第二十九話 倒れ伏すからだ
痛い描写があります。ご注意ください。
「あ、あんなのに敵うわけない」
唇が小刻みに震えるその奥から、聞き取るのも難しい声が吹いてきます。こちらの言葉も耳の横をすり抜けるだけで心には遠い感じがしました。
「何、言ってるの? 僕達の方が優勢なんだから、ディーリアが力を貸してくれれば勝てるよ」
女性の細い腕を力で引き上げるのは気が引けましたが、多少の痛みを感じて貰った方が、彼女の正気を取り戻させられるかも知れません。
ネオルクは指に力を込めて手元へ引きました。
「ほら、立って……」
「やめて! 触らないで!」
パンッ! 掴まれた反対側の手で容赦なく弾かれます。
反動で後ろに上体をそらした一瞬、幾重にも巻かれた髪止めのリボンが抜け落ちて、本来の長髪が現れました。
一体どうしたというのでしょう? 何故ここまで闇を恐れ、触れられることを拒むのでしょうか。
恐怖にさらされたためか、彼女の心から溢れ出した感情が一挙に押し寄せてきます。
「触らないで……。みんな傷付ける、……遠ざけて……近寄って来ないで」
ネオルクは堪えきれない思いに苛まれました。
向こうでは今もクェイルが敵と対峙しているはずなのに、これでは助けるどころではありません。
何で、こんなに苦しいんだろう?
胸が締め付けられます。刹那、光の精霊の姿が揺らぎました。精神を集中させて開いた「扉」が、意識の散らばりに比例して閉じていきます。
「嫌、みんなみんな、私を利用しようとしているだけ……闇も光も同じ……!」
「同じ?」
違った価値観から生み出される吐露を理解するのは難しいことです。根源を知る過程を経て初めて見えてくるものだからでしょう。
ネオルクは考えの糸口を求めて角度を変えてみました。
かつて、天使とともに生きていた頃のディーリアに焦点を合わせました。想像の中の彼女はパートナーと笑顔を交わし、幸せに満ちた時を送っていた、はず。
ふと、疑問が生まれました。
パートナーって、誰?
顔がなく、実体がありません。確かにディーリアはいくつか「彼」について語りました。それは幸せそうに。
でも、名前は?
「私から全て奪った! ……私自身さえ!」
取り乱したディーリアの口から、「彼」は表れません。闇が大切な人を奪ったのなら、もっと直接的な言葉が飛び出してきそうなものです。
無意識にネオルクは口走っていました。
「君は、誰?」
唐突な結論に、本人が一番、狼狽えました。
まるで全てが借り物のような空虚さばかりが漂っています。存在したはずのパートナーを窮地で忘れてしまうのは、彼女自身の記憶ではないから……?
錯乱しているだけでしょうか? それともやはり想像したとおり、目の前にいる女性はディーリアではないのでしょうか。
今の彼女を支配してるのは、ひたすらな恐れと拒絶です。そして、時折見せる人への不信感。これらは何を示しているのでしょう?
「危ない!」
思考を切り裂いたのはクェイルの警告でした。そちらを見やり、しまったと思ったときには、手遅れでした。セインの光が完全に消えていたのです。
それは即ち敵の助長を意味しました。一度は彼等を制していた力が無くなったことで、こちらは無防備になっています。
相手に好機を逃す理由はありません。
黒い鉤爪のような腕が当初の獲物であるディーリアの目前へと迫りました。残念ながら、彼女自身はまだ自分だけの世界から帰ってきてはいません。
クェイルの助けもこの距離では間に合わないでしょう。
――やられる。
思った瞬間、彼は身を躍らせていました。
音は、しませんでした。
ディーリアが顔を上げます。
見えたのは紅。影の周りを彩ります。
やがて視界を遮っていたものが、ゆっくりと取り除かれていきました。
「ネオ、ルク……?」
意識が明瞭さを取り戻していきます。曖昧さを許さなかったのは、小さなうめき声でした。
……どさり。物みたいに、少年の体が落ちました。
「な、何? 何が起きたの? ねぇ」
揺り起こそうとして、指にまとわりつく粘液に気が付きます。
「……やああああぁぁぁぁあぁぁああっっ」
はっきりしてきた頭に急激な情報が流れてきて、それを御するために溢れた叫び。ですが、現実を直視するためのきっかけには十分でした。
「ネオルク!!!」
喉が割けんばかりの悲鳴をあげたのはクェイルです。驚きに見開かれた瞳を直さず、無意識に二人を狙う敵を粉砕します。
その勢いのままネオルクのもとへ駆け寄りました。
「しっかり! 目を開けて……っ」
治癒の力を注ぎ込むために傷口を確かめ、絶句します。幸い深さはそれほどではなかったのですが、かなり広い範囲で抉られていました。
そこから次々に鮮血が滲み出てくるのです。とても応急処置で間に合う怪我ではありません。天使の脳裏に、とある出来事がフラッシュバックしました。
「あの時」も、大切な者ために……。もうあんな思いをさせないと誓ったのに。
感情を押さえ込もうと、歯を食いしばる音がします。
「……ぅ」
途切れがちな呼吸の間から呻き(うめ)が漏れました。ネオルクは痛みから解放されることもなく、耐え続けているようです。
「今、助けるから……!!」
とにかく有りっ丈の力を治癒に回し、限界を超えて注ぎましだ。なりふり構っていては助からないと悟ったからです。全身から汗が噴き出すのを感じました。
そうして作業に没頭するのと同時に、ディーリアを睨め付けることも忘れません。
「まだ、偽り続けるつもり?」
低く叱咤する声色です。一時的に退けた敵も殲滅したわけではなく、じりじりと距離を縮めてきていました。
彼女が伏せたくともそらせない瞳を向け、呟きます。
「あなたは……知っていたのね」
「どうしてそこまで他者を拒む?」
「ネオルクはいつでも扉を叩いていた。あなたが自分で開いてくれるまで」
間合いを詰めてくる敵達に囲まれながらも、二人は少年を挟んだまま姿勢を崩しません。
「でも、結果がこれ。私は……あなたを許さない」
真っ赤に濡れた手が治癒の光で輝いています。けれど必死の治療も追い付かず、ネオルクの顔はうっすらと青くなっていました。
傷口を塞いでも、絶対的に血が不足しているのです。こればかりはどうしようもありません。
『だい、じょう……ぶ? 怪我、して……な……?』
呼吸するのがやっとの状態で、うっすら残った意識を保ちながら語りかけてきます。その痛々しさには目を背けたくなりました。
反対にディーリアの口元には開き直りの笑みが浮かびます。
「いつ、気が付いたの?」
「違和感は初めからあった。ネオルクも感じていたようだが……。何も無ければそれで構わないと思っていた」
人の心の闇。ネオルクが見たのは、本当に彼女のものだったのでしょうか。
「段々と、共に行動するうちに違和感が直視せざるを得ないほどに膨れ上がって……気付いた。天使の残り香に混ざった、悪魔の気配に」
「私は悪魔じゃないっ!」
一段高い声で叫びました。それだけは何を置いても否定しなければならないと誓っているように。
クェイルは様々な感情をたたえた表情のまま、低く抑えて言い放ちます。
「そう、あなたは……いや、お前は悪魔じゃない。そして――人間でもない」




