第三十話 いわかんの片鱗
ガッ! その時、忍び寄っていた敵の一人による攻撃が、ディーリアの背中をかすめました。
「うぁっ」
痛みに耐えきれず声を上げ、体は仰け反り、崩れ落ちる……ことはありませんでした。
服が割けた間から覗く白い背には三筋の傷があり、流れる血に止まる様子はありません。それでも彼女は仁王立ちしたまま、動じる仕草さえ見せずにいます。
クェイルが憎々しげに顔をしかめました。
「依り代を傷つけられても何とも思わないのか」
「この体が覚えている悲しみが刺激されるだけ。この体にとっては痛みなんてもの、意味を持たないんだから」
許さない、私の大切なひとを奪ったお前達を、絶対許さない!
胸の奥で誰かが叫んでいます。それでも表面では震える身体を抱えながら、「もう、あまり保ちそうにない」と冷静に言いました。
「我らが主に背くのなら、ここで消す」
「そんな、割に合わないことはしないわ」
すでに敵意をあらわし始めたクェイルを一瞥して、明らかに笑います。
カッ! 彼女が手を空へかざすと、細い光の筋が目前の敵を貫きます。言葉にならない声を発しながら、打たれた影が四散しました。
「やっぱりこの方が性にあってるし」
そう呟いて大きく腕を広げ、空を仰ぎ見ます。天空を受け止めようとしているかのようです。
「ネオルクは任せたわ」
「……言われるまでもない」
途切れがちに続いていたネオルクの意識が、ここで完全に途絶えました。
「……あれ?ここは」
目覚めてみると、ベッドの上でした。白い天井が日に照らされ、レースのカーテンがそよそよと揺れています。
すぐに頭の靄が晴れ、記憶が蘇ってきました。
ディーリアを狙う敵が現れ、港近くに移動したところを襲われ、そして……。反射的に上体を起こし、ビリっと背中に電気が走ったような痛みを覚えました。
「っ!」
「まだ寝ていて。傷を塞いだだけで、失われた血が戻ったわけじゃない」
「クェイル! ……うぅ」
「ほら、無理は禁物だ」
優しい声とともに、顔を覗きこまれます。背中を支えて貰い、再びベッドに戻されました。
ここはどうやら病院のようです。ネオルクが寝ているベッドの横にも二つ、空のベッドが置いてあります。
ディーリアの父親が入院しているのと同じ病院と見て間違いなさそうでした。
「良かった。クェイルが無事で」
心の底からホッとしました。ディーリアを庇って倒れてしまってから、確かな記憶がありません。
クェイル達が何か話しながら敵と戦っていたような気がするのですが……。
「そ、そうだ。ディーリアは?」
「……」
黙り込む様子から、嫌な予感が込み上げました。自分達が助かったのだから、彼女も大丈夫のはずです。
それなのに口は閉ざされ、何も語られることはありません。
「え、どうしたの? ねぇ、どこにいるの?」
「……いない」
「え」
意味を理解するために、少なくとも数秒は要しました。その間、お互い黙したまま、重い空気が流れます。長い長い時間に思われました。
「何、それ。だって、僕が……」
助けたはずなのに。言い切ろうとして記憶が不確かなことに思い当たり、続きは空気に溶けて消えてしまいます。
「すぐ後でディーリアも攻撃を受けた。私は、ネオルクを治療するので手一杯だった」
淡々とした説明に、切ない響きを感じたのは錯覚でしょうか。思考を拒む頭とは別に、耳は何かを捉えてはっとしました。
外から、病室の外から、何か聞こえます。
……嗚咽です。聞いた途端、彼は理解しました。
声が宿屋の主人のものであり、それの意味するところを。
唐突な負荷から逃れようとしたのか、ネオルクの瞳が見開かれたまま閉じられません。
「分からないよ。僕、分からない」
「ネオルク、聞いて欲しい」
バランスを取ろうとする精神が流れ、頬を伝い、顎から鎖骨へと落ちていきます。
「何を?何も分からないのに?」
ぽっかりと空いた穴から冷気がどんどん吹き込んで、全てを凍結させていきます。そうすれば痛みを感じなくて済むから。何も考えなくて済むからです。
僕のせい? 僕の力が足りなかったから、ディーリアは。
「違う。お願いだから、私の目を見て」
肩を掴んで揺さぶっているのは誰でしょう? 見る、とは何でしょう?
スイッチが切れたように、自然と目蓋が現実に蓋をします。ネオルクは再び深い眠りに落ち込んでいきました。
◇◇◇
『僕は、約束を破った』
どこからか、聞き覚えのある声が流れてきます。
「……これは、夢?」
『クェイル、ごめんね』
「そうだ。あの時の、メシアの見せた……」
ふわふわと漂う中、その名前で一気に覚醒します。
水底の神殿で見せられた幻……いえ、メシアの言葉を借りるなら、「失ったままの過去」。まだ実感はないのに無実だとも思えない、あったはずの出来事です。
精霊の試練ではクェイルが現実に引き戻してくれました。
「覚えていないけど、この時も僕のせいでクェイルが大変なことになって」
なんて大事なことを忘れてしまったのでしょう。この経験があれば、あんな無責任な行動をせずに済んだかも知れないのに。
学ぶことさえ、保身のために捨ててしまったのでしょうか?
「あっ」
下を見ると、大きな街が広がっていました。商店街らしき店の連なりが見えます。そのうちの一軒の屋上に「自分」はへたり込んでいました。
大きな影が迫っています。クェイルがくれた石の力で苦しみから免れたのも束の間、すぐまた襲われようとしているのです。
「逃げて!!」
叫んでも届きません。どうやら本当に過去を垣間見ているだけのようでした。
『あぁああぁッ!!!』
女性らしき人影が、尻餅をついた格好で見上げる「ネオルク」の前に立ちます。恐れから絶叫が発せられていて、逃げたくとも無理なようでした。
「心を、奪おうとしてるんだ」
『もっと、確実になる鍵』
呟きがやけに大きく聞こえます。これも、夢のせいでしょうか。黒い影が腕を広げ、襲いかかろうとしていました。
「……! 助けて、クェイル……!」
絶望的な状況です。それなのに自分が生きていられるのは、ここでクェイルが助けてくれたから……。
『やめて! その子に手を出さないで!』
「えっ?」
甲高い、誰かの声が息を飲む緊張を切り裂きました。
声がしたのは、自分達がいる建物の向かい側です。予想外の展開に驚きながらも、天上から見守るネオルクがそちらを見ようとし……怒った瞳とぶつかりました。
◇◇◇
「もう、勝手に気を失わないでよね」
「……ディーリア? あれ、僕……今――ええっ!?」
見開いた目でしっかりと確認します。まさに、もう死んでしまったと思っていたディーリアがそこに立っていたのです。しかし、どこか違和感を覚える姿でした。
「どういうこと? ディーリアは」
「失礼ね。でも、そうね。嘘じゃないわ。……ディーリアは、死んだんだから」
意味が分かりません。何故、目の前に存在しているのに、……死んだ?
疑問を飛ばしまくっているネオルクを見て、彼女が「あのねぇ」と深い溜め息をつきます。
「気が付かない? 私、こんなにイメチェンしたんだけど」
「あっ。髪が青い……?」
「正解」
以前のディーリアは赤い髪と瞳の持ち主だったはずです。今の彼女は透けるような青い髪に燃えるオレンジの瞳という、全く毛色の違う人間になっていました。
結った緑のリボンも前よりずっと栄えて見えます。心なしか、人柄まであか抜けたような気がしました。
「ディーリアじゃ、ない……?!」




