第三十二話 さいごの契約
今度の旅路はとても長い、それを知ったのは夕方頃でした。
「この次の村まではあと3日は歩く必要がある」
「そんなに?」
とは言うものの、今までだって長い距離を経てきています。さして実感が湧かないのは、ひとえにクェイルの飛ぶ力の賜物でしょう。
本来ならもっと時間と労力がかかっていたはずです。
でも、ちゃんと自分で歩かなきゃ。頼ってばかりはいられない。
ちょうど通りかかった旅人のための休憩所で、夜を明かすことにしました。他に人はなく、二人は身を寄せ合って眠ります。
林を背にした小屋の窓からは、柔らかい月明かりが入り込んできました。
「……ん?」
何かの拍子に目が覚めました。まだ辺りは宵闇の中にあり、涼しい夜風が草木を揺らす音だけが空気を支配しています。
毛布を抜け、静かな足取りで扉へ向かいました。すぐ横で規則正しい寝息を立てるクェイルを起こさないように、ゆっくりと足を前に運びます。
「呼んでる……」
静寂を貫こうとする林に、一点だけ違和感が生まれていました。
見ると、夕方ここへ着いたときには分からなかった小道が、細くうねりながら奥へ奥へと続いています。
ゆるい坂道を上ります。高い木々の隙間から丸みを帯びた月が覗き、こちらを見下ろしています。歩いていくと、唐突に林の反対側へ抜けました。
崖の一角が更に向こうへ伸び、巨木が一本、枝葉を大きく広げています。
「誰?」
月の下、巨木にもたれ掛かる人影がネオルクを待っていました。こちらからは逆光で輪郭がぼんやりと分かる程度です。
根本にオレンジの明かりが灯り、それは温かな炎に似ていました。
「一つの試練で二人分。忘れてない?」
「……フィア?」
「さぁ、印を刻んで」
名前を呼びながらも、人影はもっと自分に近い存在に感じられました。声も、炎の精霊のそれではないように思います。
ゆらゆら揺れる小さな明かりに照らされて、髪が煌めきました。楽しそうに口元が笑いの形に歪みます。
「神の血統者・ネオルクを正式な契約者と認む」
今度は耳元に気配が生まれました。はっとして振り向くと、空に浮かんだフィアが真っ直ぐに見つめてきました。
昼間のサリアのように、腕に触れようと手を伸ばしてきます。あのビリリという刺激を思い出して、痛みに耐えるためにきゅっと目を瞑りました。
「待て」
林の入り口にクェイルが立っていました。ネオルクが居なくなったことに気が付いて追ってきたのか、或いは初めから寝てなど居なかったのでしょうか。
「天使抜きで儀式を済ませようとは」
「別にそんなつもりじゃないよ。そっちがトロいだけ」
応えたのは木陰の人物です。数歩前に歩み出て、炎を弄ぶ姿を月明かりに晒します。
大きな帽子をかぶっていて、それに包まれるように青い髪がのぞいています。
軽い足取りでネオルクのところへ寄ってきて、にこりと笑うのは赤い、親愛を相手に感じさせる瞳でした。
「こんにちは、初めまして。僕はトゥワイス。よろしくっ」
「よ、よろしく……?」
大人と子どもの中間といった印象の少年が、すっと手を差し出します。戸惑いながらもそれに応じて、二人は握手をします。
機嫌の悪そうな顔で、クェイルも近寄ってきました。
「何故、『使い』がこんなところへ?」
「聞かなくても分かってるクセにさ」
トゥワイスと名乗った少年は変わらない笑顔で人さし指を立てます。
「クェイル、『使い』って?」
話の筋から、彼が精霊でも天使でもないことは分かりました。聞き慣れない言葉に首を傾げていると、本人が割って入り説明し始めます。
「我らが主、要するに神様の使いってこと。こう見えても結構偉いんだよね」
「神様の、使い?」
「そう。神様と天使達の連絡係をやったり、代わりをつとめたり……まぁ色々やるのが僕達の仕事かな」
僕「達」というからには、トゥワイス以外にも何人か「神の使い」が存在するということでしょうか。
そんな凄い人物が、一体自分に何の用で会いに来たのか、考えてみても判然としません。
「じゃ、続きをちゃっちゃと済ませて、行こうか」
「行くってどこへ?」
要領を得ない反応にしびれを切らしたトゥワイスが「あのさぁ」と呆れた顔をします。ここはとっとと結論を切り出した方がいい。そう判断したようでした。
「お姉さんに会いたいから、ここまで来たんじゃないの?」
「……!」
まだ先のことだと思っていた彼にとっては、言葉にならない衝撃でした。こんなにいきなりだとは考えていなかったのです。
「サリアを助けて契約者としての仕事をやってくれたんだから、当然だよ」
「仕事?」
「闇を消滅させること。まぁ他にも沢山あるけど、後で説明するからさ」
さぁ、と手を引かれました。一時中断されていた『儀式』の再開です。すぐに、ふわふわと漂っていたフィアが寄ってきて、瞳を覗き込んできました。
心の準備が出来ておらず、不安から宙を舞う視線がクェイルで止まります。
「心配ない。私が付いている」
「う、うん」
腕をとろうとしたのは、しかし、そう錯覚しただけでした。彼女は掌をネオルクの左腕へかざし、「契約する」と宣言しました。
体の中に炎がある、そう感じました。かっと胸の辺りが熱くなったかと思うと、唐突に左腕が痛み始めます。
「痛っ」
それでも、何もなかったかのようにそれはすぐに過ぎ去りました。あとはただ、いつもの通りに新たな力が全身へ染み込んでいく感覚があるだけです。
「新たな契約者の誕生だ」
「え、もう終わり?」
フィアに言われても実感出来ません。身の回りを確認してみましたが、特に変わったところはなさそうです。
すると熱から解放され、ほっとした顔のネオルクに、精霊が言葉もなく腕を見るよう人差し指で示してきました。
息をゆっくり吐いて気を落ち着かせてから、左腕の袖を捲ってみます。
「……これ!」
思わず感嘆の声が零れました。二の腕に先程まで無かったはずの印が刻まれていたのです。
「四角形はこの統率された世界を、中央を斜めに走る線は、世界を渡り、天上と地上を結ぶ者を表す、らしいんだけどさ」
トゥワイスが良く分からないやと舌を出しました。言われた言葉の意味を噛み砕くように口の中で何度も繰り返しますが、雲を掴むようでピンとは来ません。
「ま、これでめでたく旅も完了ってことで、おめでと~!」
「え?」
唐突な旅の終わりが信じられなくて、受け止め切れていない心が声を発します。
旅が終わった後のことを考えていなかったわけではないけれど、そこは自分の思考が及ばない部分だと極力気にしないようにしてきたからです。
「そう。ここでお終い。さ、お姉さんのところへ連れていってあげるよ。その資格をせっかく得たんだからね」
「資格って、正式な契約者になれたこと?」
「普通の人間じゃ、あそこには到底入れないからね」
少年がにこりと笑います。頭の回転が速いのは嫌いじゃない、とても言いたげな笑い方でした。
普通の。それは契約者が人の中では異質であることを指しています。以前、自分の中で膨らんでいた意識が再び表に浮かんできました。




