第二十六話 つみとばつ
「天使の気配がする」
はっきりとクェイルが言いました。ネオルクは人に話して良いのかと内心ハラハラしていましたが、水をさすわけにもいかず黙って天使の横顔を眺めています。
びっくりしたのは返事の方でした。
「あなた達もあれの関係者なの?」
「あれって、もしかして」
少年は目を大きく開いて窓際の女性を見つめます。
「私も天使だから、仲間の痕跡は分かる。あなたは女神の血族でしょう」
「あなた、天使なの? それにしては、何だか私が知っているのとは違うような」
女神の血族。それはつまり、契約者であることを意味します。ぶつぶつ言っているのを遮って、クェイルは本題に戻りました。
「あなたのパートナーは?」
すると、彼女はまた光を失った瞳に戻り、黙り込んでしまいます。あまり訊ねてはいけないことだったのかもしれません。
「……失ったのか」
どきっと胸を鼓動が打ちました。そしてそれはネオルクだけが感じたものではなかったようで、ディーリアははっと顔を起こし、悲しげに天使を睨み付けます。
「そうよ! 私の、私のパートナーはもう居ないの!」
「なら何故次のパートナーを持たない? 天使が傍にいれば、今回のことだって未然に防げたのに」
感傷は何にもならないとでも言いたげな態度に、ネオルクは目を閉じて耳を塞いでしまいたいほどの辛さを覚えました。
「私のパートナーはあのひとだけ。代わりなんて要らない……!」
感情が高ぶった彼女はその場でわっと泣き出します。手で覆った頬を伝って、涙が後から後から流れてきました。小さな手が更なる辛苦を押しとどめます。
「クェイル、やめて」
大切なパートナーを失ったディーリアの悲しみも、感情を捨てて理性的に問い詰めるクェイルの強引な姿勢も、見てはいられませんでした。
「さっきのこと気にしてるんでしょ?」
「あれは私の力が至らなかったから」
クェイルの心に固まったものを解きほぐす時間が欲しくても、悠長に構えている場合ではありません。
「これは僕達二人の問題だよ。だからクェイルが自分を責める必要なんて無いし、ディーリアにその気持ちをぶつけちゃうのもいけないよ」
こうして無事なんだから、とネオルクは訴えました。みんな助かったのだから、そんな顔をしなくてもいいのだと。彼はディーリアに近寄り、頭を下げました。
「ごめん。クェイルはディーリアのことが心配で、あんな言い方をしただけなんだ。許してあげて」
いつも傍らに寄り添うパートナーを失う悲しみ。その痛みはいかほどのものでしょう。考えるだけでつい視線を落としそうになります。
「いいの。間違ってないだろうし。でも私は、天使を消耗品みたいには見られない」
冷めた声で返事を返し、俯いて顔を見せないまま部屋を出ていきます。その背中を見送りながら言葉を探していても、何も浮かんでは来ませんでした。
目を覚ます気配のない主人を見つめながら、考えるともなく考えていました。
クェイルが居なくなったら……。
姉への唯一の道標であり、自らの行く先へと導く存在です。同時に『消耗品』という言葉が頭に響きました。
違う、それだけじゃない。
ここまで旅をしてきた仲間がもうかけ替えのないパートナーになっていることに気が付いて、ディーリアの心を覗いた気持ちになります。
「心配は要らない」
横に座っていたクェイルが真剣な眼差しを向けていました。心を見通す力を宿した瞳を。その光に貫かれることさえ、もう慣れてしまって、心地良ささえ感じます。
「天使は、主神ある限り死ぬことはない」
口調に迷いはなく、少なくともディーリアとのやり取りでショックを受けているようには見えませんでした。
「肉体を具現できなくなった瞬間、我々の魂は天に還る。全ての汚れを削ぎ落とされ、次の時を待つために」
「『次の時』?」
「次の、パートナーと出会う時だ」
考えたこともありませんでした。離れることなく主に寄り添う天使が、人間と同じ寿命であるはずなどないことや、神の使いと呼ばれる者の本質を。
どきりと胸が鳴り、その音を聞き取ったのか、クェイルが「私は」と呟きます。
「ネオルクが最初だ」
「そうなの?」
気を遣ってくれたことが判り、ほんの少し笑みが零れます。それとは反対に驚きもありました。
ただ、その部分にあまり触れるのもどうかと思い、話題をずらします。
「ね。『汚れ』って具体的にはどういうものなの?」
「記憶だ。主との全ての記憶を消……いや、心の奥深くへ封印する」
「そう、なんだ」
答えながら意識が空虚になるのを覚えます。相づちも忘れそうになりました。
それって、いつかクェイルも僕のことを忘れるってこと?
「だが、ディーリアのパートナーだった天使はそれでは済まない」
「どういう意味?」
「主を護りきれなかった天使には相応の罰が下されるから」
一際大きく胸が打たれました。
「契約者が死んでしまったり、最後まで使命を全うできなかった場合」
これまで真実を告げなかったのは、自分にそれを受け止める力量がなかったため。そう、客観的に見て思い当たりました。
「授かった己の存在の証明、つまり名前を剥奪される」
「名前を失うことが罰なの?」
ネオルクにはその意味が分かりません。きちんと伝わる術を求めるように、クェイルは言葉を選んで説明を続けました。
「生まれて初めて創造主に与えられるもの、それが名前だ。名前がないものは、存在しないことと同じ。誰からも忘れ去られ、自分が何者かも忘れ、虚ろな中たった一人、気が遠くなる時を生き続けなければならない」
「そんな……」
「本来なら一瞬で封じ込められる記憶を少しずつ失っていく。その苦しみを噛み締めながら永遠を見つめて生きる日々を過ごす。許しを得るまで」
大切にしていた人も物も次第に忘れていって、最後には心が文字通り「空っぽ」になってしまうのです。想像を超えてぞっとする話でした。
自分がそんな立場に立たされたら、きっと気が狂ってしまいます。全てが消えていってしまう恐怖を、一人きりで抱え込まなければならないなんて。
「酷いよ。ディーリアのパートナーだって頑張ったはずでしょ? なのに……」
「いくら頑張ろうとも、結果は見ての通りだ」
「冷たいよ、結果が全てなんて!」
先程ディーリアを宥めて置いて言えた立場ではありませんが、クェイルの態度に思わずカッとなってしまいました。
しかし、立ち上がり声を荒げてからはっとします。瞳の色が悲しみに染まっているのを見留めたからです。
「ご、ごめん。クェイルを責めたって仕方ないのに」
「天使は主の体だけじゃない、心も護らなくてはならない。なのに、彼女のパートナーは主を悲しませた。今でも辛い思いをさせている」
「あ……」
クェイルは首を振りました。そう言う意味も込めて、ディーリアに「新しいパートナーを」と言ったのです。彼女の瞳に住み着いた闇を祓うために。
「初めて会った時すぐに気が付かなかったのは、恐らく彼女が無意識に作り出している暗い結界のせいだ。人を寄らせず、心の内を悟らせない力が全身を取り巻いている」
「じゃあ僕が感じた怖さは、その結界だったんだね」
受け入れようとした者だけしか通り抜けることが出来ない力の壁のようなもの。これも契約者の力の一端なのでしょう。
そんな彼女を放って置くことなんて出来ません。なんとかして誤解を解かなくては。安堵する心の中でそう決心しました。




