第63話 『First Love (1)』
真夏に向けて、日に日に強くなっていく日差し。
でも、空が厚い雲に覆われた今日は、それも一段落だ。
いつもと同じように、放課後のグラウンドには活気がある。
野球部、サッカー部、陸上部……。
ここだけでなく、おそらく体育館でも同様の活気に包まれているに違いない。
そんな中、“りん”は生徒用玄関を出てきた。
未だ帰宅部の“りん”ではあるが、決して何もしていないわけではない。
ひょんなコトから知り合った女の子“夏美”とともに行うピッチング練習。
そして、基礎体力強化のための走り込みと筋トレ。
わずかずつではあるが、その効果が出始めている感触もあり、本来なら苦しいはずの走り込みも筋トレも、今はむしろ楽しかった。
そういう、練習を楽しいと思える感覚が、優秀なアスリートの必須要件であるとも言える。
今日も帰ってからトレーニングだ……そう思いながら、校門に向かって歩く途中、何気なく見たグラウンド添いのフェンス。
見覚えのある生徒の姿が目に付いた。
(……高木さん!?)
風にショートカットを揺られながら、フェンスに寄りかかってグラウンドを眺めている高木さんに間違いなかった。
その後ろ姿を見て、昨日の北村さんの台詞が頭をよぎる。
『もう……走れないの』
無意識に視線が足に移る……ちょっと細めながら、特に何事もない健康そうな足だ。
後方からジッと見つめる“りん”の気配に気付いたのか、高木さんは唐突に振り返った。
「……!」
驚いた顔というより、強張った高木さんの顔。
ヤバい……と思った“りん”がとっさにした表情は……笑顔だった。
それも、恐ろしく引きつったぎこちない笑顔。
「……」
「……」
言葉もなく、お互いを見つめあう二人。
ポカン……とした顔の高木さん。
そして、どうしようもなく引きつった笑顔のままの“りん”。
妙な空白の時間が、間の抜けた雰囲気を助長する。
高木さんの身長は、東子とほぼ同じ……154センチ。
体型は、肉付きの良い東子よりもスレンダーな痩せ型だ。
ようやく……このヘンな雰囲気に終止符を打つべく、高木さんが口を開く。
「にらめっこ……のつもりなの……?」
非常に客観的な状況判断である。
無論、こんなヘンな顔をしているのは、笑わせるためではない。
「いや~、そういうつもりじゃなかったんだけど……ね」
やっと、表情を元に戻すことの出来た“りん”が、照れ隠しにポニーテールを触る。
じゃあ、どういうつもりだったんだろう?
一瞬だけ、そう言いたげな表情を浮かべた高木さんだったが、突然、クスクスと笑い出した。
「まぁいいけど。“あの”萱坂さんのヘンな顔が見れたし……」
(“あの”……?)
今度は、“りん”がキョトンとする番だった。
そのキョトンとした“りん”の顔に、高木さんはもう一度クスクスと笑う。
「彩からね……最近よく萱坂さんの話を聞くから……」
(“彩”って……北村さんのコトか……)
一体どんな話をしているのか……というのも気になったが、それを打ち消すかのように高木さんが言葉を続けた。
「何か……あたしに用?」
言われてみると、別に高木さんに用があったわけでもない。
返事に窮した“りん”は、何気なしに高木さんの足を見る。
なんという不用意。
「しまった!」と思った“りん”だったが……もう遅かった。
「……彩から聞いたんでしょ。あたしの足の事……」
“りん”は、悪いことをしてしまったかのように俯く。
しかし、高木さんは、そのことを気にするでもなく、独り言のように呟いた。
「……全く。今は、あたしより彩の方が大変な時だろうに……」
(大変な時……?)
怪訝な表情の“りん”に、高木さんは慌てて打ち消す。
「ああ……ゴメンね。こっちの話だから。……それより……見る?」
「な、何をっ?」
事もなげに言った高木さんは、右足を前に出し、ソックスを限界まで引き下げる。
くるぶしの上……くっきりと手術の痕が残っていた。
「腱の複雑断裂でね。再生術や移植術……いろいろ試してもらったけど、結局直らなかったんだ」
それだけ言うと、またソックスを元通りにする。
「だから、あまり右足首に力が入らなくて。普通に歩くくらいなら、意識して力を入れれば何とかなるんだけど」
高木さんは、そう言いながら、またフェンスを背もたれのようにして寄りかかり、“りん”を見据える。
その瞳には、自嘲的なものが混じっているようにも感じられた。
「あたしね……陸上部では結構速かったんだよ♪」
まるで自慢するような言い方。
しかし、それが逆に痛々しくもあった。
「トラックの上を全力で駆け抜けて……風を切る爽快感を味わって……」
「……」
高木さんの目が、ふと遠くを見るようなものに変わった。
切なげな光のこもった瞳を細めながら。
その瞳は、まだケガをする前の自分を懐かしんでいるようにも見える。
そして、高木さんは、その思いを振り払うかのように空を見上げた。
「でも……もう走れないだよね。もう、あたしの青春は終わっちゃった~……みたいな」
そこだけ少しおどけたような口調で言い放つと、フェンスに寄りかかりながら「あははは……」と笑う高木さん。
だが、その笑い方は……乾いていた。
きっと、いつもこうして自分の気持ちを隠している娘なんだろう。
その乾いた笑い方はそういうことなのだ……と和宏は思った。
「ひょっとして……同情してる?」
「……えっ?」
高木さんは、“りん”の心の中を見透かしたような目で、薄く微笑みながら“りん”を見つめた。
もちろん“りん”に同情のつもりなどないのだが、心の隅でそういった気持ちが存在していることを否定することもまた出来ない。
もう高木さんの表情から、笑みは消え失せていた。
「……まぁいいけど。別に今に始まったことでもないし」
かすかな“りん”の動揺を読み取った高木さんは、視線を“りん”から外しながら、ため息をついた。
あんなに走ることがスキだったのに、走ることができなくなっちゃってかわいそう……。
きっと、そんな言葉を飽きるほど聞いてきたに違いない。
高木さんの口調には、それがアリアリと出ていた。
「言っておくけどね……あたし、同情なんかしてほしくないんだ」
「……」
「だって、もともと走ることなんか……スキじゃなかったんだから!」
「……っ!」
もう走らずに済んでせいせいした……とまで高木さんは言い切った。
まるで吐き捨てるような口調。
強い意志を感じる、小さめのつぶらな瞳。
さっきまでの、笑顔交じりで、つかみどころのなかった彼女とは別人のようだ。
「走ることも……体育の時間も、球技大会も……大キライだよ。……こんな気持ち、萱坂さんにはわからないだろうけど」
あたし、帰るね……と言って、高木さんは校門に向かってスタスタと歩いていった。
一度も振り返ることなく。
そんな素振りすら見せることなく。
“りん”は、その姿を見つめることしか出来なかった。
一人取り残された“りん”。
確かに、不用意に話しかけてしまったし、無遠慮に核心に触れてしまったと思う。
走るのは、もうスキじゃないと言った彼女。
しかし……それはきっとウソだ。
もう走ることの出来ない身体なのに、走るのがスキという気持ちは変わらない。
だから辛いのだろう。
でも、スキと思う自分の気持ちにウソをつく方がもっと辛いはずなのだ。
“りん”は、さっき高木さんがしていたように、フェンスに寄りかかってグラウンドを眺めた。
いつもと同じように、グラウンドに響く運動部の掛け声。
それは妙に空々しく……“りん”の耳に届いた。
―――TO BE CONTINUED




