第二十四話 炎につつまれて
「炎? ……げほっ、ごほっ」
吹き込んできた風に乗って、白い煙が湿った通りに満ちてきました。咳が止まらず、目も霞んで涙が滲んできます。
「息を止めて、目を閉じて」
天使が少年を包むようにして屈み込み、ばさりと翼を羽ばたかせました。
ゆっくりと充満してきていた煙が払われ、ネオルクは正しい呼吸のリズムを取り戻すことが出来ました。
「……あ、ありがとう」
「一時的なものに過ぎない。ネオルク、風の結界を」
「うん。ウィン!」
精霊の名を呼ぶと、応えるように目の前に透けた少年が現れ、姿が風となって二人を包みます。払った煙が再び忍び寄っても、その風の流れが遮ってくれました。
「これって、火事だよね」
「恐らく。しかも、近い」
やがて警告を知らせるカンカンという鐘の音が町中に鳴り響き、逃げる人たちの凄まじい足音と、火消しにあたる町の兵士の呼び声が入り交じり始めます。
鼓動が激しくなってきました。どうしてこんなことになっているのでしょう?
「あっ、ディーリアは? 宿屋は大丈夫かな!?」
「心配ない。兵士の動きが早いから間に合うだろう」
不安げな瞳を受けて、クェイルが視線を空へ投げました。火の勢いをいち早く察知した鳥たちが逃げようと飛び交うのをみとめて、ピュウと高く口笛を一つ吹きます。
赤い一羽が二人の頭上を旋回し、差し出した左手に止まりました。
「……ありがとう」
意志の疎通をしているようです。やがて天使が鳥を空へ返すと、苦い顔で呻きました。
「思ったより火の勢いが強い」
「行こう」
気が付けば口走っていました。反論しかけて、クェイルも口を閉ざしました。
宿屋に引き返すのは容易ではありません。人の流れに逆らい、兵士から発せられる制止の声を無視して突き進みます。
体にピタリと纏った風の結界のおかげで熱も煙も抑えられているとはいえ、少年の体格ではなかなか目的地へ近づけませんでした。
それでもなんとか人々の壁を突き抜け、建物の前に立った時、現状に言葉を失いました。
窓という窓が割れ、先程まで泊まっていた部屋からも炎が迸っています。隣の、何かの店だった建物も、その向こうもみんな同じ状態です。
一目見て、クェイルが断言しました。
「放火だ」
「そんな! みんな、逃げられたかな!?」
緊張で口の中が渇き、声が上擦ります。
「……声がする」
天使の耳が、炎にのまれていく宿の中から聞こえる叫びをとらえました。
とは言っても、炎の勢いとそれによって起こる風、数多の騒音があるこの場所では、どれほどの音量があるものでもありません。
「どうする?」
その瞳に感情は映りません。ようやく分かりかけてきたはずの“気持ち”が、今は普段以上に奥に押し込められているようでした。
「中で誰かが助けを待ってるんだよね? だったら行くしかない」
怯みそうになる自分を奮い立たせます。火は目の前ですぐにも襲ってきそうな気配ですが、もっと辛い状況に追い込まれている人がいるのです。
ならば、選択肢は一つしかありません。目で合図して、二人はオレンジ色の世界に飛び込んでいきました。
入ってみると、そこは火の海でした。
「これほど燃えているということは、ここを出る時にはすでに火の手が上がっていたことになる……」
クェイルは何故気が付かなかったのかという悔しさに唇を噛みました。
床を絨毯のように炎が伝い、カーテンは焼け落ち、机や椅子が悲鳴を上げています。
二人は受付の奥にある厨房へと向かいました。熱を持ったカウンターをすり抜け、こぢんまりとしたキッチンに足を踏み入れます。
「うわっ、火の手が強すぎて奥が見えないよ」
水を使うためにウォーティアを喚び出そうとした彼を、クェイルが制してきます。下手に水を注げば逆効果だと言うのです。
この場をどうにかしようとすればかなりの力を使わなければなりませんが、すでに風を使役している今のネオルクには荷が重すぎると判断したのでしょう。
ではどうすればいいのか。その時、考え込む彼等のすぐ傍で何かが音を立てました。ぎしりという、木が軋むような音です。
「誰か、たすけて……」
一緒に聞こえてきたのは弱々しい声でした。目を凝らすと、調理台の影に何かが見えます。……手です。手が助けを求めるような形で覗いています。
「助けないと!」
「……でも」
「お願い! 水を喚び出すから、あの人を助けてあげて!」
躊躇している暇はありません。しがみつくように懇願した彼は、返事を待つより早く、両手を差し出しました。
クェイルが走り出す体勢を取り、ネオルクに視線を送ります。それを受けて、集中するために瞳を閉じました。
「ウォー……」
『力を貸そう』
「えっ?」
しかし、精霊に呼びかけようとした彼を止めたのは聞いたことのない誰かの囁きでした。耳元で風が揺らめきます。
ざわっ! 体に違和感が走り、感じたことのない力が自身をとりまきました。途端、炎がこちらへ向きを変えて迫ってきます。
「うわぁっ」
『大丈夫、敵ではない』
次の瞬間、真っ赤なそれを引き寄せ、掌に集約させていました。生まれたのは赤々と輝く光の球体。部屋を取り巻いていた全ての火を、この一点に集めたのです。
『さぁ、早く』
嘘みたいに厨房は燃えさかる炎から解放されていました。はっとして顔を上げると、クェイルも茫然としてこちらを見ています。
「そうだ。早くあの人を助けないとっ!」
慌てて天使が駆け寄って抱き上げてみると、それは店主の男性でした。ぐったりして、先程までは辛うじてあったらしい意識も失っています。
「煙をだいぶ吸っているが、命に別状はない」
「本当? 良かった……」
気が抜けて、己の手から離れそうになる不慣れな力を慌てて押しとどめると、ようやく彼は大きく息を吸い込みました。
帰りはその力のお陰で簡単でした。人目を避けて裏手から脱出し、クェイルに店主を兵士へと引き渡して貰うと、その足で先程の狭い路地へと真っ直ぐに歩きます。
付近にはまだ火の気配が残っており、煙った空気が町を覆い尽くそうとしています。
宿の中にどれくらいの時間居たのかは不明ですが、周囲の状況を見る限り数分ではなさそうです。
「町の人たちはもうみんな非難したみたいだね」
「それより」
どきり。クェイルが壁にもたれかかる格好で唇を動かしました。あとを続けなくとも、ここに来るまで口にしなかった話題に対峙しようとしているのは明らかです。
「どうして」
炎は宿を出た時に霧散してしまいました。しかし、あの感覚が消えてしまった訳ではありません。
まだ、傍に居る。
「手を貸す気になった、フィア?」
ブアッ! 呼び声に応えて大気が一点へ集まっていきます。疲れて項垂れていた体を伸ばし、二人はそれを見守りました。
現れたのは炎のような色の髪と瞳を持った女性の姿です。今までに出会ったどの精霊とも違う、強い意志を秘めた目がネオルクを射ました。
真っ直ぐに見てはいられないほどの威圧感から、ふっと視線をそらしそうになるのに、逆に捕らわれてしまったかのように離すことが出来ません。
逃げてはいけないと本能的に感じ取っています。
「契約者を守るのは我らの努め」
「まだ正規の契約者ではないのに?」
火を操った時に聞こえたのと同じ声です。ぴんと張りつめ、芯がきちんと通った静かな声でした。
対するクェイルには抑揚が無く、問いかけ以外の意味を全く含みません。
「彼は、特別だから」
そうフィアが言って笑った時には顔をしかめました。




