第155話 『初回の攻防 (2)』
見上げれば、マウンドに独り立つ“りん”の頬を冷たい水滴が叩く。
だが、舞い上がる気持ちが、その冷たさを感じさせなかった。
相手は甲子園常連の滝川南高校……通称“滝南”。
その黒字で『TAKINAN』と刺繍された灰色のユニフォームは、毎年のように甲子園のテレビ中継で見ることが出来る。
憧れの舞台をテレビ観戦することの多い和宏にとっては、見慣れたユニフォームだ。
今までは、テレビの向こう側でしか縁のなかった、雲の上の存在。
その一軍を相手に今、自分が投げるのだ……そう思うだけで、和宏は、心の中に高揚した何かが湧き上がってくるのを感じた。
マスクをかけた大村がミットを構えて、マウンド上の“りん”に練習投球を促す。
頷いた“りん”は、静かに左足を上げ、いつものアンダースローからリリースの感触を確かめるように投げ込んだ。
雨中であるが、指先の感触に違和感はない。
(いつもと同じようにいけそうだな……)
“りん”は、投げ終わると同時に頬を緩ませた。
また試合で投げることの出来る喜びがここにはある。
ひどく単純で原始的なそれを噛み締めるように、“りん”は一球一球の練習球を丁寧に投げ込んでいった。
◇
「しっかし……ホントかわいいよなぁ」
滝南の背番号“7”……悪ガキがそのまま高校生になったかのような風貌の上地が、あまり品が良いとはいえない表情で呟いた。
もちろん、その視線の先にいるのは、マウンド上の“りん”だった。
体格の良い選手の揃う滝南では絶対にありえない、細くて華奢な身体つき。
投げるたびに、軽やかに宙を舞うポニーテール。
そんな“りん”の姿を見て、かわいい……と感じたのは、決して上地だけではなかった。
一塁側ベンチの後列に、上地を取り巻くように座っている一年生メンバーたち。
彼らもまた、上地にへつらうように頷いていた。
「あの眼鏡かけた三つ編みのマネージャーも可愛いしな。ウチの弱点だよ、マネージャーが男っていうところがさ」
上地のいう“眼鏡かけた三つ編みのマネージャー”とは、いうまでもなく栞のことだ。
その言い方のおどけっぷりに、周りは爆笑の渦に包まれた。
だが、名指しされた形の男マネージャーは、ベンチの一番奥隅で、スコアブックに目を落としたまま、面白くなさそうに唇を歪めていた。
「つまらん話はそれくらいにしておけ」
低く、ドスの効いた声で、ベンチの中が一瞬でピタリと静まった。
監督の秋山の一喝である。
高級そうなサングラスといい、帽子の下のスキンヘッドといい、普段生徒たちから
『あの人、ヤクザ上がりじゃないの?』
と陰口を叩かれるほど、迫力のある男だった。
実際、『背中には、昔ドスで刺された傷跡があるらしい』とか、『滝南の監督に収まる前は、とある刑務所に収監されていたらしい』というような噂話が、まことしやかに囁かれているほどだ。
その秋山は、自分の一声で黙った部員たちに満足すると、キャプテンの遠藤に顎をしゃくって激を促した。
監督に指名を受けた形の遠藤は、ベンチに向って仁王立ちし、悠然と口を開いた。
「例え取るに足らない相手でも、俺たちは全力を尽くす。それが女ピッチャーであってもだ」
ベンチを背にするメンバーたちと向かい合った形の遠藤は、そこで言葉を切って全員の顔を見渡した。
何人かが、マウンド上で投球練習を続ける“りん”の姿を目で追っていた。
「松岡の情報では、彼女の球は遅いが、正確なコントロールと多彩な変化球を使い分けて来るそうだ。特にスライダーの軌道は特筆ものらしい」
誰ともなく『ほぉ……』という声が上がる。
「だが、負けるような相手じゃない」
遠藤は、ニヤリと不敵に笑った。
「俺たちは“滝南”だ!」
『おう!』
「正々堂々とひねりつぶせ!」
『おう!』
遠藤の飛ばした激により、メンバーたちの目の色が、ほのかに本気色になった。
一番バッターである上地が、先ほどまでの弛んだ態度すら一変させて打席に向かう。
明らかに、遠藤の激による効果だった。
(やっぱり違うね、遠藤の激は)
松岡は、ただでさえ細い目を、さらに目を細めながら感心していた。
皆の気持ちを引き込むことに関しては、遠藤の右に出るものはいない。
試合に挑む心構えを自分の心中にキッチリとイメージし、それを言葉に乗せて具体的に伝えることが出来る。
それが、新チーム移行に当たって、冷静沈着な松岡ではなく、遠藤にキャプテンの重責が託された大きな一因であった。
(ひねりつぶせ……か。いつもよりちょっと過激な表現だったけどね)
そう思いながら、松岡は苦笑した。
遠藤の持つ、山崎への異常な敵愾心。
この時の松岡は、まだそれを知らなかった。
◇
ちょうど八球目の投球練習が終わり、ボールは大村から内野手たちを経て“りん”に戻った。
頃合を見計らったように、大村がマウンドに近づいていく。
「萱坂さん。最初に言っておきたいことがあるんだ」
「……?」
いつになく神妙な顔つきの大村に、“りん”は戸惑いを感じた。
「今日の試合、萱坂さんも相当な準備をしてきたんだね」
「……え?」
予想外の台詞に、“りん”は目を丸くした。
そんな“りん”の表情を見て、大村はクスクスと笑った。
「この前(第100話~参照)とは球の威力が違うよ。かなり走り込んだんじゃない?」
わずか八球の練習投球で、大村は気付いていた。
常識外れ……と沙紀たちが呆れたほどの走り込みがもたらした効果に。
人知れず走り込みを続けてきたことを見抜かれた和宏は、バツが悪そうに笑いながら、帽子のツバを深く下げて照れ隠しをした。
「ボクもね、準備をしてきたんだ。今日……勝つための」
「……っ」
「でも、まだ足りない」
「……足りない?」
そう聞き返した“りん”に、大村は重く頷いた。
「マネージャーに映像を集めてもらったし、自分もツテを辿って選手の情報を仕入れたんだけど、やっぱりそれだけじゃね……」
中学時代の友だちなどを当たって、滝南と対戦したことのある高校の野球部から情報を貰ったり……気の遠くなるほどの莫大な作業。
だが、それでも……大村の必要とする情報量には全く及ばなかった。
大村のリードは、打者のクセや傾向、その他諸々のファクターを理解するほど精度が上がっていく。
逆に、そういった選手個々の情報が足りなければ、精彩を欠くリードになってしまう。
大村のいう『まだ足りない』とは、そういう意味だった。
「もうすぐ試合が始まる……待ったなしなんだ。だから……」
「だから……?」
「滝南の打順が一巡するまでの間、ボクに情報収集に専念させてほしいんだ」
「じ、情報収集……!?」
怪訝なものを表情に浮かべた“りん”を安心させるように、大村は笑みをもらした。
四角張った顔に白い歯を浮かばせた笑顔は、大村らしく、どこか不器用そうだった。
「そう。いろいろなコースを突いてみて、それに打者がどういう反応をするか。その結果で弱点や心理傾向を探っていくんだよ」
「……マ、マジで?」
「もちろん」
大村は、涼しげな顔で言い切った。
少なくとも、大村は大言壮語をするような男ではない。
これは間違いなく本気の発言なのだ……ということは、和宏にもよくわかっていた。
「ただ、その間、萱坂さんにはかなり負担を掛けてしまうけど……」
そう言って、大村は申し訳なさそうな表情になった。
大村の言っている意味は、和宏にもよく理解が出来た。
打者が一巡するまでは、大村のリードも手探り状態になる。
それで、滝南の一軍を相手にどれほど耐えられるのか。
しかも、打者一人当たりの球数は、当然増えるだろう。
だが、これまでずっと大村を信じて投げてきた和宏にとって、答えは一つしかなかった。
「わかった。大村クンを信じるよ」
“りん”は、熱い気持ちを形にするように、グラブをパチンと一回叩いた。
一巡目で相手の個々のクセや弱点などを把握し、二巡目以降はそれらの情報を元に滝南打線を抑える……という、恐ろしく大胆なプラン。
言い出したのが大村でなければ、とても信じる気にならなかったに違いない……と、和宏は思った。
大村は、満足げに頷きながら言った。
「ありがとう、萱坂さん。それじゃあ、頑張って勝とう」
相手は名門の滝南であるにもかかわらず、大村は当たり前のように言い切った。
決して気休めなどではなく。
勝とう――と。
大村が、ドスドスと足音を響かせながら、マウンドを遠ざかっていく。
その大きな背中を、和宏は頼もしげに見つめた。
勝つしかない自分と、その決意を共有してくれる存在。
単純なことだが、ただそれだけで和宏は嬉しかった。
大村がミットを構えて座ると同時に、滝南の一番バッター・上地が左バッターボックスに入る。
その何気ない構えからは、『絶対に打ってやる』というような気概ではなく、『お前の球などいつでも打てる』と本気で思っている自然体のオーラが漂っていた。
まるで、足元からジワジワと纏わりつくような重圧感。
主審が右手を上げ、プレイが再開された。
一回裏、滝南の攻撃である。
――TO BE CONTINUED




