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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第三章 蝦夷地の神々

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7/10

嵐の渡海

 文治五年(一一八九年)、夏。

 本州の北端、三厩みんまやの空は、墨を流したように黒く濁っていた。

 海峡を吹き抜ける風は、唸り声を上げて岩肌を打ち据え、波頭は白く逆巻いて牙を剥いている。それは、これから海を渡ろうとする者たちを拒絶する、神々の怒りのようにも見えた。


「殿、この風はいけませぬ」

 常陸坊海尊が、吹きすさぶ風に法衣の袖をバタつかせながら叫んだ。

 熊野の水軍を率いた経験を持つ彼でさえ、この北の海の殺気には顔色を失っていた。

「潮の流れが速すぎます。それに、この空模様。沖に出れば、ひとたまりもなく木の葉のように揉まれ、海の藻屑となりましょう」

 海尊の言葉に、亀井六郎や片岡常春らも不安げな視線を交わす。彼らは陸での戦いならば鬼神のごとく振る舞えるが、足元の定まらぬ海上では無力に等しい。

 だが、義経は岩場に立ち、微動だにせず沖を睨み続けていた。

 その背中には、頼朝が放った追手の影が迫っている。平泉は灰燼に帰し、もはや日本ひのもとに安住の地はない。

「留まれば死、進むも死。ならば、私は前へ進んで死にたい」

 義経の声は低く、しかし風音を切り裂くほど鋭かった。

 彼は振り返り、家臣たちの顔を一人ひとり見渡した。

「皆、ここまでよく付いてきてくれた。だが、ここから先は地獄かもしれぬ。引き返したい者は、今ここで去れ」

 誰も動かなかった。

 恐怖がないわけではない。だが、この若き主君を見捨てるという選択肢は、彼らの中には存在しなかった。

「往生際の悪いことを仰る」

 武蔵坊弁慶が、ニヤリと笑って薙刀を石突で地面に叩きつけた。

「地獄の底までお供すると誓ったはず。それに、殿の行く先が地獄であるはずがございませぬ。必ずや、極楽浄土への道が開けましょう」


 その時だった。

 厚い雲の切れ間から、一筋の光が海面に差し込んだ。

 光の中を、三羽の白鳥が舞い降りた。鳥たちは荒れ狂う波の上を優雅に旋回すると、まるで誘うように北の方角へと飛び去っていった。

「見ろ! 神の導きだ!」

 弁慶が太い指で空を指差して叫んだ。

 義経は深く頷き、合掌した。

「龍神よ、海神よ、我に道を開け給え」

 迷いは消えた。

 一行は、地元の漁師に大金を積んで強引に譲り受けた一艘の小舟に乗り込んだ。

 帆を上げると、船は矢のように走り出し、灰色の荒海へと躍り出た。


 それは航海というより、波との格闘であった。

 沖に出るや否や、風は暴風へと変わり、雨は横殴りのつぶてとなって彼らを襲った。

 小舟は巨大な波の壁に持ち上げられ、次の瞬間には奈落の底へと叩き落とされる。船体が悲鳴を上げ、海水が容赦なく流れ込んでくる。

「汲み出せ! 手を休めるな!」

 駿河次郎が叫び、桶で海水を掻き出す。

 藤原時衡は船底にしがみつき、青ざめた顔で必死に嘔吐えずきを堪えていた。藤原秀安がその背を支え、自らも足を踏ん張って耐えている。

「南無八幡大菩薩、南無八幡大菩薩……」

 海尊は船首近くに座り込み、数珠を擦り合わせながら必死に経を唱え続けた。その声は風にかき消されそうになりながらも、不思議と皆の耳に届き、狼狽え(うろたえ)かけた心を繋ぎ止めた。


 舵を握る弁慶の腕には、血管が太く浮き上がっていた。

「ぬおおおおっ!」

 大波が来るたびに、弁慶は仁王のような形相で舵を切り、船首を波に向けた。横腹に波を受ければ転覆は免れない。彼の怪力と、海尊の的確な指示だけが頼りだった。

 義経は舳先へさきに立ち、濡れ鼠になりながらも、決して目を閉じなかった。

 彼は波の動きを読み、風の息遣いを感じ取ろうとしていた。

 ――死ぬか。ここで。

 ふと、死の誘惑が頭をよぎる。この冷たい海に沈めば、兄への憎しみも、追われる苦しみも、すべて消える。

 だが、その時、懐の短剣が熱を持ったように感じられた。

 ジャムカとの約束。

 『生きろ』

 あの少年の声が、嵐の轟音の中に聞こえた気がした。

「まだだ……まだ終わらせぬ!」

 義経は叫び、刀を抜いて天に突き上げた。

 その気迫に呼応するかのように、雷光が走り、一瞬だけ海面を照らし出した。

 その先に見えたのは、黒々とした陸の影だった。


「陸だ! 陸が見えるぞ!」

 亀井六郎の歓喜の叫びと共に、船は最後の力を振り絞って波に乗った。

 激しい衝撃。

 船底が岩に擦れる嫌な音が響き、船は大きく傾いて砂浜に乗り上げた。

 一行は転がるようにして船から飛び出し、濡れた砂の上に倒れ込んだ。

 動く力も残っていなかった。ただ、波の音を聞きながら、固い大地の感触を確かめ、生きて土を踏めた喜びに咽び泣いた。


 彼らが漂着したのは、蝦夷地の最南端、白神岬しらかみみさきの東、現在の松前町に近い岩場であった。

 夜が明けると、雨は小降りになっていたが、空は依然として低く垂れ込めていた。

 義経はふらつく足で立ち上がり、周囲を見回した。

 見渡す限りの原野。背後には鬱蒼とした森が広がり、人の気配はない。

「ここが、蝦夷地か……」

 時衡が、濡れた直垂を震わせながら呟いた。

 京の都とも、平泉とも違う。空気そのものが荒々しく、どこか太古の匂いがした。


「殿、船はもう使い物になりませぬ」

 片岡常春が、無残に割れた船底を見て報告した。

 退路は断たれた。

「構わぬ。我らは北へ向かうのだ」

 義経は言った。

「だが、この辺りには『渡党わたりとう』と呼ばれる和人が住み着いていると聞く。彼らが鎌倉に通じている可能性もある。不用意に姿を見せるわけにはいかぬ」

 海尊が頷いた。

「左様ですな。まずは人目を避け、東へ進みましょう。そこから海岸線沿いに北上するのが良策かと」


 そこから、過酷な逃避行が始まった。

 道なき道を行く。

 左手には見渡す限りの原生林、右手には鉛色の海。

 岩場を越え、笹薮を漕ぎ、泥にまみれて進んだ。

 持参した食料は、海水に浸かって大半が駄目になっていた。

 浜辺で昆布や貝を拾い、森で木の実を探して飢えを凌ぐ日々。

 駿河次郎が持ち前の機転で魚を突き、片岡常春が弓で海鳥を射落とす。かつての栄華を極めた源氏の御曹司とその家臣たちは、今や野人のような姿で生にしがみついていた。


 数週間が過ぎた。

 一行は、宇須岸(うすけし・現在の函館)の曲がりくねった海岸線を抜け、さらに東へと進んでいた。

 季節は夏から秋へと移ろい始めていた。

 北国の秋は足早にやってくる。

 朝晩の冷え込みは厳しく、濡れた衣服が体温を奪っていく。

「時衡、大丈夫か」

 秀安が、遅れがちになる時衡に肩を貸す。

 時衡の顔色は悪く、唇は紫色に震えていた。だが、その目は死んでいなかった。

 彼は懐から矢立を取り出し、歩きながらも何かを記録しようとしていた。

「……見たことのない植物だ。それに、この地形……」

 極限状態にあっても、彼の知識人としての魂は、未知の世界への好奇心で燃えていた。

「記録せねば。我らがここに生きた証を。そして、この新しい土地のことを」

 その姿を見て、義経は微かに笑んだ。

 この若者もまた、変わろうとしている。平泉の枠を超え、強くなろうとしている。


 さらに東へ。

 日高の山並みが、雪を頂いて白く輝き始めた頃。

 一行は、大きな川の河口に辿り着いた。

 沙流川さるがわ

 その水は清冽で、川面には遡上する鮭の群れが銀色の背を光らせていた。

 河畔には葦が生い茂り、紅葉に染まった山々が燃えるように美しい。

「なんと……」

 義経は足を止め、その光景に見入った。

 殺伐とした逃避行の中で、初めて目にする生命の輝きだった。

 ここには、京の都のような華やかさはない。だが、圧倒的な自然の生命力が満ち溢れていた。

「良い場所だ」

 義経は呟いた。

「ここなら、しばらく身を隠せるかもしれん。冬を越す準備もできるだろう」

 弁慶が、川の水を掬って豪快に飲み干した。

「うまい! 甘露でございますぞ、殿!」

 その笑顔に、皆の緊張がふっと緩んだ。


 だが、義経の鋭い勘は、森の静寂の中に異質な気配を感じ取っていた。

 風の音ではない。獣の足音でもない。

 何者かが、彼らをじっと観察している。

 敵意か、それとも好奇心か。

 義経は、腰の刀に手をかけず、自然な動作で周囲を警戒した。

「油断するな」

 低く囁く声に、家臣たちの表情が引き締まる。

 森の奥、木々の隙間から、何かが動くのが見えた。

 それは、この大地の主たちとの、運命の出会いの予兆だった。


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