第二十七話 つぐない
「それにしても、神様はもっと優しいものだと思ってたよ」
「……」
「だって、クェイル達は僕達を護らなきゃいけないし。駄目だったら罰を与えるなんて。……もしかして怒った?」
返事が返ってこないのを不審に思って顔を覗き込むと、表情が消えていました。
どんなに冷酷に思えても、クェイルにとっては大事な存在なのだということを忘れてしまっていたのです。
「いや、怒ってはいない。ネオルクのいうことも一理ある」
「?」
「そう、あの人も同じ事を――」
少しだけ開いた窓から入ってくる風を含んで、カーテンが膨らんでは萎んでを繰り返します。
終わりのない連鎖を見つめて、クェイルが言いかけたことを切りました。
「『あの人』って、お姉さん?」
ぱっと振り返ります。思っていたことを見透かされて驚く顔でした。
「なんとなく。クェイルはお姉さんが好きなんだろうなぁと思って」
姉を想っている時の天使は、普段と違う空気を纏っています。
視線が外されます。それは、「照れ」。どんなに押し隠しても、噛み殺した笑みが強く伝わってくるようでした。
姉が好かれていることへの嬉しさと、どんな間柄なのだろうという疑問、それに不謹慎な気持ちが混ざった感情を、今度は彼が隠さなければならなくなりました。
「好き……か」
席を立ち、ディーリアの様子を見に行こうとドアを抜ける瞬間、呟きを耳にします。
けれどもネオルクは気にする様子を見せずに部屋を出ました。どうしても振り返ることが出来なかったのです。
振り返れば、胸に起こったこの気持ちを悟られてしまうでしょうから。
待合スペースに置かれたソファに彼女は腰掛けていました。ぼんやりとした表情に涙の後が残っています。近付くと慌てて目を擦る仕草をしました。
「みっともないところを見せちゃった」
間を持たせるように乾いた笑い声をあげて、大きく伸びをします。さも、先程の一件がなんでもないことであると示すように。
「クェイルはディーリアが思ったようなつもりで言ったんじゃなくて、ただ、心配で」
「解ってる。あれは私の方が言い過ぎだった。あとで謝らないと」
「……聞いてもいい?」
横にこうして座ってみると、変化に今更ながら気が付きます。安心した表情のディーリアは初対面の時とは別人に見えました。
うやむやには出来ません。彼女のためにも、自分自身のためにも。傷ついてしまうことになったとしても、現実から目をそらしたくありませんでした。
「そうね、いいわ」
「ディーリアのパートナーって、どんな天使だったの?」
「いざ説明するとなると、難しいな」
溜め息をひとつ零して大きく息を吸い込みます。そうして吐き出す勢いに任せて話し始めました。
「いつも笑ってた。何だか腹が立つくらい。でも、ちょっと抜けたところがあって憎めない感じかな」
くすくすと細かい笑いが起きます。楽しかった想い出が胸に過ぎるのか、柔らかい表情に変わっています。
「そう、なんだ」
反対に、ネオルクにとって彼女の語る天使像はクェイルの様子からは全く想像が付かないものでした。
まるで未知の領域で、互いに理解し合うのは遠い道のりのようです。
沈黙が降り、それぞれの考えに沈みます。相手の思考への推理を含んだ考えにです。その静けさを遮ったのは、ネオルクの次なる疑問でした。
「あの火事は何が原因なんだろうね」
確たる答を求めていたわけではありませんが、ディーリアの返事はごくあっさりとしたものでした。
「そんなの決まってるわ」
「えっ?」
自信満々さに思わず瞳を見つめてしまいます。けれども真っ直ぐ前――壁という何もない虚空を睨み付けた彼女と目線がかち合うことはありませんでした。
「あいつらよ」
「『あいつら』?」
「……私からパートナーを奪った奴ら」
低い声でした。
ずきん、と胸が痛みます。言葉にまとわり付いた「殺意」という黒い感情が自分に向けられてでもいるように。
この女性はパートナーを失ったことで、人間の持つ闇の部分を押し込める方法を無くしてしまったのかもしれません。
僕も、クェイルが居なくなったら同じようになってしまうのかな。
思考することを躊躇われる事象が、ディーリアを見ていると次々に脳裏に浮かんできました。
見たくないもの、聞きたくないものが目の前を去来していきます。
「どうしてそんな」
「理由なんて知らない。あいつらが勝手に私達の生活を脅かしに来るんだから」
なげやりな態度で立ち上がり、ふと「そうだ」と呟きました。こちらを振り返る彼女には、先程までとは違った考えが閃いているようです。
「そうよ、今度は私一人じゃない。出来るかもしれない」
「……?」
残酷とも取れる笑みを真剣さの下に備えていました。表面化した本性に再び晒されて少年が息を殺していると、その手をそっと捕まえます。
ヒヤリとしたのは手や背中を伝う汗でしょうか。
「あなた達が居れば、あいつらに復讐してやれる。きっとね」
こんなの、間違ってるよ。
父親をしばらく病院で預かって貰う算段を付けたディーリアは、有無を言わせず二人を連れだしました。
一言も交わしません。再度、宿の方向へ歩き続ける彼等の姿は、知らぬものから見ればとるに足らない風景の一部だったかもしれません。
このわだかまりさえ知らなければ。
心の声でクェイルにことの次第を説明し終わったネオルクは最後に付け加えました。
『間違ってる。復讐なんて駄目だよ』
これまで命のやり取りなど外の世界で起こることだと思っていました。渦中に巻き込まれるなど考えたこともありません。
『ディーリアを止めてよ』
目標物に向かって一直線の彼女の背中を見上げて、吐き出しそうになる溜め息を呑み込みます。
横を歩く天使は無表情のままで、口をきくことさえ忘れてしまったようでした。
『私には出来かねる』
無言だったのは状況や考えを整理していたからだったのか、突然声が戻ってきました。もしかすると憤っているのかもしれません。
それは自分に対してか、あるいは。
『どうして?』
『我々は主の意志には逆らえない』
『僕はディーリアを止めて欲しいんだよ?』
『思考と行動がちぐはぐになっている。混乱状態のネオルクには従えない』
どちらが「ちぐはぐ」なのだとほんの少し毒づいて、少年は肩を落としました。けれども指摘は的を射ていて、反駁する材料がないのも事実です。
自分は大事なことを他人任せにして、逃げているだけです。これでは「怖い怖い」とわめき散らすだけの子どもと同じでした。
「ねぇ、ディーリア。こんなことやめようよ」
勇気を出して言ってみます。本当はピリピリとした空気を放ち続けている彼女に触れることがとてつもなく怖かったけれど、このままにもしておけません。
止められるのは自分だけだと己に言い聞かせて腕を掴みました。
復讐に燃える彼女の腕は、しかしヒヤリと冷えています。それだけで心臓が軽く跳ね上がりました。
イケナイ。本能が訴えています。危険だと。
それでも関係ないとディーリアは前に進もうとします。力の分はあちらにあり、根負けしないようにぐっと引き寄せました。
「待って! 駄目だよ。こんなことしたってディーリアのパートナーは喜ばないよ」
「どうしてそんなこと分かるの?」
仕方なく振り返りますが、少年を一瞥しただけで見向きもないみたいです。
「じゃ、じゃあディーリアはもしパートナーが同じ事をしたら、嬉しいの?」
「……」
自分のために誰かが血を流し、返り血も浴びるでしょう。そして殺意が殺意を生むのです。
このセリフには考えさせられるものがあったのか、ディーリアも立ち止まって地面を見つめました。




