112話 つなげなかった手、偽りと消失(その傷跡)
「ふ~、通り雨……止んだね」
あたし――風璃は、建物の軒下から出て、晴れ上がる空を見上げた。
「教会から孤児院に向かっていたら、急に降り出してきて焦りましたね」
横にいるランちゃんと、オタルちゃんも軒下から出て、手をかざして雨が降っていない事などを確認している。
雨さえ止んでしまえば、後は孤児院まで少し歩くだけで到着だ。
現地に居る小さなドヴェルグのケンちゃんや、カノちゃんも、映司お兄ちゃん達との再開を待ちわびていたし、今から楽しみだ。
……その映司お兄ちゃんは、何やらしきりに濡れた髪を気にしている。
「映司お兄ちゃん、髪型でも気にしてるの? ちょっと雨に濡れてた方が、水もしたたる良い男みたいになるかもしれないよ」
あたしは冗談っぽく言うが――。
「いや、雨に濡れると禿げるって聞くから……」
向こうはすごく真剣な顔をキープしていた。
内容的に、凄まじくあきれてしまう。
「髪の毛、量とか生え際とか普通だし平気じゃないの? お父さんもフサフサだし……」
「ベルグの禿げ頭を見ていたら、日々不安になってきてだな」
「映司様、あれはただのマスクですから。金属なヘルメットですから」
オタルちゃんが突っ込みを入れる。
「それに、映司様は禿げても格好良いと思います!」
……こちらも真剣だった。
これ、そんなに大事なことなのだろうか。
いつもの映司お兄ちゃんだなぁ……とため息を吐きながら、もう一度空を見上げる。
まだ雲は残っているが、その一部に穴が空き、太陽の光が幻想的に天から差している。
それはまるで――。
「ねぇ、お母さん! お空が綺麗だよ!」
「ふふ、そうね。今にも天使様が舞い降りてきそうなくらい」
平和そうな日常が似合う母子が朗らかに、そんな会話しながら道を歩いている。
晴れ上がり、道の往来が活発になってきていた。
「さてと、そろそろ孤児院に向かおうか」
空は幻想的な風景を醸し出しているが、だからといって幻想的な存在が降りてくるとは限らない。
ランちゃんが言っていた、天使はもう存在しないと。
もし――いるとしたら、心清らかな存在の信仰の中にだけいるのだろう。
人々を影ながら、温かく見守ってくれる天使様が。
「ランちゃん、大丈夫?」
しばらく歩いていて、ふらふらと様子がおかしい事に気が付いた。
いや、ここのところ少しずつだけど何か噛み合っていないような……不自然さがあった。
今日の事をセッティングしたのはあたしだけど、最初のきっかけとして言い出したのはランちゃんだ。
それはかなり唐突で、まるで自分の意思では無いかのような。
「うん……大丈夫」
口ではこう言っているが、表情は今ひとつ沈んでいて、足取りも重そうに見える。
体調が悪いだけかもしれないが、何か精神面で抱えている気がする。
相談したくない、出来ない何か。
あたしの、こういう誰かに対する予感は割と当たる。
そんな中、オタルちゃんが横から入ってきた。
「では念のため、このオタルと手を繋ぎましょう。転ばないし、誰かの手を握っていると安心しますよ。まぁ、フリン様の受け売りですが……!」
オタルちゃんは、普段は何かを完璧にこなそうとしている姿勢の無愛想さだが、誰かのために優しい表情も見せる事が出来る良い子である。
あたしの前を歩くオタルちゃんと、ランちゃん。
少しだけ照れくさそうにしながらも、お互いに差し出した手を握る二人。
本当の背や年齢は違うのだろうけど、今の見た目からは姉妹のようだ。
少しだけ昔を思い出しながら、出来たての水たまりがいくつもある道を歩く。
横には、まだ髪を気にしている仕草をする映司お兄ちゃん。
その視線はランちゃんをチラチラと追っているため、本当は心配で気にしているが恥ずかしくて表には出せないのだろう。
「ねぇ、映司お兄ちゃん」
「ん? なんだ、風璃」
あたしは、うつむきながら映司お兄ちゃんの姿を見ずに、声だけを掛けていた。
「昔は、雨上がりには手を繋いで一緒に歩いてたよね」
前方に少しだけ大きな水たまり。
子供の頃だったら、長靴でパシャパシャとさせて遊んだことだろう。
だけど、今はもう中学生だ。
少しだけ大股で飛び越すように避ける。
「――よっ、と。映司お兄ちゃん。手、繋ごっか?」
照れ隠しのために目線を下にやったまま言う。
横で歩く映司お兄ちゃんはどんな表情、どんな気持ちになるだろうか。
同じように照れるだろうか。
多少、そう多少……楽しみになりながら、映司お兄ちゃんの方に顔を向ける。
「あれ……?」
そこには誰もいなかった。
映司お兄ちゃんが立ち止まって、後方に位置したのかと思い振り返るも、通行人がまばらにいるだけだった。
さすがにはぐれるような距離や時間、人混みではない。
「風璃様、どうしましたか?」
前方のオタルが立ち止まり、あたしの方を振り返る。
「映司お兄ちゃんが消えた。まるで、水たまりに吸い込まれたみたいに……」
「うーん、確かにいませんね。でも、映司様の事なので、セクシーな女性にでも引き寄せられてどこかへ行ってしまったのでは」
「まぁ、そっか……映司お兄ちゃんだもんね」
あの映司お兄ちゃんなら、一人でなんだって出来るような力を持っているし、いつでも駆けつけてくれるだろう。
たぶん、孤児院にひょっこりと先回りしているかもしれない。
あたしと、オタルちゃんは呆れ顔で笑い合った。
大丈夫、いつもと変わらない平和な日常だ。
「……映司さんは、もうこの世にいません」
「ランちゃん?」
浮かない顔で何かを呟いていたが、うまく聞き取れなかった。
――映司お兄ちゃんが消えた地点の水たまりだけが、波紋を広げ続けていた。
* * * * * * * *
結局、あたし達が孤児院に到着しても映司お兄ちゃんは戻ってこなかった。
そして、空からの来訪者が現れた。
「なに、あれ……。天使?」
誰かが最初にそう言った。
雲の切れ目から、幻想的な光と共に一対の翼持つ人型が――。
ゆっくりと舞い降りる。
だが、その瞳は天使とはかけ離れ、魂のこもっていない黒いガラス玉のようだった。




