第103話 『Perfect Game (9)』
まるで、真夏のような強い日差し。
時折吹いていたそよ風も失せ、遮蔽物のないグラウンドは、いよいよ夏真っ盛りのような暑さに包まれようとしていた。
“りん”の白魚のようにしなやかな右手から放たれたボールが、バッターの目の前でククッと曲がる。
右打者に対して曲がっていくそれは、“シュート”と呼ばれる変化球だ。
想定外に変化したボールに、バッターはフォームを泳がせながら、当てるだけが精一杯だった。
フラフラッと上がったフライを、サードの山崎がガッチリ掴んで……ツーアウト。
(……五人目!)
“りん”は、心の中で力強く呟きながら、額の汗を拭った。
夏を思わせる暑さが、少しずつ……確実に“りん”の体力を奪い取っていく。
しかし、四ヶ月前の球技大会の時とは違って、まだまだ十分に残っている余力。
それは、ひたすら走り込みなどの体力強化をしてきた成果に他ならない。
すでに正午は過ぎ、ちょうど頭上にある太陽から、ギラギラした季節外れの光線が、グラウンド全体にまんべんなく降り注いでいる。
そんな暑苦しさとは無縁のように広がる青空は、涼しげに青く、秋を司る白いいわし雲は、空を彩るように浮かんでいた。
「ツーアウトツーアウト!」
“りん”は、バックに向かって、右手を上げながら声をかけた。
まるで公式戦の時のように。
例え、滝南にとっては、取るに足らない二軍のための練習試合であっても、今の鳳鳴にとっては公式戦に等しいからだ。
一方の三塁側ベンチは、さっきまでのピクニック気分のゆるい空気はどこへやら。
一人……また一人と“りん”に打ち取られていくたびに、雰囲気は強張っていった。
そんな中、松岡は腕組みをしながら、相変らず美しい“りん”のアンダースローのピッチングフォームを眺めていた。
一球投げるたびに、空中に揺れる美しい黒髪のロングヘアに、思わず見とれそうになりながら。
ただし、本当に見るべきは、何球投げ込んでも一向にブレる気配のないピッチングフォーム。
ちょっとばかり練習して身につけた程度のそれではない。
(……大したものだね……)
事ここに至っては、松岡としても、“りん”のピッチングが予想以上だったと認めざるを得なかった。
女性ピッチャーが登板すると聞いて、練習台にすらならないだろうと思いきや……思った以上の本格派だったからだ。
「彼女のコト……気に入ったのかしら?」
突然、背後からかけられた声に、松岡は、内心驚きながらも何食わぬ顔で振り向くと、嬉しそうに目を細める副監督が目に入った。
「松岡くんの感想を聞きたいわね」
「……感想、ですか?」
「そう。貴方なりの分析でもいいわ。聞かせて頂戴」
副監督は、優しく微笑みながらも、反論を許さないかのような口調で松岡に尋ねた。
もともと松岡は、冷静な性格を買われ、滝南においては情報参謀的な立場にある。
その役目上、松岡としても答えざるを得なかった。
「……そうですね。まずは予想以上の投手だと思います。特にコントロールの良さは目を見張りますね」
「それから……?」
「変化球のキレもいいです。カーブにシュート。男でもアレだけの変化球を投げられるピッチャーはザラにはいないでしょう。しかも、あれをあのコントロールできわどいところにズバズバ決めてくるわけですから、二軍が苦戦するのも頷けますよ」
「大絶賛ね」
副監督は、我が意を得たり……という感じで笑った。
だが、松岡の分析は、それだけでは終わらなかった。
「……ただ、スピード不足です。もう一つ別の球種でもあれば話は別ですが、そうでなければすぐつかまえますよ。今日の上位打線にはミートのうまいバッターを揃えてますからね」
実に正確な分析……と言えるだろう。
ただ一つの“誤算”を除けば……だが。
「副監督は……どう見てるんですか?」
松岡は、逆に聞き返した。
明らかに、副監督は、あの女性ピッチャーに個人的な興味を示している。
その裏には、何か理由があるような気がしたからだ。
「……あのピッチングフォーム……美しいわね」
「……? 確かにキレイなアンダースローだと思いますが……」
「ただ、不思議と“サブマリン”というイメージが感じられないのよねぇ……」
「……?」
通常、アンダースローは、地面スレスレからリリースし、浮き上がるような球筋になるため、“サブマリン投法”と言われることも多い。
それだけに、アンダースローの見本のような“りん”のピッチングフォームが、なぜ『サブマリンじゃない』のか……松岡には、副監督の言わんとしていることの見当が全くつかなかった。
「例えるなら、サブマリンというより“蝶”……かしら。地面スレスレをヒラヒラと舞う蝶を連想させるわ」
「蝶……」
松岡は、副監督の顔を見るのをやめ、マウンド上の“りん”に視線を移した。
背番号“15”を付けた滝南の一番バッターに対し、七球目を投じるところだった。
そのピッチングフォームは、一度グイッと沈み込んでから、地面スレスレでボールをリリースし、フォロースルーの勢いで、一瞬だけ……わずかに身体がフワリと浮かび上がる。
見るからにしなやかで躍動感溢れるピッチングフォーム。
(なるほど。言われてみると……蝶が舞っているようにも見えるね)
次の瞬間には金属バットによる金属音が響き、主審の両手が上がった。
一塁線へのファールボール。
一番バッターのミートの上手さに手こずっている鳳鳴バッテリーを見て、松岡はほくそ笑んだ。
(でも、ピッチングフォームが全てを決めるわけじゃない……)
この練習試合の目的は、二軍の調整である。
その相手として、近隣の野球部をリサーチした上で、二軍の相手にちょうど良い実力の高校。
そうして白羽の矢が立ったのが鳳鳴高校であった。
現在、八回途中で1-1の同点。
これは、事前のリサーチからすれば、ほぼ予想どおりのスコアだ。
鳳鳴のエース御厨の投げ下ろしてくる独特の球にも、慣れてくる終盤にはつかまえられる……というのが事前の想定だった。
しかし、ようやく御厨の投げ下ろしの球に目が慣れてきていたところで、全くタイプの違う“りん”に、ピッチャーが代わった。
御厨は、長身を活かして高い位置から投げ下ろしてくる直球が武器。
対して、“りん”の球は、アンダースローから打者の手元で浮き上がるように伸びてくる。
その球筋は正反対であるため、御厨の球に目が慣れているバッターにとっては、“りん”の球は打ちにくい……と感じたはずだ。
それは、滝南にとっては、逆アドバンテージ以外のなにものでもない。
(だけど……この程度で押さえ込まれるような選手なら、最初から滝南野球部にはいられないよ)
滝南には、九州・四国地方から、甲子園を目指して集まる人材がひしめき合っている。
その選手層は、例え二軍でも、他のチームでならレギュラークラスと言って差し支えないほどだ。
そう思いながら、松岡は、“りん”の投じた八球目を眺めた。
「……!」
だが、そのタマは、ミートの上手いはずのバッターのバットをすり抜け、あっけなくキャッチャー大村のミットに収まった。
空振り三振……同時に、松岡の細い目が、大きく見開いた。
(……今の球は……!?)
決してカーブではない……横滑りするように大きく曲がった変化球。
それは、今までずっと“りん”が練習してきた、異様にスライド幅の大きい“スライダー”。
そして、このスライダーの存在こそが、松岡のただ一つの誤算。
実践で初めて決めたスライダーに、マウンド上の“りん”が、一際嬉しそうに……派手なガッツポーズを見せながら、透き通るような声で叫んだ。
「あと三人っ!」
「……!」
そして、気合を乗せたまま、“りん”はマウンドを降りていく。
松岡は、その細い目で、“りん”の後姿を見送るしかなかった。
(『あと三人』だって……?)
“りん”の台詞が、松岡の頭の中でグルグルと回り、やがて一つの結論に辿り着いた。
(……滝南の打線を相手に、パーフェクトリリーフをしようっていうハラか……)
七回からのリリーフ。
七、八、九回と、打者三人ずつで計九名を抑える。
ただ一本のヒットすら許さずに。
確かに、いかに二軍とはいえ、ポッと出てきた女性ピッチャーに手も足も出ずに抑えられたのでは、間違いなく“滝南”の名に傷がつくだろう。
これは……名門“滝南”への挑戦状だ。
「……面白くなってきたわね……松岡くん?」
そう言って、ニヤッと笑う副監督を尻目に、真剣な表情のままの松岡は、何も答えることなくベンチを出た。
副監督がどう思おうと、松岡自身にとっては関係のないことだ。
だが……九回は、二番から始まる打順。
つまり、“りん”の言う『あと三人』の中に、四番である松岡が含まれているのは明白である。
ならば……教えてやらなくてはならないだろう。
それが、いかに無謀なコトであるか……を。
(……確かに面白くなってきたかもしれないね……)
松岡は、キャッチャーマスクをかぶりながら呟いた。
―――TO BE CONTINUED




