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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第三章 蝦夷地の神々

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8/10

異民族との邂逅

 日高ひだかの地、沙流川さるがわの河畔に、静寂が満ちていた。

 だが、その静けさは、張り詰めた弓弦のような緊張を孕んでいた。

 森の奥から現れたのは、獣の皮を纏った異形の集団だった。彼らの髪は長く伸び、髭を豊かに蓄え、手には弓矢や槍を携えている。その顔立ちは彫りが深く、瞳には野生動物のような鋭い光が宿っていた。

 アイヌの人々である。

 彼らは音もなく義経一行を取り囲み、警戒心を露わにして弓を引き絞っていた。矢の先端には、トリカブトの毒が塗られているのか、黒く鈍い光を放っている。


「動くな」

 義経が家臣たちに低く鋭い声で命じた。

 弁慶が薙刀を構えようとした手を制し、亀井六郎が前に出ようとするのを視線で止める。

「敵意を見せるな。我らは侵略者ではない」

 義経はゆっくりと両手を広げ、武器を持っていないことを示した。

 そして、一歩前に進み出る。

 アイヌの男たちがざわめき、弓の引きを強めた。一触即発の空気が流れる。

 その時、集団の中から一人の老人が進み出た。

 白髪の長い髭を蓄え、樹皮で織られた独特の文様のアットゥシを纏っている。その手には、儀式用と思われる飾り棒が握られていた。

 老人は義経の前に立ち、深く皺の刻まれた顔で彼を見据えた。その瞳は、長い年月を生きた者だけが持つ、深淵な知恵を湛えていた。


 老人が何かを言った。

 喉の奥を鳴らすような、独特の響きを持つ言葉だった。

 義経には意味が分からなかったが、問いかけられていることは理解できた。

 義経は片膝をつき、目線を老人と同じ高さに合わせて言った。

「我らは、南の国から来た」

 やまとの言葉が通じるとは思っていない。だが、言葉に込められた「響き」と「意志」は伝わると信じていた。

「追われて、海を渡ってきた。争うつもりはない。ただ、通り過ぎるだけだ」

 義経は自らの太刀を外し、鞘ごと両手で差し出した。

 それは武士にとって魂とも言える刀を預ける行為であり、最大の恭順の意を示すものだった。

 弁慶が息を呑む気配がした。

 老人は義経の目を見つめ返した。その視線は、義経の心の奥底まで見透かすように鋭く、そして静かだった。

 やがて、老人はゆっくりと頷き、義経の太刀を受け取ることなく、手で押し戻す仕草をした。

 そして、穏やかな声で言った。

「イヤイライケレ(ありがとう)」

 その言葉の意味は分からなかったが、敵意が消えたことは分かった。

 老人は周囲の男たちに何かを告げると、男たちは弓を下ろし、道を開けた。

 老人は義経を招くように手招きし、森の奥へと歩き出した。


 案内されたのは、川沿いの高台にある集落コタンだった。

 葦や樹皮で葺かれた家々(チセ)が並び、中央の広場では火が焚かれている。

 子供たちが物珍しそうに義経たちを遠巻きに眺め、女たちが作業の手を止めて囁き合っている。

 集落の中央にある大きなチセに通された。

 中は薄暗いが、アペオイの火が暖かく燃えていた。天井からは鮭の燻製が吊るされ、香ばしい匂いが漂っている。

 老人は義経たちを炉の周りに座らせると、木のお椀に入った温かい汁物を差し出した。

「オハウ」

 老人が短く言った。

 それは、鮭や山菜、根菜を煮込んだ汁物だった。

 義経は一口啜った。塩味だけの素朴な味付けだが、冷え切った体に染み渡るような滋味があった。

「……美味い」

 義経が呟くと、老人は満足そうに目を細めた。

 家臣たちも、恐る恐る口をつけ、やがて夢中になって啜り始めた。

 生き返る心地だった。

 数週間の過酷な逃避行で、彼らの体は限界に達していたのだ。


 食事が終わると、義経は再び老人に向き直った。

 言葉は通じない。だが、伝えなければならないことがあった。

 義経は、懐から一振りの短刀を取り出した。

 それは、かつて平泉で藤原秀衡から贈られた、螺鈿らでん細工の美しい短刀だった。

「これを、貴殿に」

 義経は短刀を差し出した。

 老人はそれを受け取り、鞘から抜いて刃を見た。

 炉の火に照らされた刀身は、妖しいまでの輝きを放っている。老人は感嘆の声を漏らし、鞘の細工を指で愛おしそうに撫でた。

 そして、自らの首にかけていた、熊の爪で作られた首飾りを外し、義経の首にかけた。

 それは、この集落における最大の友愛の証であった。

 こうして、言葉の壁を超えた交流が始まった。


 数日が過ぎた。

 義経一行は、集落の一角にある空き家を借りて滞在していた。

 体力の回復に努めながら、彼らはアイヌの人々の生活を観察した。

 藤原時衡にとって、それは驚きの連続だった。

 彼は矢立を片手に、集落中を歩き回っていた。

「見てください、殿」

 時衡が興奮した様子で、書き付けたばかりの紙片を義経に見せた。

「彼らの信仰は、我々の仏教とは全く異なります。すべてのものにカムイが宿ると考えているのです。火の神、水の神、山の神……。自然そのものを敬い、共に生きている」

 時衡の目は輝いていた。

「平泉では、自然は支配し、利用するものと考えられていました。庭園を作り、川の流れを変える。それが文明だと。しかし、彼らは違う。自然の一部として生きているのです」

 義経は頷いた。

「鞍馬の山奥で修行していた頃、天狗――いや、山の民から教わったことがある。山には山の掟があるとな。彼らの生き方は、それに似ている」

 義経の脳裏に、かつて日本海で出会ったジャムカの言葉が蘇る。

 『テングリが見ている』

 草原の民もまた、大いなる自然を畏怖し、その中で生きていた。

 世界は広い。そして、繋がっているのかもしれない。


 ある日、義経は老人に、あるものを求めた。

 地面に地図を描き、北の方角を指差す。

 そして、海を渡る仕草をした。

 老人は険しい顔になり、首を横に振った。

 そして、両手で体を抱き、震える仕草を見せた。

 ――寒い。凍える。

 さらに、指を一本立て、空を指差してから、ゆっくりと地面に下ろした。

 ――雪が降る。

 老人は、炉の灰を平らにならし、そこに一本の線を描いた。そして、その線の上を指でなぞりながら、途中で止めた。

 そこには、バツ印がつけられた。

 ――海が凍る。渡れなくなる。

 義経は理解した。

 冬が来る。

 この北の大地の冬は、海さえも凍らせるほど過酷なのだ。

 大陸へ渡るには、海が凍る前に渡るか、あるいは完全に凍ってから氷の上を渡るか。

 だが、今の装備で厳冬の海を越えるのは自殺行為に等しい。


「急がねばならぬか……」

 義経は呟いた。

 だが、老人はさらに別のことを伝えようとしていた。

 彼は東の方角を指差し、そこから北へ向かうルートを示した。

 そして、何かを祈るような仕草をした。

 ――神の山がある。そこを通れ。

 老人の言葉は分からなかったが、その真摯な眼差しから、それが重要な助言であることは伝わった。


 その夜、義経は一人で炉の火を見つめていた。

 弁慶が静かに入ってきた。

「殿、眠れませぬか」

「……ああ。この地の民は、不思議だ」

 義経は言った。

「我々を警戒しながらも、受け入れてくれた。武力で従わせたわけでもないのに」

「それが、彼らの強さなのかもしれませぬな」

 弁慶が胡座あぐらをかいて座る。

「力で奪うのではなく、分かち合う。平家や源氏が忘れてしまったものが、ここにはあるような気がいたします」

「分かち合う、か……」

 義経は、老人から貰った熊の爪の首飾りを握りしめた。

 覇者とは何か。

 力で世界を統一することか。それとも、異なる者たちを結びつけることか。

 答えはまだ出ない。

 だが、この地での出会いが、義経の中に新たな種を蒔いたことは確かだった。

 それは、後に彼が大陸で築くことになる、多民族を内包した巨大な帝国の礎となる思想の萌芽ほうがであった。


 翌朝、出発の時が来た。

 老人は、義経たちに干し肉や毛皮を持たせてくれた。

 そして、一人の若者を呼んだ。

 精悍な顔つきの若者で、背には立派な弓を背負っている。

 老人は若者の肩を叩き、義経に向かって言った。

 ――この者が、案内する。

 言葉はなくても、その意図は通じた。

 義経は深々と頭を下げた。

「イヤイライケレ」

 覚えたばかりの言葉を口にすると、老人は破顔一笑した。

 その笑顔は、厳しい北の大地に咲く花のように温かかった。


 一行は、若者の先導で再び歩き出した。

 目指すは北。

 冬の足音が、すぐそこまで迫っていた。

 空には、渡り鳥の群れが南へと去っていくのが見えた。

 逆行するように北へ向かう彼らの旅は、自然の摂理に逆らう戦いでもあった。

 だが、義経の足取りは軽かった。

 未知なる大地、未知なる人々。

 世界は、彼が思っていたよりもずっと広く、そして可能性に満ちていた。


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