82話 ゴールデンアイとモノクロハート(4)
金色の瞳の犬はどこかへ行ってしまった。
山の中で、足をくじいて独りぼっちの俺。
冷静になると、これは非常にまずいのでは。
「だ、誰かいませんかー!」
いまさら格好悪いが、大声で助けを呼ぶ。
だが、そう都合良く救助に来てはくれなかった。
日は段々と傾き、夕闇が迫りかけていた。
視界を赤い光が支配し、徐々に仄暗い底へ墜ちていくような感覚。
それは酷く不気味だった。
元来、森は恐ろしい場所と人々はイメージしていたらしいが、それを実感している。
何が出てくるか分からない怖さ。
──唐突に揺れる茂み。
「だ、誰かいるのか!?」
あの犬が戻ってきたのかもしれない。
そう信じたい。
人間、どうしようもない時は、信じたいものを必死に信じる。
だが──。
「く、熊……」
信じただけで、目の前の現実が変化するはずもなかった。
足を負傷した俺は、熊と対峙する事となった。
実際に見るとその迫力は凄まじかった。
ちょっとした小型車サイズ、筋肉の塊である体格に、大人の胴体くらいある丸太のような太い腕、ナイフくらいのサイズがある鋭く硬い爪。
それが今、敵意を持って見詰めてきている。
一見つぶらな瞳だが、その表情の読めない黒丸は──深淵を覗き込んでいるようだ。
逃げる? ……無理だ。
戦う? ……無理だ。
生き延びる? ……無理だ。
これから料理を覚える? ……もちろん無理だ。
せっかく、これからやりたい事を見付けたのに、ここで死ぬのか。
熊は、そうだと言わんばかりに低く重いうなり声を上げ、予行演習のように樹木を爪で引っ掻いた。
分厚い木の皮が剥がれ、白い中身が見えてしまっている。
俺はそれを見て、自分と重ね合わせてしまい震えた。
一歩一歩、動けない獲物に近付いてくる巨体。
手の届きそうな距離になった時、熊は立ち上がった。
大きさは三メートル、体重は300キロ程ありそうな巨体。
それがのし掛かる勢いで爪を立てたら、人体はどうなるか。
「た、たすけ──」
瞬間、熊は飛んだ。
──俺の方向では無く、真横に吹っ飛んだ。
「え……?」
物理的な現象として理解出来なかった。
突然、トラックにでも跳ねられたかのような勢いで、熊が、熊が──。
動揺していると、視界の上の方で何かが回転しているのが見えた。
何かが、いや──あの犬が、器用に身体を捻りながら着地。
もしかして、犬が体当たりで熊を……?
そんなまさか、体格差とかもあって無理だろう。
たぶん、熊が運良くバランスを崩したに違いない。
「グルルル……」
怒った熊の唸りが響く。
そして、それをぶつけるかのように犬に向かって一直線。
「危ない!」
俺は、片足しか踏ん張れない中途半端な格好で、熊を両手で押した。
それを邪魔だと言わんばかりに、熊は軽くなぎ払う。
爪では無く、手の甲の部分が──俺の頭部に鈍器のような衝撃を与える。
脳が揺れ、後ろへ大きく倒れ込んだ。
意識が朦朧とする中、俺は空を見上げながら……これで死ぬのかなと思った。
せめて、あの犬には逃げて欲しいものだ。
直後、木がへし折れる音が聞こえ、熊が鳴きながら逃げていく声が聞こえた。
そして、誰か人間の手がプラスチックカップ入りのプリンを、俺の顔の横にそっと置いた。
俺の意識はそこで途切れた。




