第108話 『Perfect Game (14)』
試合が終了したにもかかわらず、三塁側……滝南のベンチサイドでは、誰もが固まってしまったかのように絶句していた。
ムリもない。二軍メンバーからすると、雲の上の存在のような一軍レギュラーの松岡が、たった今、目の前で見逃しの三振を喰らったのだから。
全く無名のピッチャーに……それも女子に。
「さあ、みんな。試合終了よ。あいさつをしてきなさい!」
副監督に促され、滝南の選手たちは、ようやくパラパラとホームベース前に整列した。
「2対1で……鳳鳴の勝ちっ! 礼っ!」
「「ありがっしたっ!」」
主審・山本の大仰な言い方は、最後まで変わらなかった。
だが、少なくとも、ミスジャッジのない的確な審判だったと言えるだろう。
挨拶が終わり、両軍の対照的な雰囲気が、一層明らかになった。
当然の如く、勝った鳳鳴側は明るく、滝南側は皆沈んだ表情だ。
そんな滝南の中にあって、最後のバッターになった松岡は、それ以上に浮かない表情だった。
(チェンジアップ……?)
(それもど真ん中に……?)
スライダーしかありえない……そこに、考えうる限り最も無防備な球。
確かに、次はスライダーと決めてかかったのは、松岡の油断だったかもしれない。
これまでの配球の流れから、それしか考えられなかったといえど……だ。
だが、意表を突かれ、タイミングを外され……ただ見逃すことしか出来なかったのは、間違いなくその油断が原因である。
(それでも……ありえない)
あの局面で、ど真ん中へのスローボールなど、セオリーに反しているどころか、正気の沙汰とは思えない。
どう考えても、あの重要な場面で投げていい球ではないからだ。
だからこそ、松岡にとっては、そんなセオリー破りが本当に信じ難かった。
松岡の目の前……鳳鳴のメンバーが並ぶ列の一番はじっこ。
試合中の凛々しい表情は違う、勝利の嬉しさに染まった笑顔の“りん”がいる。
松岡は、ベンチに引き上げようとしていく“りん”をとっさに呼び止めた。
「あの……キミ……、え、と……萱坂さん……だったかな?」
振り返った“りん”は、呼び止めた声が、あの背番号“2”……松岡のものだったことに気付き、ギョッとした表情を見せた。
しかし、松岡は、そんな“りん”に構うことなく続けた。
「教えてくれないか? なんで最後にど真ん中のチェンジアップなんて投げようと思ったのか……」
妙に必死そうな松岡の顔を見て、“りん”は目をパチクリさせた。
余裕たっぷりの表情で、常に冷静沈着な雰囲気を漂わせていた試合中の表情とは、あまりにかけ離れた表情だったからだ。
だが、そのまなざしは、いたって真剣。
“りん”は、面食らいながらも正直に答えるしかなかった。
「キャッチャーの……大村クンの指示だよ」
「打たれるとは思わなかったのかい?」
「……」
「言っちゃなんだけど、キミのストレートはもちろん、カーブだってシュートだって……もちろんスライダーだって打つ自信はあったんだ。それなのに、ど真ん中にスローボールだよ? そんな指示……ありえないだろう?」
「う~ん……」と言い放っては、腕組みをして考え込み始めた“りん”。
松岡は、ジリジリしながら“りん”の答えを待った。
「ま、大村クンの指示だし」
「……は?」
「多分、何か考えがあるんだろう……って思ったんだよ」
「『何か』……って?」
どうしても納得できない松岡が、しつこく喰い下がる。
しかし、“りん”の出した答えは、シンプル且つ脱力感溢れるモノだった。
「……さあ?」
“りん”は、本気でわからない……という感じで首を捻った。
松岡にとっては、おおよそ期待した答えとは正反対の“りん”の答え。
一瞬、ポカンとした表情で呆けた松岡は、次の瞬間には大声で笑い始めた。
「はははは……!」
腹を抱えながら、なおも笑う松岡。
妙に必死そうな表情を見せたと思ったら、今度は大笑いである。
試合中のコンピューターのような冷静な印象とは、まさに真逆。
その意外さに、松岡を見る“りん”の目は、まるで不思議なものを見るようなモノになっていたが、松岡は構うことなく笑い続けた。
「まいったね。あの局面で“あんな球”を要求するキャッチャーもキャッチャーだけど、疑いなしに投げるピッチャーもピッチャーだよ」
なかなか笑いが止まらなかった。
恐ろしいほど緻密なリードを貫き、ピッチャーのコントロールに全幅の信頼を置いたキャッチャー。
ヒットを打たれたら“負け=デート”という、ともすれば平常心を失いかねない場面で、疑うことなくキャッチャーのサインを信じ抜いたピッチャー。
このバッテリー間にある信頼感という名の絆の強さが、今ハッキリと感じられた。
呆れるほどに……そして、笑うことしか出来ないほどに。
(そうか。そういうことだったんだな……)
松岡の頭の中が、えもいえぬほどスッキリした気持ちになる。
頭をもたげていた疑問が氷解し、ようやく理解することが出来たからだ。
――ボクは、このピッチャーに負けたんじゃなくて、この“バッテリー”に負けたんだ……ということを。
ベンチに戻った松岡に、副監督が声をかけた。
「どうだった? 彼女は?」
「負けましたよ。今回は……ね」
そう言って、松岡はバットケースを抱え上げた。
そして、副監督と目を合わすことなく、他の二軍メンバーたちの列に交じって歩いていく。
副監督は、そんな松岡の後姿を、目を細めて見送った。
やがて、滝南の選手たちが、あらかたグラウンドから出て行った後、グラウンドに残ったのは副監督だけになった。
強者たちの去ったグラウンドに響くのは、勝利に沸く鳳鳴の選手たちの喜びの声。
一人になった副監督は、一塁側に出来た“りん”を中心にした人の輪を見つめながら、嬉しそうにポツリと呟いた。
「萱坂りん……か」
◇
「やったやったやったやった!!!」
「イテイイタイイタイイタイ!!!」
興奮した沙紀と東子が、“りん”の両肩をバシバシ叩く。
その興奮の度合い凄まじく、あまりの痛さに“りん”は思わず悲鳴を上げた。
だが、決してイヤそうではなく、むしろ、喜びを噛み締めているかのようだ。
ムリもない……あの滝南を相手に、狙いどおりパーフェクトに抑えきったのだから。
興奮冷めやらぬのは、山崎たち……正規の野球部員たちも同じ。
監督の山本が試合の総括をして、解散した直後……山崎は、喜びを抑えきれない様子で爆発させた。
「よっしゃっ! 祝勝会やるぞっ!」
「お~! いいじゃん! やろうやろうっ!」
勝利の余韻に酔う部員たちから、口々に賛成の言葉が飛び交う。
その浮かれた雰囲気に戸惑いながら、大村が“りん”たちに話しかけた。
「萱坂さんたち……来れるかな?」
「い、行っていいのか……な?」
「もちろんだよ!」
日焼けした真っ黒な大村の顔が、妙に嬉しそうだ。
“りん”と大村の会話を聞きつけた山崎も、白い歯を見せながら笑っていた。
「おう! 萱坂は強制参加な。なんたってパーフェクトリリーフの勝利投手だ! おまけにあの松岡から三振まで取りやがって……。めちゃくちゃスカッとしたぜ! 主役だっ主役っ!」
有無を言わせぬ山崎の台詞……だが、一同は「同感!」とばかりに一様に頷いた。
「あら! ちゃんとわかってるじゃない!」
「そうそう! さっすがキャプテンだよねっ♪」
沙紀と東子が、まるで我が事のように嬉しそうな表情で、わざとらしいほどに山崎を誉めそやしていく。
「……よせよ」
照れたようにポリポリと頭を掻く山崎を、みんながゲラゲラと笑った。
「ところで、祝勝会ってどこでするワケ?」
笑いが収まるのを待って、沙紀が山崎に尋ねた。
ヒトクチに“祝勝会”と言っても、仮にも高校生なので、“居酒屋”というわけにもいかないだろう。
「イヤ……場所はまぁ……これから決めるんだけどな」
もっとも、祝勝会をやろうと決めたのが、つい今しがたのコトである。
場所など決まっているはずもない。
「じゃあさ……いいトコがあるんだけどっ♪」
そう言って、何かを企んでいるかのようにニンマリと笑う東子。
沙紀は、そんな東子を見て、クスクスと笑った。
東子の言う“いいトコ”というのはドコのことなのか……なんとなく予想がついたからだ。
(……あ! そういや……!?)
沙紀と東子の笑顔を眺めながら、“りん”は、唐突に、松岡との“約束”のことを思い出した。
『ボクがヒットを打てなかったら……キミの言うことを何でも聞くよ』
そうだ。“負けたらデート”のインパクトが強すぎて、“りん”自身も“松岡が負けた場合の約束”のコトをすっかり忘れていた。
だが、滝南はすでに専用バスで帰路についてしまったため、もうどうすることも出来ない。
残念ながら、この約束は“ご破算”ということになりそうだ。
(ま、いいか……)
おかげで、心躍るような勝負を楽しむことが出来たのだから。
そして、極上の勝利の味を噛み締めることが出来たのだから。
今はただ、勝利の余韻に浸ればいい。
尽きることのない笑い声の溢れる人の輪の中で……和宏は、そう思った。




