第二十話 こころを掴む腕
一部、多少痛々しい描写があります。ご注意下さい。
「だっ、だめだよ。戻らなきゃ」
びっくりして腕を引っ張るも、クェイルは首を横に振って拒みました。子どものネオルクがいくら力を込めても、びくともしません。
「心配は無用といったはず。この先に精霊がいるのだから」
「でも」
光を宿した瞳を見て、ネオルクはしぶしぶ頷きました。戻っても仕方ないのは本当です。この旅は進むことでしか終わりを迎えられないのですから。
すぐに次の部屋へと続く扉が現れました。二人の目の前に浮かび上がり、開かれるのを待ちわびています。
『我が元へ』
「あっ、またあの声だよ」
忘れかけていたことが蘇るように、心が弾みました。するとクェイルが何かを思いついたように「もしかすると」と呟きます。
「ネオルクは、精霊の声を聞いたのかもしれない」
クェイルが遠くを見つめるような眼差しをして扉を見据えました。出会った頃の、どこか距離を感じていた時には見せなかった表情です。
旅がネオルクに色々な影響を与えたのと同じく、クェイルも変えたのかもしれません。それを眺めながら、少年は耳に手をやりました。
本当に、僕にそんな力があるのかな。
今は何も聞こえません。あの、降り注ぐような感覚は自分の思い通りになるものではないのでしょう。
「とにかく、この向こうに精霊さんがいるんでしょ。会いに行こうよ」
「あ、待っ……」
考え込んでいたクェイルは反応に遅れます。制止は間に合わず、ひやりと冷たい扉に触れた瞬間。
『おいで』
聞いたことのない、それなのに、どこか耳に覚えのある様な「女声」です。次の瞬間、ネオルクが五感で捉えられるもの全てが真っ白になりました。
体の自由はおろか、思考さえ遠くへ持ち去られ、白く永遠な世界に横たわります。
永遠に思えた――これは後でネオルクが思ったことだけれど――そこを抜けた、全てが戻ってきたと感じられたのは、自分を掴む何者かの指が食い込んだことによる「痛い」という感覚のためでした。
「だれ……?」
ふわふわしていたところから一転、急に戻った体に妙な重さを覚えます。変化に次ぐ変化の波にのまれ、判然としない状態の中で、やっとのことで尋ねました。
呼ばれた。それは分かります。
腕を掴まれている。それも分かります。
ただその他は一切分かりません。世界は未だ白みがかった中にありました。
だるさが抜けていくうち、わき起こったのは不安です。
真っ白だった瞬間には完全に拭い去られていたものが、いくつもの恐怖に織り込められて急速に蘇ってきました。
体が自分の意識と関係なく、突然びくりと跳ね上がります。今まで経験したことのない予感が押し寄せました。
その正体が「危機感」であり、「死の予感」であることに気付くのに時間はさしてかかりません。
「心って、人によって全然違うの」
またあの声です。今度は肉感があることからして、腕を握りしめているのはこの声の主なのでしょう。
「似た様な気持ちでも、色が違ったり、形が異なったり」
何を言っているのか、ネオルクにはよく理解できませんでした。まるで心が触れることの出来る物みたいな話し方です。
なに……?
ぐっ、と圧迫を覚えます。彼は空気伝いに届いた新たな感覚を定めようと顔を上げました。
霧が晴れるように、世界が白から解き放たれて鮮明になりました。逆に、飛び込んできたのは黒。
直視しているととらわれて二度と光の元には戻ってこられなくなりそうです。
空が見えます。自由をいくらか得た彼はそこが外、屋外だと知りました。漆喰で固められた床が白い光を鈍く反射しています。
四方の端を低い柵に囲まれ、その向こうには見たこともない街の風景があります。……どこかの建物の屋上でしょうか?
何が起こったの?
海底に二人は降り立ち、静かに聳える城を見付けたはずです。
それなのに扉を開いた途端、見ず知らずの女性(?)に捕まっていて、こうして覚えのない街にいるなんて。
ネオルクはこの疑問に答えをくれる者を求めました。たとえ叶わない願いだとしても、誰かに説明して欲しいと望まずにはいられませんでした。
不安が今も胸を離れず、どんどん強く締め付けて来たからです。
「欲しい、欲しい」
黒き者の声が、水を渇望するように、与えられなければ死んでしまいそうな調子で迫ってきます。
何が欲しいの。問いかけようとして、彼は声を飲み込みました。
「――っ!」
自分を抑え付けているのとは反対の腕が、少年の胸を文字通り貫きました。
不思議と痛みはなく、血も滲んではきません。腕が、当たり前みたいに胸から突き出しています。
「どこ? あなたの心は」
調子が変わりました。ねっとりとした、愉悦を含んだ流れを感じます。そうして、声に合わせてネオルクの心を探っているらしい腕が動きます。
ぞわっ! 全身に冷たいものが走り、吐き気が込み上げてきます。体中が異物を拒否して悲鳴を上げているのです。
やめて、やめて!
本当に心が奪われてしまうのだとしても、これではその前におかしくなってしまいそうです。
しかし、いくら嫌だと訴えても声にはならず、心で叫びをあげても指先一本止めさせることは出来ません。
うねうねと生き物のようなものが気持ち悪く胸の中を這い回っていく、激しい不快感に涙が出てきました。
やがて、ふと、そのおぞましい動きが止まります。肩で息をする程に体力と精神を消耗していたネオルクは、ひとまず安心しました。
それと同時に、その意味に気が付いてドキリとします。
「見付けた」
「っ、や……」
どこをどう探られたのか分からないが、今ははっきりと感じられます。冷たく全てを浸す指が「心」に触れているのを。
「やめっ……!」
力を振り絞り腕を掴みます。しかし、それも圧倒的な力の前ではあまりにも弱い抵抗です。影が嘲笑いました。そんなことをしても無駄だと。
グッ、ググッ。ほのかな光を押しつぶす闇が覆い尽くしていきます。
「ああっ!」
このままでは本当に「自分」が失われてしまう――死んでしまう。遠退く意識の中で涙が次々に溢れてきます。
たすけて。
もう駄目なのでしょうか。もう、両親にも友達にも会えず、旅の目的である姉にも辿り着かず、クェイルにも再会出来ないのでしょうか。
「ク、ェイ……」
外の世界へネオルクを連れ出した天使の顔を思い出した瞬間、生きなければという気持ちが体の内から沸き上がってきました。
僕がいなくなったら、クェイルは。
ここまでの経験で、なんとなく分かっています。使命を果たせなかった天使がそのまま元の世界で安穏に暮らしていけるとは思えないことを。
最近、少しずつ見せてくれるようになった表情の変化に、その頬を濡らしてくれるだろうか? と疑問を覚え、更に思うのです。
泣いている顔なんか、見たくない!
「え?」
強い想いと共に光が生まれ、ぎゃあああああっという痛々しい叫びが辺り一帯に響き渡りました。
心を鷲掴みにしていた手が離れ、腕が体を抜けて飛び去っていきます。どすん、と地面に落ちたネオルクは、訳が分からず呆けていました。
けれど、そのうち自分の胸の辺りが服越しにぼんやりと光っているのを認めて、慌てて襟首を引っ張ります。
「何? ……あっ」
彼の視線は“それ”に行き着き、一度は止まっていた涙が再び玉のように零れ出しました。




