第152話 『出揃った役者たち (3)』
極めて小粒の雨がぱらつく中、人通りの途絶えた滝南の校門を、一台の黒塗りの乗用車が通り抜けた。
高級セダンらしく、一際静かなエンジン音を唸らせながら、飛ばしすぎず遅すぎず、慣れた様子で敷地内を進んでいく。
到着した先は、滝南の名物施設と言われる野球部所有の球場の前だった。
二階来賓用観覧室に繋がる豪華な作りの入口前に、ピタリと横付けされた黒いセダン。
到着すると同時に、一人分の人影が、待ち変えていたように近づいていった。
小松原直子……夏美の母親であり、今日の試合の仕掛け人でもある。
まるで入学式の時の母親を思わせるような純白のブラウスに、地味でも派手でもないが高貴さを感じさせる紺色のスーツ、そして茶系のストッキングで固められた服装は、今日が“特別な日”であることを思わせるいでたちであった。
後部座席のドアが、音もなく開く。
続いて、コツリという甲高い音を響かせ、複雑な金色の唐草模様が刻まれた黒檀の杖が現れた。
その杖を持つ手は、しわがれた老人のもの。
だが、若者のように赤みの差す掌には、同年齢の老人とは比較にならないほどの生命力が感じられた。
「ようこそお越しくださいました。堂丸会長」
そう言って、そばまで近づいた直子は、両手を腹の前で合わせ、恭しくお辞儀をした。
最も丁寧なお辞儀と言われる四十五度の角度。いわゆる最敬礼である。
車から降り立ったのは、身長160センチ程度の小柄な老年の男性……日本高校野球連盟会長、堂丸晋一郎その人だった。
禿げ上がった頭頂部を隠すこともなく、側頭部にだけ残された頭髪は見事な白一色。
漆黒のスーツと少しゆるめに締められたワインレッドのネクタイを見事に着こなす様は、単なる老人ではないことを端的に示している。
その年齢どおりのシワが刻まれた表情も、豊富な人生経験に裏打ちされた自信に満ち溢れていた。
「今日は生憎の雨のようだの」
堂丸は、いかにも老人らしいガラガラしたしゃがれ声でそう言うと、目を細めながら空を見上げた。
ポツリポツリとした雨粒が、深いシワの刻まれた頬を叩く。
「はい。天気予報では小雨が一日中続く……とのことです。ただし、試合を中止にさせるような雨ではないと思われます」
「くっく。相変らず小気味いいな、あんたは」
相手の言わんとすることを先回りするかのように答えた直子を見て、堂丸は楽しそうに喉を鳴らした。
才気のある人間と交わす会話が、堂丸にとっての愉悦である。
それを知っている直子は、ある種の緊張感とともに堂丸に接していた。
どこか緊迫感が漂う空間。そこに“もう一人の男”が車から降りてきた瞬間、場の雰囲気は一気に険悪なものに変わった。
「夏美はどこにいるんだ?」
齢七十を超えている堂丸と違い、まだ三十歳代後半のエネルギッシュな若さを携えた目つきの鋭い男。
無遠慮に直子を見据えるその瞳は、薄い唇と相まって、どこか情に薄そうな印象を相手に与えている。
また、ダークブラウンの細身のスーツは、スリムな体型をより強調し、細面な風貌はシャープなエッジングナイフを連想させた。
「夏美は……観覧室で待っています」
ムッとした気持ちを抑え、努めて冷静に対応する直子。
だが、その細面の男の振る舞いは、そんな直子の心情を逆なでするが如き傍若無人なものだった。
「なら、急いで案内してくれ。会長も早く会いたがっているんだ」
場の雰囲気もわきまえずに本題に入る無神経さとその物言い。
直子の胸の奥に沈殿していた何かを攪拌するような不愉快さ。
忘れていたはずの“この男を嫌いになった理由”が、腹立たしさとともに胸の内に蘇ってくる。
それでも直子は、今の自らの弱い立場を慮って、込み上げた不快感を辛うじて飲み込んだ。
「わかりました。どうぞこちらへ」
直子は、堂丸と男を引き連れて、球場の二階に設置された来賓客用の観覧室に向かった。
この観覧室はバックネット裏に設置され、グラウンドから約十五メートルの高さにある。
もともと学校にとっての特別来賓用に作られただけあり、ソファにもたれたままグラウンド全体を俯瞰することが出来る特等席。
高野連の会長である堂丸を招待するならば、ここしかありえない……という場所だった。
入口の、細やかな彫刻の掘られた高級感溢れる両開きのドアを開け、直子たちは中に入っていく。
そこには、夏美が待っているはずだった。
「……夏美?」
室内……この二階来賓用観覧室の中は、毛足の長い絨毯が隅々まで敷き詰められ、全面ガラス張りの窓からは、内野の土の茶色と外野の芝の緑とのコントラストが鮮やかに視界に飛び込んで来る。
二十畳ほど広さの室内に、大人がゆったりと座れそうな大き目のソファが四つ。
その内の一つに座らせていたはずの夏美の姿がないことに、直子は真っ先に気付いた。
室内の壁際に設置されているクローゼットの中や、ドリンク等を振舞うためのミニカウンターの下を見て廻る。
もちろん、そのどこにも夏美の姿は見当たらなかった。
「くっく……相変らずのお転婆娘のようだの」
無断で部屋を抜け出したに違いない……目の前の状況から、堂丸はそう確信していた。
そして、それは直子だけでなく、堂丸に付いている細面の男も同様だった。
「俺が連れ戻してきます」
細面の男が、言うが早く踵を返して観覧室を出て行く。
その素早さに、直子の反応は一瞬遅れた。
「待って! 私が探しに……」
「あんたはここに居りなさい。心配いらんよ」
「でも……」
直子は、納得のいかない表情で食い下がった。
“あの男”と夏美を二人きりにしたくなかったからだ。
だが、堂丸にハッキリと呼び止められた以上、ここに留まるしかない。
堂丸は、老人とは思えぬほど歯並びの良い白い歯を見せ付けるようにニヤリとしながら直子に言った。
「あれでも夏美の父親だからのぅ。重彦は」
「…………」
直子は、黙って下を向くしかなかった。
それは、“重彦が夏美の父親であること”を示す証左でもあった。
「さて、夏美が戻って来る前に確認をしておこうか」
「……はい」
「この試合、滝南が勝ったら“夏美の親権を無条件で重彦に渡す”……相違ないな?」
親権を重彦に渡すということは、夏美が父・重彦の元に引き取られることを意味する。
つまり、直子は夏美と引き離される……ということに他ならない。
だが、それが“りん”の甲子園への道の約束を取り付けるために、直子が堂丸に提示した条件。
そして、それなくして、この試合の開催が成立することはなかっただろう。
「……ありません」
揺るぎない瞳で、直子は力強く言い放った。
しかし、堂丸は畳み掛けるように、もう一つ質問を連ねた。
「そのことを……夏美自身は了解しているのだな?」
(――っ)
想定外の問いに、直子は、一瞬声を詰まらせ目を伏せる。
『娘を人身御供に差し出す最低の母親』……まるで、そう言われているような心地が直子の肌を刺した。
それでも、下唇を噛みながら、一度は逃げた視線を、もう一度堂丸に視線をぶつける。
直子は、振り絞るような声で気丈に答えた。
「はい。夏美は……全て知っています」
◇
ハッキリしない空模様が続いていた。
パラパラと雨が降ってきたかと思えば、すぐに止んだり、雲間からわずかに陽が差したり。
だが、この分なら、何とか試合終了まで何とかなりそうだ……そう思わせるような天気だった。
バックスクリーンのスコアボードには、すでに両チーム名が電光表示されている。
上段には鳳鳴、下段には滝南。
これは、ジャンケンなどで決まったものではなく、鳳鳴がビジターだからだ。
一回から十二回までを表示可能なスコアボードの下には、黄色二つ・青三つ・赤二つが並ぶSBO表示が、不規則に消えたり点いたりを繰り返している。
試合開始を間近に控え、入念な動作チェックが行われているのだろう。
試合開始まで、あと一時間を切っていた。
ベンチの前では、すでにキャッチボールを始めている鳳鳴のメンバーたち。
その中にあって、ポニーテールをなびかせた“りん”の姿は、やはりよく目立つ。
そして、その“りん”のキャッチボールの相手は、言わずと知れた大村だ。
大村の投げたボールを、“りん”が手馴れたグラブ捌きで受け、流れるように投げ返す。
そんな動作が、何度か繰り返された時だった。
「りん姉っ!」
突如として“りん”の耳に届いた、甲高い子ども特有の声。
観客席スタンド側からハッキリと聞こえた声に、“りん”は慌てて声の主を探した。
(夏美っ!)
誰も座っていない観客席を、一列ずつピョンピョンと飛び越えながら走ってくる夏美の姿。
約一ヶ月ぶりに見るその顔は、何一つ変わっていなかった。
だが、いつもなら少年のようにも見えるボーイッシュな夏美が着ている服に、和宏は思わず目を白黒させた。
半ズボンではなく、ヒラヒラした白いワンピースに薄いピンクのボレロ。
まるで、どこぞの可愛らしいお嬢様のよそいきのような服装は、意外にも夏美によく似合っていた。
観客席とグラウンドを仕切るフェンスまで一直線に辿り着いた夏美は、息を切らしながら、もう一度「りん姉!」と叫んだ。
“りん”は、突然のことに面食らいながらも夏美の下に駆け寄っていく。
「久しぶり……夏美」
約一ヶ月ぶりの再会だった。
懐かしさのあまり、“りん”の顔に柔らかな笑みがもれる。
だが、夏美は「時間がない……」とばかりに、フェンスの隙間からもどかしそうに小指を出した。
「りん姉、お願い。約束して!」
「約束……?」
「勝って! この試合……絶対に勝つって約束してよ!」
そう言って、夏美は指きりゲンマンをせがんだ。
何故、夏美がこんなにも必死になっているのか……和宏には知る由もない。
『“このこと”をりん姉にしゃべってはいけない。りん姉の重荷にしかならないから』
りん姉のために……と、直子に固く口止めされ、“あの場所”で会うことすら禁止された夏美。
約一ヶ月間、母・直子との約束を守りぬいた夏美にとって、この指きりゲンマンだけが、今出来る“りん”への励ましであり、自分自身への慰めだった。
和宏は、迷うことなく、夏美より一回り大きい小指を差し出した。
力強く繋がった小指から伝わるのは、漲るような決意。
この試合に賭けているのは……絶対に勝つつもりなのは和宏も同じだった。
「大丈夫。勝つさ……絶対」
「りん姉……」
自信ありげに微笑む“りん”を見て、夏美の強張った顔がみるみるうちに笑顔になっていく。
その瞬間、威嚇するような男の声が辺りに響いた。
「夏美! 何をやっている!」
ビクッと肩を震わせた夏美。
恐る恐る振り向きながら……夏美は蚊の鳴くような声で呟いた。
「お、お父さん……」
(お父さん!?)
その男……重彦は、ツカツカと夏美のそばまで駆け寄ると、右腕を固く掴んだ。
「あの部屋を出てはいけないと言われていたはずだ」
「ごめんなさい……」
厳しくたしなめる重彦に、夏美は消え入りそうな声で答えた。
そのまま重彦は、夏美を引きずるように観客席スタンドの階段を上っていく。
掴まれた腕の痛みに顔をしかめながら、夏美は盛んに何かを訴えるように、何度も“りん”の方を振り返っていた。
“りん”にとっては、初めて見る夏美の父親。
母親の直子の持つ柔らかな雰囲気とは正反対の刺々しい威圧感。
重彦と夏美が観客席スタンドの出口から出て行く刹那、重彦の視線が“りん”を射抜いた。
それは、まるで“愚か者”を見るような、人を見下した冷たい目つきだった。
――TO BE CONTINUED




