書籍化記念 番外編
【自由時間】の常連たちでお花見を終えてからひと月。
二葉はじっとユウの手元を見つめていた。もちろん場所は【自由時間】で。
淀みなく動くユウの手は見ていてとても気持ちがいい。
「うん……ええっと、佳苗さん、どないしたん?」
しかし見られている側からすると、そうではないわけで。二葉は「あ、ごめん……! 少し、気になっちゃって」とすぐさま謝罪する。
「いやええよ、ええよ。ほんなにどないしたんかなーって思っただけやから」
そう朗らかに笑うユウは、スーツの上着を椅子の背もたれにかけていた。水曜日の、【ノー残業デー】は、二葉とユウが【自由時間】に寄る定例の日だ。二葉のフロアからユウはもとの営業部に引っ越しをしてしまったけれど、今もその関係は続いている。
真っ白いシャツから伸びるユウの手が、するすると迷いなく動く様を見るのが好きだ。なのでいつもはこっそり覗き見ているのだが、今日に限ってはじっくり見すぎてしまったらしい。二葉は少しだけ頬を赤くして、こそっと理由を説明した。
「その……棒針編みが気になって……」
「棒針編み? ああ、僕が持っとるやつ?」
ユウは自身の手をちょいと持ち上げ首を傾げた。そこには二本の細長い棒が握られている。
ユウいわくドラムスティックみたいな――と、いう説明をしたことがあるが、それよりも随分細い、というか短い。小回りがきくサイズ、といえばいいだろうか。そしてその二本の棒の端からは透明の糸が伸びて輪のようにくっついている。
「それ、その……それも、棒針編み……というか、棒針なの?」
「これは輪針やで。棒針編みの仲間やな。丸っこい棒針編みを編むのに使うのねん」
「丸っこく……?」
二葉はそもそも棒針編みについてはまだ詳しくない。丸い、丸い、と考えて、しばらくはピンとこなかったが、輪針の形を見て、なるほど、とひらめいた。
「円柱状に、丸くなる形のものを作ってるって意味?」
「せやで。ちなみに僕が何を作っとるかわかる? 最初の最初やから、まだまだこれからやけど」
「うーん。なんだろう……ペンケース、とか?」
「それもええね。でも今作っとるのは靴下やねん」
「えっ、靴下!?」
二葉は思わずユウの足元に視線を向けてしまったが、「いや、さすがに会社では履かへんよ。お客さんとこにも行くわけやし」と苦笑されてしまった。
お弁当袋など私用で使うものならともかく、たしかにそうかと納得する。
「ごめん、びっくりしちゃって。靴下って作ることができるんだね……大変そうなのに」
二葉のイメージでは、靴下はお店で買うものだ。春夏秋冬、色んな生地があって履き心地のいいものを選ぶのは少し楽しい。それが、まさか編み物でもできるなんて、と驚くしかない。
しかしユウは神妙な顔をして、「大変やからこそ、や」と、真面目な顔をする。
「……大変だからこそって?」
新たな選択肢を知って目から鱗が落ちていたのに、よくわからなくなって眉をひそめてしまう。どういう意味なんだろう。
「あ、いやどうなんやろ。作り方にもよるけど、棒針編みの中やとそこまでめっちゃ難しいわけやないかも。セーターとかでっかいもんの方が作るのに根性いるしなあ」
「根性……?」
「ちゅうても、靴下に使う糸は細いしちまちましとるし、さらにおんなじサイズで、おんなじもんを二つ作らなあかんわけやん? うん。やりがいはあるわな」
「やりがい……」
「いうて、手袋とかも二つなんはそうやけど、そんな何個もいらへんやん。でもその点、靴下は消耗品といってもええやろ。つまり」
つまり。
「たくさん作っても罪悪感がない」
まさかのオチだった。
二葉はどんな顔をすればいいのかわからないまま、眉を八の字にしたままユウを見つめてしまうが、「いやこれほんまに。重要やで」とユウは真面目な顔で語る。
「編み物好きで、棒針編みもするんやったら、だいたい最後は靴下沼に落ちる……というのが僕の持論や。編み物は作りたいものがあって作るのか、編みたいから作るのか、その辺、次第にようわからへんくなってくるからな……。需要と供給がマッチするのは大歓迎やねん」
「ま、まだ私はそこまでは行き着いてないんだけど、大変だね……?」
「いや楽しいからええんやけどな? 僕は持ち運びしやすいから輪針で作っとるけど、普通の棒針でも作れるねんで。こう……棒を三角形に交差させる感じやねんけど、棒針を二本どころか三本も四本も使うんよ」
「二本じゃなく、三本も四本も!?」
「いやタイミングによっては五本いるんやけど」
もう別世界すぎて想像ができない。二葉が普段しているかぎ針編みとは、改めて別のものなのだと実感した。かぎ針編みではそんなに何本も使う必要はない。
とはいえ、糸を使うところは同じ編み物。と考えると、どうしてもそわそわしてしまい――。
「佳苗さんも、せえへん?」
「――えっ!?」
「いや、前に教えてほしいって言うとったやん。せっかくやし」
「あ、うん、そうだよね。言ってたよね……」
一瞬、わくわくした気持ちでは弾け飛んでしまいそうになったが、二葉はすぐに椅子に座り直して、「うううん」とテーブルに手をのせ思い悩む「うううううん」
「……なんでそんなに唸っとんの?」
「だって、すごくしたいし、興味もあるけど、かぎ針編みを始めたばかりの素人なのに、そんなにほいほい色んなものに手を出していいのかなと思ってしまうというか……!」
「いや別に趣味なんやし。好きにしたらええやん」
「それに、【自由時間】はユウさんもお客さんであって、ユウさんの自由な時間をもらうことが申し訳ないというか……!」
唸って、唸って、考えてしまう。したいけれど、でも……。
そんな自身をユウが優しく見つめていることに、二葉はまだ気づいていない。
***
「ほんま、難儀な人やなぁ」
うーん、うーん、と悩み続ける二葉に、ユウはわずかに苦笑した。
何をするにも、まずは一歩悩んでしまう。そんな彼女のこともそろそろわかってきた。
「あの、覚悟が決まるまで、少し待ってもらってもいい……!?」
「ええよ。いつでも声かけてな」
肩で小さく笑い、靴下を編み進めていく。こんなふうに二葉と話す時間は、ユウは嫌いじゃない。それどころか――と、考えていたとき、
「時間のことが気になるっていうんなら、【自由時間】以外で教えてもらったらいいんじゃなぁい……?」
と、先程まで気配を消し去っていたアッキーが、なぜだか二人に近い距離で話す。
いたのか、とユウは瞬いたが、自分の時間を大切にというコンセプトの場所なので、気配を殺して手芸をし続けることだってもちろん自由だ。
二葉はぱちぱちと瞬いた。
「【自由時間】以外の場所、ですか?」
「そうよお。たとえば…………どちらかのご自宅で、とか?」
「ゲッホ、ゴッホォ!」
「あーらユウくん、どうしたのぉ~? 芸術家さんの名前みたいな咳をしちゃって!」
「いやちょっと、喉に唾がつまっただけやけど……」
持っていた編み物にかからぬように、ユウは肩で口を抑えて咳をする。
そんなユウに、(あたし、素敵なアシストをしたでしょ?)なんて顔をして、アッキーはぱちんとウインクした。
(いやウインクて。こいつ絶対わかっとるやろ……)
最近、自身の気持ちを自覚し始めたユウはじろりとアッキーに視線を向けたが、何を勘違いしているのか、アッキーは、はて?という顔をした後で髪をかきあげて「うふん」と満足げにポーズをつけている。ほんまなんやねんこいつ。
「【自由時間】は平日だけだけど、ご自宅なら土日でも大丈夫でしょ? そしたら時間を気にせずゆっくり教えられるじゃなーい」
「なるほど……私の部屋なら、お礼にご飯を作ることもできます!」
「いいわねいいわね、お礼ね! やっぱり気になっちゃうものね!」
「いやあかんあかん。佳苗さんの部屋はほんまにあかん」
即座に否定したユウの言葉に、二葉は『どうしてだろう?』という顔をしているが、それ以上の説明はもちろん言わない。というか言えない。
「……ふうん。それなら、ユウくんのお部屋ならどう?」
必死に首を横に振るユウの思考を、アッキーは全て理解しているようなにんまり顔をして提案する。
「……僕の部屋で? それは……いや、土日は妹がおることが多いんやけど」
「だからいいんじゃない。茉莉ちゃんがいるなら、ねえ? ここじゃ深くは言わないけど、ほら、ねえ? 三人になるじゃない?」
台詞に含みがありすぎるが、ユウは眉根を寄せるだけで追求はしない。
「……いや、それは佳苗さん側が嫌やろ」
「え? ううん、そんなことはないけど。というか、すれ違ってもいつも頭を下げるだけだから、一度ご挨拶はしたいかも……」
「そうなん?」
二葉とユウはアパートが隣通しだ。さらにユウは年の離れた妹と一緒に暮らしている。
「そんならまあ、茉莉に確認して、茉莉が問題ないんなら……」
と、まあ話はまとまったわけだが、帰宅したユウが自身の妹に確認すると、
「えっ!? お兄ちゃんに女の人の知り合いが!? しかも隣の部屋のよく見るあの人!? 問題ないない、絶対ない、めちゃくちゃ興味あるある、むしろ今すぐここに呼んで!?」
きらきら目を輝かせるので、「おま……隣に聞こえるやん、もうちょい静かにせえよ」とユウは渋い声を出すしかなかった。
「ヤダヤダヤダヤダ今すぐ会う会う会う会う~~~!!!!」
「これが大学生やなんて衝撃やな……。床に転がるんはやめえや、床は……。」
「ヤダヤダヤダヤダヤ~~~ダ~~~~! 今すぐ会う~~~~!」
「また今度佳苗さんに聞いといたるから……。その本気で駄々こねる根性に逆に感心してまうわ……」
ユウはため息をつき、茉莉はごろごろと転がり続けた。
――二葉が棒針編みを覚える日も、近いようだ。




