148話 ただの恋する乙女(藍綬)
「良いよ。ワタシを殺して、藍綬」
鎖に縛られたフェリさんは、そんな予想外の言葉を発した。
「死ぬんですよ? 本当に良いんですか?」
普通はもっと泣き叫んだり、命乞いしたり、嘘を吐いたり、絶望したり──。
「藍綬の言うとおり、ワタシはグレイプニールの侵食によって、オーディンを殺すだけの──本来の存在になりかけている。たぶん、エーデルランドや、他の見知った人々が絶望した姿を見てしまっていたら、既になっていたと思う」
「そっか……シィさんが必死にやろうとしていた事って……」
この時まで見据えていたのだろう。
人々を死なせず、だけど絶望もさせないように戦う意思を持たせるという馬鹿みたいな世界全体のお芝居。
──だけど、私はそれを、手の中のメイスによって砕こうとしている。
「ごめんね、藍綬に辛い思いをさせてしまって。でも、映司だと本当は心が弱いから……きっとワタシを殺す事が出来ずに、ワタシが殺してしまう」
「……私も弱いですよ、それに嘘つきです」
死が見えているのに、あらがえない運命が見えているのに──。
そのフェリさんの声は幼子を諭す、母親のような優しさを感じられる。
「ううん、藍綬は強いよ。ずっと、自分の心に嘘を吐いてまで映司を助けようとしていたんだもん」
いつも嘘を吐かない真っ直ぐなフェリさんの言葉。
幼い映司さんを助けたフェリさん。
映司さんに愛されて、少しだけ焼き餅を焼いてしまうが、悔しいけど……お似合いだと思ってしまっていた。
何も無ければ映司さんの──二人の幸せそうな姿を見ていられるだけでも良かった。
「私は……フェリさんを友達だと思っています」
「うん、ワタシもだよ。黒妖精の国の夜とか、いっぱいお話しできて楽しかった」
映司さんの過去、フェリさんの過去を聞いた日。
私も、あの時に二人のことをもっと知りたいと思ってしまった。
「私の大切なものは映司さんと風璃です」
「ふふ、知ってる」
「その次に大切なものは自分でもなく……フェリさんも含めた、新たな家族です」
「そっか、嬉しいなぁ」
「映司さんの家のみんな、過ごした日々、かけがえのない大切なものです」
──それでもフェリさんを殺さなければならない。
「ごめんなさいフェリさん……。私が別の解決法を見つけられていれば……どうにか出来る力があれば……」
「しょうがないよ。自分が一番分かっちゃうんだ。ワタシは──どうしようもなく、オーディンを殺すまでは運命に縛られたままの悲しい存在なんだって。それがフェンリルなんだって」
右手が、フェリさんを殺すためのメイスが重い。
今までのどんなものよりも重い、痛い。
「ワタシが死んだら、映司は落ち込んじゃうと思うから~……、旅に出たとでも言っておいてね!」
フェリさんが旅に出たがっていたのは、そういう気持ちだったのだろう。
「分かりました。私は嘘を吐くのが得意なので任せてください」
フェリさんの顔には恐怖の一欠片も無く、ただただ安心しきった表情。
本当の強さ、意思の重さとはこういう事を言うのだろう。
私は彼女を──敬愛する。
だから、それに応えなければいけない。
「ありがとう、藍綬」
メイスを持った右手を高く振り上げながら、映司さんの事を考えた。
きっと、後でこの事を知っても、フェリさんを殺した事を責めもしないのだろう。
いっそのこと、罰として私を殺してくれれば楽だろう。
フェリさんも、風璃も、映司さんも誰も私を責めるようなヒトはいない。
「つらい……なぁ……」
その右手に血がにじむほど強く握っているメイスを──振り下ろせなかった。
目の前が涙で歪む。
つい、漏らしてしまった『辛い』という言葉で止めどない涙が溢れてしまう。
「もう誰も殺したくないし、嘘も吐きたくないし、フェリさんともまだ一緒にいたい……。映司さんの悲しむ顔も見たくない……でも、映司さんを殺されたくもない……」
行き場の無い意思、右手は──打ち下ろす相手を見つけられず、メイスを地面に落下させてしまう。
私の決意は自壊して、フェリさんを殺す事が出来なくなってしまった。
「映司さんなら……どうしたんだろう。映司さん、会いたいなぁ……」
「──その願い叶えてあげましょう。あの世ならいつか会えるでしょう?」
私の身体が砕ける音が聞こえた。
平衡感覚が狂い、地面に削り下ろされるような横滑りの衝撃。
「う゛あ……っ!?」
その足に装着された神器は、私のエーテルを貫通していた。
生身では無い戦乙女の身体は、脇腹辺りが光の粒子として欠けてしまった。
「藍綬!?」
誰が私を呼んだのだろう……意識が朦朧とする。
フェリさんだろうか、フリンさんだろうか……それとも──。
「藍綬! しっかりして藍綬!」
いつの間にか倒れてしまっている私を、風璃が抱き抱える。
そして、それを見下す長身の喪服姿──その神はヴィーザル。
「残念、私はしぶとい。それに強い。さすがにあのタイミングでやられるとは思わず、頭を飛ばされてしまいましたが」
「化け物……!」
もう首すら動かない私の代わりに、風璃が睨み付けて悪態を吐いてくれている。
ヴィーザル……彼のエーテルの真芯を捉えたと思っていたが、その程度では殺せていなかったようだ。
「私を殺すのなら、ロキでも連れてくるんですね。もっとも、それは不可能ですが──」
すっかり復元した首をコキコキと鳴らし、いつものように薄ら笑いを浮かべた。
「いやぁ、些末な存在だからと見逃していたらこんな事になるとは。小さくてもキチンと処理しなければ」
私に向けられる手の平。
黒いエーテルが凝縮されていく。
「藍綬、もうキミは用済みです」
ヴィーザルから与えられていた力が操作され、私の魂──藍綬という存在が小さくなっていく。
ランドグリーズから貸し与えられた領域から徐々に切り離される。
消えていく……私が消えていく。
「藍綬!? ねぇ、藍綬しっかりして!」
言わなきゃ、もう最後になるから言わなきゃ。
でも、何て言えば良いんだろう。
大切なみんなに嘘を吐いていたんだ。
いっぱい、幸せをもらったのに。
「もういなくなるなんて嫌だよ!」
たった一言発するくらいの力も無くなってきた。
迷っていたためだろう。
……私、計画性ないなぁ。
結局、何も出来なかった。
あれだけ覚悟を決めたつもりだったのに、フェリさんを手にかける事も出来ず、ヴィーザルも……。
何も残せないで、ただ消える。
風璃の悲しい瞳。
風璃の涙。
風璃の心。
ああ、私に向かっている。
でも……わがままだけど。
もう会えなくなるけど……。
最後は──。
「藍綬……」
私は笑った。
風璃も泣きながら無理やり笑ってくれた。
「風璃、大切な思い出をありがとう。みんなとの宝物持っていくね──」
戦乙女としての機能を失って、私の五感は消滅した。
ランドグリーズ、ありがとう。
最後の、あなたが代わりに言ってくれたんでしょう?
(チッ、知るかよバーカ)
まだランドグリーズの可愛い悪態は辛うじて聞こえるらしい。
(あー、つまんねぇ。つまんねぇな。もっと面白くなると思ってお前に主導権を渡してやってたんだぞ?)
私は……普通の女の子みたいな事をいっぱい出来て楽しかった。
(はっ!? どこが普通なんだ! もっと普通っていうのはな……もっと……好きな奴とくっついたり、子供作ったり、一緒にずっと……死ぬまで過ごしたり)
こんな私に付き合ってくれてありがとう、ランドグリーズ。
(お前は……世界を恨まないのか?)
恨まない。
(お前も、アタシと一緒で酷い事をされたろ!?)
だって、世界には──異世界序列には、みんながいるんだもの。
(そんな……おい、消えるなよ! おい!)
ランドグリーズもいるよ。
それにあの人も──。
(チッ。藍綬、お前はアタシの三分の一だ。ママみたいなもんだった。……じゃーな!)
最後に──映司さんの優しい顔が浮かんだ。
どうやら私は戦乙女ではなく、ただの恋する乙女だったようだ。




