのは何段かの階段状になった床、そして高い天井、最後に大人でも十分余裕に座れる椅子が一つです。
「あれ、誰もいない?」
「ここでちょっと待っててよ。呼んで来るからさ」
ガッカリ半分、ホッとしたのが半分でした。この安心感は、まだ心の準備が出来ていなかったための安堵です。
「あ、そうそう。そこの台に置いてある服に着替えておいてね」
トゥワイスを見送って、とりあえず落ち着こうと壁にもたれました。
石特有の冷ややかな心地よさを背に受けながら、突き抜けるような天井を見上げ、クェイルへと視線を移します。
天使はじっと例の椅子を見つめていました。その瞳には必死さと複雑な心境が浮かんでいます。
入口の傍らに置かれた小さな台には手触りの良さそうなクリーム色の衣服が用意されていました。手にとって広げてみます。
そういえば今着てるこの服は身を護るためのものなんだっけ。
契約者の体をあらゆるものから保護するための正装は、その身にぴったりとしています。今回の服は対照的に、儀式などの正装というべきものでした。
着替えながら、クェイルの眼を捉えて離さない椅子に注目します。
「その椅子、誰の?」
「……」
着替え終わって、椅子に近寄ります。建物と一体化した白い椅子に、銀色に縁取られた赤い布がかけられています。
どっしりと構えていて、座る者を選びそうな、まるで――。
「偉い人が座りそうだね」
空気が重く感じられます。二人で居て、こんなに緊張するのは久しぶりです。
クェイル、何を考えてるんだろう?
神の使いと会ってからずっと不機嫌です。天使にとっては、使命が果たされようとしているのですから、むしろ喜ぶべきことなのではないのでしょうか?
それなのに眉間に寄った皺は薄く浮かんだままです。しばしの沈黙を破って、おもむろにクェイルが口を開きました。
「それは、我らが主の玉座だ」
「えっ、じゃあ神さまの? こ、こんなにじろじろ見たらまずいかなぁ」
肩が弾みます。バチでも当たったらどうしよう、とオロオロした様子のネオルクに、更にクェイルが声をかけようとして止めました。
これまでの旅で、何かしらの異変を感じ取ってのものだとネオルクも解りました。身を硬くし、耳を澄まします。
やがて、幾つかの小さな足音が部屋の外から響いてきました。
静かな重低音を立てて、ゆっくりと扉が開いていきます。神聖な気を携えたこの部屋でさえ霞むような、強い力が吹き付けてきました。
初めに目に飛び込んできたのは漆黒の――髪。それから相手の心を見通す光を持った青い瞳。
自分と同じ色を持った若い女の人が、目の前に立っていました。
そうして「こんにちは」と通る声で言って、柔らかく笑います。少年は顔が上気するのを感じました。呼吸が浅く、早くなります。
一目で姉だと分かりました。想像していた通りの容貌、表情。初対面のはずなのにとても懐かしい相手です。
そんな彼女の後ろからは、二人の天使がぴったりと付き添っていました。一人は美しい金髪の女性、もう一人は背の高い青い髪の男性です。
どちらも優しい眼差しで彼の方を見やり、にこりと笑いました。
「会いにきてくれてありがとう。私はミモル。あなたの」
「お姉さん」
姉――ミモルは弟を眺め、確かめるように向き合います。
一言一言が胸に染み込んできて、嬉しさが伝わってきます。飾らない笑顔にネオルク自身も感化されるように、自然と笑顔が生まれました。
「大変だったでしょう、ここに来るまで」
「クェイルが助けてくれたから、なんとか……」
更に顔を赤くしてネオルクが頷きます。色々なことがありました。命に関わる危険にも遭遇しました。
それでもこうして立っていられるのは、クェイルがいたからです。
硬い表情だった本人も、嬉しそうな笑顔を浮かべています。目を合わせると満足げに頷き返してくれました。
本当にお姉さんが好きなんだなぁ。
少し悔しいけれど、なんだか納得してしまいました。
姉が一度伏せた目を再びこちらに合わせて、笑います。
「会えて、本当に嬉しい。ねぇ、私に聞きたいことがあるんじゃない?」
心からの言葉を呟く彼女はゆるやかな動きで手を前にだし、聞いてきました。その仕草は、随分心に余裕があるように思えます。
ネオルクはドキドキした心臓を鎮められないまま返事をしました。
「あ、うん。その、あの……」
「急がなくても時間はいっぱいあるから、大丈夫だよ」
少しずつ親しげに変わっていく雰囲気を纏いながら、彼女がスッと顔を覗き込んできます。
どきっと一際大きな鼓動を感じて、弾む肩をなんとか押さえ込み、彼も姉の青く吸い込まれそうな瞳を見つめました。
海と空を混ぜたような、青い青い瞳です。自分と同じはずのそれは、人を惹き付ける力を持っていました。
見つめているとすぅっと気持ちが落ち着いて、普段の自分が戻ってくる気がします。頭がスッキリして、ある瞬間、心に何かが降りてきました。
「僕と、前にあったこと、ある?」
この既視感は、「姉弟だから」では片づけられない強さで胸に迫ってきます。姉の目が笑いました。
「あるよ。数年前に、あなたの家に行ったの」
ずきりと痛みが走ります。『あなたの家』という言葉には、家族であるはずの彼女の居場所が感じられません。そこには悲しいほどに疎外感がありました。
だから反射的に言い放っていました。
「そ、それもだけど」
「……あの時のことだね」
やっぱり。
「お姉さんは、僕を助けてくれたんでしょう?」
もう分かっていました。忘れ去った過去の夢の中で見えた黒い髪や、自分を助けようと張り上げた声。
クェイルの助力を得られなかった彼に手を差しのべたのは……。
「わ、これ」
ぽんと頭に手を乗せられました。その瞬間、淡い熱とともに「真実」が流れ込んできます。
「私もネオルクも、クェイルに助けられたの」
「そうだ。僕、クェイルとの約束を破って、あの村の家に入ったんだ。そこで」
◇◇◇
「ネオルク!」
姉がのどの限りに叫びます。闇に脅かされようとしているネオルクを見つめて。
「どうしてこんなところに。一体何が……」
「もっと、確実になる鍵」
闇を纏う黒い女性が腕を上げ、彼に触れようとします。背中がゾクゾクして、足に力が入りません。素早く立ち上がったミモルが再度叫びました。
「やめて! その子に手を出さないで!!」
女性の手がネオルクの頬に触れようと伸びます。
「ママ。このコの心があれば、私はもっとママに近付けるよ?」
「だめ!!」
ミモルが地を蹴ったのを見て、ネオルクの目と鼻の先で指先が止まります。彼は小刻みに震えて、現実を直視できない状態でした。闇がニヤリと笑います。
「いらないでしょ? ママ……このコのこと、そんなに知りもしないクセに」
あと少し、あともう少しで助けられる。そんな距離でした。
「ネオルク! 応えて。あなたの心の声に応えて」
ネオルクの瞳に光が宿ります。振り返って、ミモルを見付けました。眼が見開かれ、刹那の時が過ぎ、彼の周りに強い風が巻き起こります。
「もしかして……」
「な、何!?」
「やっと追いついた」
驚きの声と安堵の声が重なります。一つは闇のもの、もう一つは――クェイルのものでした。
◇◇◇
「闇の扉を開いてしまった」
しんと静まり返った神殿に、姉弟の会話だけが響いていました。




