第三十三話 光ととびら
僕は人間だってクェイルは言ってくれたけど、もう違うものになってしまった気がする。
自然の声を聞き、見ることの出来ない存在を感知し、精霊に呼び掛けて力を行使する「契約者」。
何かの枠からはみ出した自分を見た気がして、胸がチクチクと痛みました。
『心配しなくてもいい』
不安からクェイルを見上げると、諭すような瞳で返してくれます。
いつもの声。いつもの調子。でも、どこか違う気がしたのは気のせいでしょうか? まるで決心でも固めているように思えます。
「もう分かっていると思うけど、これから君を神の世界へ連れていく。天へ、ね」
「か、神さまの世界? そこにお姉さんが居るの?」
どんなところなのか全く想像が付きません。神さまがいて、天使が沢山いて、花が咲いていて、おとぎ話に出てくる楽園でしょうか?
それに何故、姉はそんな手の届かない場所にいるのでしょう。
「ちょっと事情があってさ。理由は直接本人に会ってから聞けばいいよ。で、そこに行くには資格が要る。選ばれた者でないと入れないんだ」
「普通なら、そこへ行く方法は一つしかないから」
「一つ?」
天使の口は重く、促すのにも勇気が必要でした。
「……死ぬ、ことだけだ」
「っ」
当たり前と言えば、当たり前ではありました。
天上の世界、神や天使の世界。そこは亡くなった人の魂が誘われていくところ……どのおとぎ話でも同じです。ただ呼び方に多少の違いがあるだけで。
「もしかして、お姉さんは……!」
頭をかすめた考えに絶望が走りました。あちらの世界に居なくてはならない理由は……しかし、その予感はトゥワイスが否定してくれました。
「あ、それは違うって。知ってるでしょ、ミモル様も『選ばれた者』なんだ。ちゃんと生きてるよ」
「よ、良かった」
心から安堵しました。生きているなら、もしかしたら家族の元へ二人で帰ることも出来るかもしれません。今度こそ家族揃って暮らせるかもしれないのです。
だから、クェイルが見せた一瞬のかげりを、彼が知ることはありませんでした。ひんやりとして肉厚の、トゥワイスの手にしっかりと握られます。
声が若干低音を帯びました。
「こんなところで長話をしてても始まらないし。さっさと姉弟の感動の対面と行こうよ。契約者が一緒なら扉も開きやすいしね。念のためにクェイル、サポートを頼むよ」
恐らくこの片鱗が、彼の本当の姿なのでしょう。
先程まで吹いていなかった風が下から上がってきます。何度も見て知っている、力が周囲に影響を与えて起こす風です。
「目を閉じて。見えてこない?」
「……扉だ」
言われたとおりに目蓋を閉じると、すぐにそれは現れました。
「契約者は二つの世界を結ぶ扉の役目を担ってる。精霊と契約するのは、精霊がどちらの世界にも属する存在だから。契約によって、天と地両方の力を得て、心の中に扉を作るんだ」
説明というより、その響きはこちらを落ち着かせるお呪いに似ています。
「触れて、開くんだ」
心の中の扉を開く、そのイメージをなかなか掴めないでいた暗闇の中で、一筋の白い手が導くようにそっと押して助けてくれます。
「力じゃない。気持ちだ」
気持ち、扉を開くイメージ。
この先の未来に思いを馳せました。姉に会いに行くのだと。
話したいことは幾らでもあります。疑問も、頭の中で溢れ返りそうです。一体どれ程実現するのか解らない想像を抱きながら、扉を少しずつ開いていきました。
光が、溢れました。
「はい。到着」
「うわぁ……!」
反射的に瞑っていた瞳をそうっと開くと、そこには先程とは全く違う風景が広がっていました。
風が優しく行き過ぎる平原があります。
地には柔らかい芝生の絨毯が敷き詰めてあり、あちらこちらには花畑や昼寝をしたら気持ち良さそうな木陰、そして先には――。
「お城……? 何だろう、この感じ」
快晴の下、日の光に照らされて神秘的に輝く白い建物を見て、思わず呟きます。トゥワイスがくすっと笑って、「お城じゃなくて、神殿」と教えてくれました。
「あそこにミモル……さまがいらっしゃるってワケ」
「お姉さんが?」
そう、と答えたのはクェイルです。城を見たときに感じた気持ちは姉の存在を察知してのものだったのかもしれません。
ドキドキが高まってきて、抑えようと胸に手を当てると逆に意識してしまいます。
もうすぐ会える。もうすぐ。
歩き出した足も自然と早くなって、ともすれば二人を置いていってしまいそうになりました。
聞きたいことが沢山あります。話したいことも。まだ見ぬ肉親との邂逅を求めて、ここまで長い旅路を歩んできたのですから。
神殿は間近に見るといよいよ白く、建てたばかりのように一点の汚れもありません。
階段も床も柱も、細部まで緻密に計算され、寸分の狂いもないようです。建物というよりは芸術品と称した方がしっくりきます。
同じ白さでも、メシアが眠っていた深海の城とは陰と陽の違いがありました。あちらはほの暗く光るのに対して、こちらは明るく輝いています。
そして、噎せ返りそうな『聖なる香』がここには満ちていました。
嫌悪感はありません。不思議と大きな存在に包まれているような安心感があるばかりです。
クェイルの匂いに似てるんだ。
天使には“生物の臭い”がありません。
今も、段を上って一息付く自分の後ろにそっと寄り添う光は、隠す必要の無くなった翼を背に現し、感情を押し殺した瞳でこちらを見守っています。
「さ、こっちこっち」
「あ、うん」
外に開けた廊下を進んで右に折れ、またすぐに角を右に曲がり、突き当たりを左にと、じょじょに神殿の奥へと入り込んでいきます。
壁だけを見続けているうちに、方向感覚は失われてしまいました。
「大丈夫」
背に手が触れてきます。大きくて、繊細で、顔より表情を語る掌です。それに軽く押され、止まりかけた足が前へ出ました。
臆病で世間知らずだった以前の自分から、少しは変われたでしょうか? 姉と対面するのに、相応しくなれたでしょうか?
時折、視界によぎる扉を見ては、逃げ込みたくなる衝動を抑えます。そんな少年の心理を悟ってか、神の使いがクスクス笑いました。
「そんなに気になる?」
「それは……」
「と言っても、天使の私室がほとんどだけど。昔はもっと小さな建物だったのに、今じゃ大所帯だからね」
言い回しに暖かさを感じて、こちらも微笑むことが出来ます。そう、きっとここに住む者達は皆、家族なのです。
「神殿は東西南北の四棟に分かれてる。でも、使われないところもある。皮肉な話だね」
「皮肉……?」
三人が入ったのは東のはずれらしく、向かっているのは北とのことでした。大きすぎて全体を把握するのにはかなり時間を要しそうです。
「あの、そういえばここには神さまがいるんでしょ? 挨拶とか、しなくていいのかな?」
「え? あ、ああ。それなら問題ないって。そのうち絶対会えるから」
なんとも引っかかる言い方です。トゥワイスは何故か焦った風で、ネオルクは眉根を寄せました。そんな軽いノリで本当に大丈夫でしょうか。
けれども、この話題はそこで尽きてしまいました。
「ほら、ここ」
言われる前から眼で捉えていました。神殿のかなり奥、物音一つしない静けさの中で、他の部屋とは明らかに違う雰囲気を漂わせています。
巨大な荘厳さを備えた扉。一目で「ここだ」と直感しました。




