異民族との邂逅
日高の地、沙流川の河畔に、静寂が満ちていた。
だが、その静けさは、張り詰めた弓弦のような緊張を孕んでいた。
森の奥から現れたのは、獣の皮を纏った異形の集団だった。彼らの髪は長く伸び、髭を豊かに蓄え、手には弓矢や槍を携えている。その顔立ちは彫りが深く、瞳には野生動物のような鋭い光が宿っていた。
アイヌの人々である。
彼らは音もなく義経一行を取り囲み、警戒心を露わにして弓を引き絞っていた。矢の先端には、トリカブトの毒が塗られているのか、黒く鈍い光を放っている。
「動くな」
義経が家臣たちに低く鋭い声で命じた。
弁慶が薙刀を構えようとした手を制し、亀井六郎が前に出ようとするのを視線で止める。
「敵意を見せるな。我らは侵略者ではない」
義経はゆっくりと両手を広げ、武器を持っていないことを示した。
そして、一歩前に進み出る。
アイヌの男たちがざわめき、弓の引きを強めた。一触即発の空気が流れる。
その時、集団の中から一人の老人が進み出た。
白髪の長い髭を蓄え、樹皮で織られた独特の文様の衣を纏っている。その手には、儀式用と思われる飾り棒が握られていた。
老人は義経の前に立ち、深く皺の刻まれた顔で彼を見据えた。その瞳は、長い年月を生きた者だけが持つ、深淵な知恵を湛えていた。
老人が何かを言った。
喉の奥を鳴らすような、独特の響きを持つ言葉だった。
義経には意味が分からなかったが、問いかけられていることは理解できた。
義経は片膝をつき、目線を老人と同じ高さに合わせて言った。
「我らは、南の国から来た」
やまとの言葉が通じるとは思っていない。だが、言葉に込められた「響き」と「意志」は伝わると信じていた。
「追われて、海を渡ってきた。争うつもりはない。ただ、通り過ぎるだけだ」
義経は自らの太刀を外し、鞘ごと両手で差し出した。
それは武士にとって魂とも言える刀を預ける行為であり、最大の恭順の意を示すものだった。
弁慶が息を呑む気配がした。
老人は義経の目を見つめ返した。その視線は、義経の心の奥底まで見透かすように鋭く、そして静かだった。
やがて、老人はゆっくりと頷き、義経の太刀を受け取ることなく、手で押し戻す仕草をした。
そして、穏やかな声で言った。
「イヤイライケレ(ありがとう)」
その言葉の意味は分からなかったが、敵意が消えたことは分かった。
老人は周囲の男たちに何かを告げると、男たちは弓を下ろし、道を開けた。
老人は義経を招くように手招きし、森の奥へと歩き出した。
案内されたのは、川沿いの高台にある集落だった。
葦や樹皮で葺かれた家々(チセ)が並び、中央の広場では火が焚かれている。
子供たちが物珍しそうに義経たちを遠巻きに眺め、女たちが作業の手を止めて囁き合っている。
集落の中央にある大きなチセに通された。
中は薄暗いが、炉の火が暖かく燃えていた。天井からは鮭の燻製が吊るされ、香ばしい匂いが漂っている。
老人は義経たちを炉の周りに座らせると、木のお椀に入った温かい汁物を差し出した。
「オハウ」
老人が短く言った。
それは、鮭や山菜、根菜を煮込んだ汁物だった。
義経は一口啜った。塩味だけの素朴な味付けだが、冷え切った体に染み渡るような滋味があった。
「……美味い」
義経が呟くと、老人は満足そうに目を細めた。
家臣たちも、恐る恐る口をつけ、やがて夢中になって啜り始めた。
生き返る心地だった。
数週間の過酷な逃避行で、彼らの体は限界に達していたのだ。
食事が終わると、義経は再び老人に向き直った。
言葉は通じない。だが、伝えなければならないことがあった。
義経は、懐から一振りの短刀を取り出した。
それは、かつて平泉で藤原秀衡から贈られた、螺鈿細工の美しい短刀だった。
「これを、貴殿に」
義経は短刀を差し出した。
老人はそれを受け取り、鞘から抜いて刃を見た。
炉の火に照らされた刀身は、妖しいまでの輝きを放っている。老人は感嘆の声を漏らし、鞘の細工を指で愛おしそうに撫でた。
そして、自らの首にかけていた、熊の爪で作られた首飾りを外し、義経の首にかけた。
それは、この集落における最大の友愛の証であった。
こうして、言葉の壁を超えた交流が始まった。
数日が過ぎた。
義経一行は、集落の一角にある空き家を借りて滞在していた。
体力の回復に努めながら、彼らはアイヌの人々の生活を観察した。
藤原時衡にとって、それは驚きの連続だった。
彼は矢立を片手に、集落中を歩き回っていた。
「見てください、殿」
時衡が興奮した様子で、書き付けたばかりの紙片を義経に見せた。
「彼らの信仰は、我々の仏教とは全く異なります。すべてのものに神が宿ると考えているのです。火の神、水の神、山の神……。自然そのものを敬い、共に生きている」
時衡の目は輝いていた。
「平泉では、自然は支配し、利用するものと考えられていました。庭園を作り、川の流れを変える。それが文明だと。しかし、彼らは違う。自然の一部として生きているのです」
義経は頷いた。
「鞍馬の山奥で修行していた頃、天狗――いや、山の民から教わったことがある。山には山の掟があるとな。彼らの生き方は、それに似ている」
義経の脳裏に、かつて日本海で出会ったジャムカの言葉が蘇る。
『天が見ている』
草原の民もまた、大いなる自然を畏怖し、その中で生きていた。
世界は広い。そして、繋がっているのかもしれない。
ある日、義経は老人に、あるものを求めた。
地面に地図を描き、北の方角を指差す。
そして、海を渡る仕草をした。
老人は険しい顔になり、首を横に振った。
そして、両手で体を抱き、震える仕草を見せた。
――寒い。凍える。
さらに、指を一本立て、空を指差してから、ゆっくりと地面に下ろした。
――雪が降る。
老人は、炉の灰を平らにならし、そこに一本の線を描いた。そして、その線の上を指でなぞりながら、途中で止めた。
そこには、バツ印がつけられた。
――海が凍る。渡れなくなる。
義経は理解した。
冬が来る。
この北の大地の冬は、海さえも凍らせるほど過酷なのだ。
大陸へ渡るには、海が凍る前に渡るか、あるいは完全に凍ってから氷の上を渡るか。
だが、今の装備で厳冬の海を越えるのは自殺行為に等しい。
「急がねばならぬか……」
義経は呟いた。
だが、老人はさらに別のことを伝えようとしていた。
彼は東の方角を指差し、そこから北へ向かうルートを示した。
そして、何かを祈るような仕草をした。
――神の山がある。そこを通れ。
老人の言葉は分からなかったが、その真摯な眼差しから、それが重要な助言であることは伝わった。
その夜、義経は一人で炉の火を見つめていた。
弁慶が静かに入ってきた。
「殿、眠れませぬか」
「……ああ。この地の民は、不思議だ」
義経は言った。
「我々を警戒しながらも、受け入れてくれた。武力で従わせたわけでもないのに」
「それが、彼らの強さなのかもしれませぬな」
弁慶が胡座をかいて座る。
「力で奪うのではなく、分かち合う。平家や源氏が忘れてしまったものが、ここにはあるような気がいたします」
「分かち合う、か……」
義経は、老人から貰った熊の爪の首飾りを握りしめた。
覇者とは何か。
力で世界を統一することか。それとも、異なる者たちを結びつけることか。
答えはまだ出ない。
だが、この地での出会いが、義経の中に新たな種を蒔いたことは確かだった。
それは、後に彼が大陸で築くことになる、多民族を内包した巨大な帝国の礎となる思想の萌芽であった。
翌朝、出発の時が来た。
老人は、義経たちに干し肉や毛皮を持たせてくれた。
そして、一人の若者を呼んだ。
精悍な顔つきの若者で、背には立派な弓を背負っている。
老人は若者の肩を叩き、義経に向かって言った。
――この者が、案内する。
言葉はなくても、その意図は通じた。
義経は深々と頭を下げた。
「イヤイライケレ」
覚えたばかりの言葉を口にすると、老人は破顔一笑した。
その笑顔は、厳しい北の大地に咲く花のように温かかった。
一行は、若者の先導で再び歩き出した。
目指すは北。
冬の足音が、すぐそこまで迫っていた。
空には、渡り鳥の群れが南へと去っていくのが見えた。
逆行するように北へ向かう彼らの旅は、自然の摂理に逆らう戦いでもあった。
だが、義経の足取りは軽かった。
未知なる大地、未知なる人々。
世界は、彼が思っていたよりもずっと広く、そして可能性に満ちていた。




