義弘のセイロン統治
さて、畠山義弘はキャンディ王国を後押しし、コーッテ王国とポルトガル軍、ジャフナ王国軍、そしてシーターワカ王国軍を次々に撃滅してセイロン島をキャンディ王国の統一勢力とした。
しかし、それからがむしろ大変であった。
「またしても旧王族が山に立てこもって反乱を起こしたのか」
「はい、不可触賤民などに担がれたものには従えぬと」
「まったくこまったものだのう」
インドの身分制度であるカースト制度は生まれたときの親の身分でその子供の身分も全て決まってしまう。
しかし、まず宮家や公家などの権威が失墜しきって、僧侶も多くは零落し、守護に守護代が取って代わり、国人や地侍でも大名になれる可能性があった戦国時代の下剋上の日本の身分階級とはまったく異なる。
もちろん太祖が元農民である明国とも違う。
「反乱を起こしたという王族は根切にせよ。
民は一向宗に改宗をさせよ」
「かしこまりました」
ポルトガルは一時的に名目上セイロンの全土を統治したことになっているが、実際はキャンディ王国のこもる山間部には影響力をもてなかった。
もっとも山間部にほとんど目立った資源がないと思われていた台湾と違い、セイロン島は山間部にこそシナモンという重要な香辛料があった。
そのことからポルトガルだけでなく、その後オランダ、イギリスもその土地を得ようとした。
だが山間部にあるキャンディはなかなか難攻不落で、1815年のキャンディ条約でイギリスの保護国へと転落し、1817年のウバ州での反乱失敗後、イギリス領セイロンへと併合され滅亡するまでその命脈を保っていた。
「まあ、よい、沿岸の港は確実に押さえよ。
伴天連宣教師の入港には目を光らせるのだ」
「は、かしこまりました」
セイロンの戦いは古くから島津に付き従っていた山くぐりの忍びでもある従軍画家による紙芝居屋や講釈師、または一向衆を通じてその戦いの様子は面白おかしく講談や紙芝居で描かれ、主要な都市でそれらを吹聴することで王族の権威をそぎ、一向宗の教えを民衆に広め、治水開墾を行って稲作を広めて食料を提供することで古来のヒンズーやセイロン仏教のバラモンの権威もそいでカースト制度を破壊していくのであった。
「日向のときのようにしばらくは時間がかかるか」
「そうですな、ここは焦らずに徹底して反抗するものは根切としておくしかありますまい」
「そうであるな」
薩摩・大隅の国人を屈服させた後に長年に渡り闘っていた日向の伊東家は結局全て根切とするわけだが、それを義弘はセイロンでも行おうとしていたのだった。




