145話 貪り喰らう物(グレイプニール)
ヴィーザルは優しかった──あの時も。
ワタシがまだフェリという名前をもらうずっと昔、神々に軟禁されていた頃。
* * * * * * * *
「また鎖のきょーど実験?」
「ああ、協力してくれるかな? これからの神器を作るために必要な事なんだ」
幼いワタシは、難しい事は分からなかった。
だけど、ワタシを恐れている神々に対して協力すれば、いつか仲良くなれると思っていた。
こちらを見る、彼らのどこか怯えた瞳を何とか出来るなら──。
それに、いつもヴィーザルとテュールが立ち会ってくれるから怖くない。
次の日、さっそく鎖の強度実験が行われた。
場所は軟禁されている館の広い庭。
以前は想像すらできなかった巨人族の装置や、神々による魔方陣、ドヴェルグの鍛冶士などが揃っていた。
もう何回か同じ事をしているが、庭の芝生が荒れてしまうので少人数で手早く終わらせて欲しい。
「そのドレス、気に入ってるんだね」
ワタシの格好を見て、ヴィーザルがいつものように笑う。
「うん! ふわふわの白いドレス!」
「おてんばのお前には猟師の毛皮の方が似合うんじゃ無いか?」
テュールは両手を腕組みし、意地悪そうに茶化してくる。
「も~。デリカシー無いし、何かセンスが古いし~」
「古いってそりゃお前、ヴィーザルと違って俺には孫がいるから、もうお爺ちゃんだぞ」
「あはは、テュールのお爺ちゃん~!」
その時は何故か、噴き出すように笑ってしまった。
子供独特のツボという物だろうか。
今思えば、そんな自然に笑えたこの時は……まだ幸せだったのかもしれない。
幼いエイジと出会うまで、それを失うことになるのだから。
「フェンリル、実験の準備をお願いします」
「は~い!」
ドヴェルグの男が持ってきた鎖──いや、鎖と言うにはあまりにも細い。
しかもガラスのように透明。
「これ、紐……? イーヴァルディ、こんなので平気なの?」
イーヴァルディ──といっても、現代のどのイーヴァルディとも違う。
最高の鍛冶士家系に受け継がれる名前なので、その肉親か関係者の男性なのだろう。
「これは特別でな。ミッドガルドで絶滅した狼の概念を素材としている」
「ミッドガルド……狼がいなくなっちゃったんだ。悲しいね」
「といっても、これは一国で消えた分だけだ」
狼が疎まれる地なのだろうか。
別名地球──恐ろしい星だ。
行方不明のお父様を探しに行ける時がきたら、地球での行動は気を付けようと心に誓った。
「それじゃあ、付け──」
ワタシはその透明な紐に触れた瞬間、身体が震え、歯をガチガチと鳴らしてしまった。
指先から伝わってくる絶滅という概念。
自分に近しい種が丸ごと消えるという悲しみ、怒り、憎しみ。
「大丈夫か、幼狼よ」
「これ……怖い」
これを付けてはいけない、そう本能が言っている。
「困ったなぁ。これでは実験になりませんよ」
そう言いつつも、神々は困った表情をしていなかった。
珍しく怯えるこちらを楽しんでいた。
「では、安心させるためにテュールの腕に牙を当てておくというのはどうでしょうか?」
「くくく、ヴィーザルよ。面白い提案だ、良かろう。幼浪よ、さぁ噛め」
巫女の予言が詳細で、ワタシの次の運命まで事細かく提示されていたのなら……。
ワタシは断っていただろう。
だけど、あのヴィーザルが言うのなら、と頷いてしまった。
「はむっ!」
「こそばゆい、こそばゆいぞ。もっと大きく口を開けろ」
「わひゃっは!」
テュールの右腕はたくましく、ワタシの小さい口ではなかなか収まりきらなかった。
顎を大きく開き、かなり頑張ってやっと甘噛みのような形になった。
「ひょへへはんしん」
これで安心、と発音しようとしたが、よだれがベタベタに付いてしまうだけだった。
「俺の右腕がふやける前に何とかして欲しいものだな」
「いやぁ、愛溢れる光景ですね」
「……どこがだ」
二人のやり取りにまた笑ってしまった。
今のワタシにとっては、家族と離ればなれで、お父様は未だ行方不明という状態の中、この二人だけが頼れる存在なのだ。
周りは畏怖という闇、それを照らす優しい光。
「では、装着して実験を開始します」
その細く透明な鎖は冷たかった。
背筋まで、心の中心まで一瞬に凍り付かせるような無機質な殺意。
「──ッ」
思わず身体に力が入ってしまい、口を閉じそうになる。
だけど、精一杯我慢した。
「手足の装着は終わった。次は身体だ」
素肌に蛇が這うように、体温の低い異物が身体の表面を這う。
ワタシの魂まで入り込んできそうな幻肢痛に似た感覚。
苦痛だったものが、段々と馴染んできてワタシ自身が全てを任せてしまいそうになる。
「俺の腕は気にするな。なぁに、お前の牙程度では重傷にはならん」
口から広がる血の味。
いつの間にか牙がめり込み始めて、白いドレスが垂れた血液で赤く染まっていた。
はっとしてワタシの意識は戻り、急いで口を離そうとするが──。
「第二段階だ、狂わせてやれ」
明らかに悪意ある神々の言葉。
それと同時に、巨人族の装置や、神々の魔方陣が起動する。
鎖をセイズ媒体として、絶滅の概念をさらに強化。
「……あっ」
──殺したい。
そう願ってしまった。
人も、神も、巨人も、全ての知的生命体を滅ぼしたいという心。
それはもう鎖からもたらされた狼たちの悲願なのか、自分の本質なのか混ざり合ってしまって理解出来ない。
ただ、そう成ってしまった。
世界を憎み、オーディンを殺すためだけの存在──終焉をもたらす神殺し、に。
「今から生命全てを殺す。命乞いは無駄だ、抵抗は無駄だ。相対するは絶望と識れ──」
ワタシは、ワタシの意思で喋っていた。
どうしてそうしたいのかは分からなかった。
でも、目の前の全員を確実に殺せるのは分かった。
だけど鎖がどうしても邪魔だ。
「ひ、ひぃ!? 狼になった!?」
エーテル自体の変質により、完全なる狼の外見になったワタシにこの鎖は窮屈すぎる。
この鎖さえなければ──。
「落ち着け、幼浪──いや、フェンリル狼よ」
この声は誰だっただろうか。
白髪の逞しい老人、右腕が肘の先からが無い。
ワタシの口の中は血の味でいっぱい。
気が付いてしまった。
そうか、ワタシが──。
「あ、あああ……」
ワタシがテュールの右腕を食べていた。
「なるほど、神々はこれを狙って実験を繰り返していたのですね」
ヴィーザルは剣を引き抜き、周囲の魔方陣と装置を瞬く間に破壊した。
ワタシはそこで気を失った。
室内、いつものベッドの上で目覚めた。
目に入ったのはテュールとヴィーザル。
「おはよう、フェンリル」
「ん……おはよう。ワタシはどれくらい寝てたの?」
「あれからというのが、鎖の実験からなら、丸一日」
そうだ、ワタシは鎖で縛られて我を失って──。
急いで起き上がり、テュールの方を振り向いた。
視線に映ったのは右腕が肘の先から無くなっていた姿。
「あ……」
言葉が出なかった。
ワタシがやってしまったのだ。
あの地獄から助け出してくれて、干し肉をくれた、逞しい右腕。
まるで自分の孫のように可愛がって撫でてくれた右手。
それをワタシが──。
「気にするな、かすり傷だ」
テュールはいつものように無骨な表情のまま言った。
「そ、そんなわけ──」
「例えエーテルごと腕を失っても、お前のためならかすり傷だ」
少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らされてしまった。
「こんなことを言っていますが、テュールはあの後『痛い痛い』とジタバタしながら治療されていましたよ」
「こ、こら! お前はそういう事を言うんじゃ無い!」
「だって一人だけ格好付けるのは卑怯じゃないですか」
ワタシは、二人に嫌われていない事を安心したのか大泣きしてしまった。
困ったような二人が、背中をさすってくれたり、頭を撫でて落ち着かせてくれるまでかなりの時間がかかった。
「それでつかぬ事を聞きますがフェンリル……。あなたは、あの実験の後からずっと寝ていたのですよね?」
「うん? 目が覚めたら、今この状態だけど……」
「そうですか。それだけ聞ければ十分です」
──この時のワタシは、部屋の外が関係者の死体だらけだったのを知らなかった。
「あ、研究のデータと鎖は処分しておきましたから」
* * * * * * * *
「あの時だって! ヴィーザルは優しかった!」
目の前でオタルを殺したヴィーザル、きっと何かの間違いだ。
「あの時?」
「軟禁されていた館でワタシ以外の神々が誰かに皆殺しにされて、眠っていたワタシの元に二人が駆けつけてくれて!」
「ああ、あの時ですか」
「ワタシが神々から疑われて、でも、それでもヴィーザルは立場を捨ててでもかばおうとしてくれて──」
ヴィーザルはいつものように笑った。
「ええ、フェンリルは犯人ではありませんよ」
良かった、きっと何かの間違い。いつものヴィーザルで──。
「私が愚かな神々を皆殺しにしたのですから」
いつもの……ヴィーザルで……。
「あなたの家族をバラバラにしたのも、虐待したのも、鎖の実験も全て私の指示ですから」
「う……──アァァァぁぁッ!!」
ワタシは言葉にならない絶叫を吐き出して、ヴィーザルに飛び掛かった。
「その考え無しの所は昔から変わらんな」
眼前に立ちふさがるテュール。
残っている左手に握る剣で、ワタシの爪を受け止める。
「テュールまで……」
「少し考えればわかるものだろう?」
そうかも知れない。
心のどこかでは、今までの事も可能性として考えていたかもしれない。
だけど、信じたくは無かった。
悪意なんて信じたくは無かった。
本当はみんな怖いだけで、誰も悪くないと思っていた。
「そしてこれから……フェンリル、あなたの大切なものを奪っていきましょう」
ヴィーザルが天を指差すと、どこかの映像が空に立体投影された。
「ここと、三箇所を手始めに──」
映像の中で次々と現れる、ここと同じような巨大転移陣。
エーデルランドの上空にも追加で現れた。
「あなたの妹ヘルがいる冥界。あなたが救った黒妖精の国。あなたが親しくなった地球の住人達──そこに疑似天使達を送り込みましょう」
「やめろ……」
「ん? 何ですか?」
ワタシは叫んだ。
「やめろォォーーーッ!!」
目の前を遮っていたテュールを爪で軽々と弾き飛ばした。
「おやおや、何故止める必要があるのでしょうか? これは私の愛ですよ」
訳の分からないことを言うヴィーザルに向かって爪を振り上げる。
「本当は使いたくなかったのですがね──神器『貪り喰らう物』」
「ぐっ……あ……」
爪は届かなかった。
あと一歩という所で、透き通る黒色の鎖が──。
「私からの、黒いドレスをプレゼントです」
身体中に絡み、縛り、締め付ける。
それはワタシを黒く塗り潰すように。
心を塗り替えるように。
「いやぁ、苦労しました。あれから改良に改良を重ね、神器として現イーヴァルディに作ってもらいましたから。フェンリルにのみ効くという制約と、数え切れない程の世界の概念を消費してやっとです」
「もしかして、あの時の鎖のデータは……」
「私の愛ですよ」
過去の実験データは破棄していなかったし、黒妖精の国で鎖を壊したと思っていたのもフェイクだったのだ。
本当はイーヴァルディの息子ではなく、その母親が既に──。
「ちなみに制作者のイーヴァルディはつい先日殺したので、どうにかする事は出来ませんよ」
世界が、心が、死で溢れてしまう。




