※ 執着1
明人視点です。
『ようやく、手にいれた』
工藤明人は、傍らで無防備に眠る少女に視線を向ける。
最も身近にいる女性でありながら、透明なぶ厚い壁で拒絶されつづけていた。手を伸ばせば届く距離なのに、透明な壁が邪魔をして触れることすらできない。
だが、その壁は壊れた。明人が壊した。
夜空をみあげると、月が大小二つ輝いている。
日本では、地球では、ありえない光景だ。異世界だという美弥の言葉は真実だろう。
明人にとっては、どうでもいいことだが。
自分のいる隣に美弥がいる。そのことだけが大事で、全てだった。
眠る美弥に手を伸ばす。
頬にふれると、くすぐったそうに身をよじった。唇にふれると空気が足りないと言わんばかりに薄く口をひらいた。
それ以上の誘惑は強かったけれど、起こすつもりはないので、諦めて手をはなす。
明人の傍らが世界で一番安心できる場所だと信じて疑わない美弥の『思い込み』を崩したくはない。
二人の関係が変わった今、そう無防備に眠られると微妙な気持ちにならないわけではないが、信頼のあらわれと思えば嬉しくもある。
今この場で一人でいるのと二人でいるのではどちらが安全か。そんなものは考えるまでもない。
だけど、ただのサラリーマンでしかない明人にはこの世界で生き抜くだけの知識も力もない。明人自身がそのことを痛感していた。
運よく果物は手にはいったけれど、それだけで人は生きていけない。肉や魚、炭水化物だって必要だ。
でもそれを手にいれるだけの道具がない。会社帰りの人間が、いったいどんな刃物を持っているというのか。明人からすれば謎の荷物を抱えている美弥だって、カッターナイフすら持っていなかった。明人は喫煙者なので枯れ枝さえあれば火はおこせるけれど、それだけでは食料は手に入らない。そもそも、何が食べられるのか、あるいは食べてはいけないのかの知識がないのだ。
出来るのは、絶望させないこと。どこか生への執着の薄い美弥に、前を向かせることぐらいだった。
あの日。
仕事帰りに、駅の改札を出て住む部屋まで帰る。それだけの、ごくありふれた日常の出来事でしかなかった。確かに避けられているので一緒に歩くのは滅多にないけれど『仕事を終えて帰る』のは、平日のほぼ毎日繰り返していることだ。
それが非日常にかわった瞬間のことを、明人は忘れられない。
歩行者信号の青。トラックのヘッドランプ。不思議とはっきり見えた運転手の恐怖に染まった表情。けたたましく鳴らされたクラクション。
それらが示すものが何か、分からないはずがない。
一瞬一瞬が止まって見えるように感じるなか、ああこれが走馬灯かと考える余裕すらあった。
美弥をかばわなければと動きかけて、だがトラックに対して身を呈したところで助けられないと悟る。二人揃って逃げる事は不可能。だから正しい動きは突き飛ばしてトラックの進路から外させることだった。その程度なら可能だ。多少の擦り傷や打ち身は出来ても、致命傷でなければ助かる。
だが、明人は真逆の行動をとった。
美弥の体が透けはじめていたのだ。
明人は察する。
このまま手をはなせば、二度と会うことは出来ない。しっかりと捕まえておかなければ、手の届かないところへ行ってしまう。
それは目の前に迫りくるトラックよりずっと大きな恐怖だった。
両親の顔が、友人の顔が、浮かぶ。
美弥をとれば、彼らとは二度と会えない。
理屈でなく本能で、美弥をとるか、両親たちをとるかの選択をせまられているのが分かった。そして悩む時間が殆どないことも。
悩んだ時間は一瞬だった。
どうせこのままでも、命の危機にさらされているのだ。
だったら、一生かけてでも手に入れたい女を選ぶ。
明人は心の中で両親に向けてありったけの謝罪をしつつ、美弥を抱きしめた。
美弥に何が起きているのか分からない。目を閉じているので意識はないようだ。すでに体は半分以上透けている。でも、手を伸ばせば、触れることが出来た。
間に合った、と安堵すると同時に、どこかに引っ張られる感覚に、意識を失った。
------
明人が初めて美弥に会った日がいつだったか、記憶にはない。
近くに住む同い年の、従兄妹。
母親同士も初めての子供ということで意気投合したのか、物心ついた時には一緒にいて違和感のない相手だった。親たちの話を聞くと、おそらく週に二回は会っていたようだ。
これが二人とも同性だとまた微妙だったろう。でも男の子と女の子は違うから、互いの成長を比べられないから、母親たちは気兼ねなく会って、相談して、手を貸しあった。
『あーちゃんは男の子だから、みーちゃんに優しくしようね』
みーちゃん、あーちゃん、と大人たちから呼ばれていたのは明人にとっては忘れたい過去だ。
それはともかくとして、母親の言葉を真にうけて、そうかそうしなきゃいけないのかと思い込む程度には、子供時代の明人は純粋だった。
ただその優しさは、肝心の美弥には全く伝わらなかった。今思えばさもありなん、だ。男の子と女の子が求めるものは違うのが分かっていなかった。
ありがちな『気になる相手に意地悪をする』ですらなく、純粋に良かれと思って、蛇の脱け殻や捕まえたばかりの昆虫を見せて号泣されたのは苦い過去だ。
だから明人は、美弥の事を考えて、自分が嬉しいことではなく美弥が喜ぶのは何かに興味をもつようになった。けれど外で遊ぶのが楽しい男児と、家の中で絵本を読んだり人形遊びがしたい女児だ。自然と距離は出来ていった。学区が違うので小学校がはなれたのも距離が出来た一因だった。
正月などで親戚が集まる時には会うけれど、それだけだった。
それが崩れたのが小学四年生の時。明人が十歳の時だった。
当時からはじめていたサッカーの地域大会に美弥が姿を見せた。
「どうしたの?」
同じ小学校の女の子たちといるところに声をかける。聞きながらも自分の応援に来てくれたのだろうと思いこんでいる明人だった。
「サッカーの試合を観に来たの。あーちゃんも試合出るんだね。知らなかった」
あれ? なんか違うぞ、とようやく気付く。試合に出ることを知らずに応援にくるだろうか。……そんなはずはない。
「クラスみんなでね、高橋君の応援しようって。でもうちの学校が試合じゃない時はあーちゃんの応援もするね」
周囲の女子たちを意識してか、いつもより早口で告げられた。
「……ああ、うん」
なんだかもやもやする。
試合前の集合時間になったので話を切り上げた明人は背後で「誰?」「親戚なの」という会話を聞きながら、集合場所へ向かう。
そもそも高橋って誰。
美弥に優しくするのも、喜ばせるのも俺なのに。
そう考えて愕然とした。
会う頻度の少ない親戚相手に、さすがにそれはない、と思えるだけの分別はあった。だからといってその感情を捨て去ることは出来なかった。
どこかスッキリしないまま試合をして、その日の二試合目に美弥のいる小学校と対戦をした。結果は明人のいるチームの勝ち。でも件の高橋には得点を決められ、自分でない相手が美弥を喜ばせるのをみる、という光景にひどく釈然としない気持ちを味わうことになった。
勝ったのに憮然とする明人を訝しく思った友人に問われ、名前は伏せて概要を話すと、途端ににやにやした顔で小突かれた。
「それってさ、その子のこと好きなんじゃないの」
小学生の『好き』は、大人になって思い返せばおままごとのような『好き』だ。口付けなんてとんでもない。一緒にいて、会話するだけで充分。でも時々手ぐらいはつなぎたいな。
「そう、なのかなぁ」
首を傾げながらも、すとんと腑に落ちた。明人は自分でもよく分からない感情に名前がついて、ほっとしたのだ。
そうか。自分は美弥が好きなのか。
だから喜ばせたい。うん、自然だ。あっている。
だけど。
美弥を喜ばせるのは、昔から、明人には難しいことだった。今日だって自分が活躍すれば美弥をがっかりさせるのにつながった。
他のことなら簡単なのに。勉強も、運動も、友だちを作るのも。それなのに付き合いの時間だけは長い美弥を喜ばせることだけは、どうにも上手く出来ない明人だった。
思ったよりめんどくさい男でした。一回で終わるかなと思ったけどすみません続きます。




