第八十四話 舞い降りる絶望
「な、んだよ、これ……っ!」
瀕死のヴェルターが「魔王の遺物」を掲げ、遺物がひときわ強く脈動した瞬間、空気が変わった。
「ぐ、ぅ……!」
濃密な魔力に、呼吸すらままならない。
――これが〈魔王〉。
ただ「遺物」に込められた魔力の残滓だけでこれだ。
目の前に立つヴェルターなど、本当の「魔物の王」の前には小物に過ぎないと錯覚するほどの圧力。
「く、そ……!」
俺の脳裏に、「強制イベント」という単語がちらつく。
ロゼの足元で、魔法陣が妖しい光を放つ。
禍々しく光るそれが危険なものだと分かっていても、誰も動けなかった。
ラッドたちは脂汗を浮かべたまま硬直し、マナはそのあまりの濃密な魔力に膝を折り、えずくように胸を抑える。
あれほど縦横無尽の活躍を見せたレシリアさえ、驚愕の表情と共に固まっている。
そして、俺も、また……。
「ダメ、だ。あれ、は……。あれ、だけは……!」
重力が増したような世界の中で、必死に手を伸ばす。
伸ばした手の先、浮かび上がる魔法陣の奥に、ゲームの記憶がよみがえった。
※ ※ ※
この「フリーレアの吸血鬼」イベントにおける最後にして最大の秘密は、ヴェルターを倒したあとにその姿を現す。
その心臓に〈悔いのナイフ〉を打ち込み、ヴェルターが消えるのを見守ったあと。
いざ〈肆の魔王〉との決戦に挑もうと向かった最深部で「主人公」たちを待ち受けていたのは、俺の想像もしていない光景だった。
〈薔薇の館〉を探索した時、俺がニュークに言った「奥まで行っても、きっと何もない」という言葉は、嘘じゃない。
最深部には、何もなかった。
正確に言うと、なくなっていたのだ。
「……空の、棺桶?」
最深部にあったのは、広い空間の中心に置かれた、装飾の施された豪奢な棺桶。
しかし、その棺桶の蓋はすでに外れ、中には何も入っていなかった。
何が起こっているのか。
いや、何が起こっていたのか分からず、俺は画面の前で混乱した。
ただ、真相に至るヒントだけは、そこにきちんと残されていた。
棺桶の手前の床に〈魔王〉が彫ったと思しきメッセージが刻まれていたのだ。
光、目覚めしのち
我が前に立ちて
我の心臓を捧げよ
それはかつて目にした「〈魔王〉の遺言」だった。
ただし、日記ではかすれて読めなかった部分もはっきりと読める。
そこで引っかかったのは、最後の一文。
「……『我の心臓を捧げよ』?」
その時まで俺はずっと、遺言のこの部分には「我に心臓を捧げよ」と書いてあったのだと思っていた。
つまり、ヴェルターがロゼを狙っているのは、「ロゼの心臓」を〈魔王〉に捧げ、〈魔王〉を復活させるためだと考えていたのだ。
そのまま連れていくもよし、吸血鬼化してロゼの意志を奪って連れていくもよし。
とにかくロゼを〈魔王〉の前に連れて行って生贄に捧げることで、〈魔王〉が復活するのだと、そう決めつけていた。
……だが。
捧げなければならないものが「誰かの心臓」ではなく、「〈魔王〉の心臓」でなければいけないのならば、話は違ってくる。
「〈魔王〉の心臓」なんてものは一体どこにあるのか。
いや、そもそも、〈魔王〉がこの棺桶の中に眠っていたとしたら、〈魔王〉はここから出て、一体どこに行ったのか。
……その全ての答えはしかし、目の前にあった。
無意識に視線を向けた、〈魔王〉が眠っていたという棺桶。
そこに書かれた短い文字列を目にした俺は、その時やっと全てを理解する。
空になった〈魔王〉の棺。
その表面には、こんな文字が彫られていたのだ。
――〈肆の魔王ロゼ〉ここに眠る、と。
※ ※ ※
〈肆の魔王〉である〈ロゼ〉は、比類なき吸血鬼の王だ。
そして日の光すらも克服した真の吸血鬼にとって、恐れるべきは心臓を杭で貫かれることだけだった。
だから、〈肆の魔王〉は自らが力を失う直前、非常に大胆な策を取る。
すなわち、自らの力の源であり、同時に最大の弱点でもある「心臓」を身体から取り出し、自分の信頼する同胞に預けたのだ。
これならばたとえ〈薔薇の館〉の地下で眠る肉体を見つけられても、彼女が本当の意味で殺されることはない。
そして、いつか心臓を肉体に戻す時のため、〈魔王〉は最後の力で心臓に術をかけた。
それが、「〈魔王〉の遺物」の正体。
そして、一足先に棺から取り出された〈魔王〉の肉体。
心臓をなくしたことにより、〈魔王〉としての力と記憶を失った〈魔王〉の身体こそが、今のロゼだ。
俺たちが「呪いによる攻撃」と思っていたものは、なんてことはない。
術式へと姿を変えた「〈魔王〉の心臓」を、「〈魔王〉の肉体」に定着させるための移植手術のようなもの。
それは吸血鬼たちにとっては呪いなどではなく、定められた予定の一部にしか過ぎず……。
その際に「記憶を失っていた時の仮の人格」が消滅することなど、吸血鬼どもにとってはどうでもいいことだろう。
そして、「呪いの標」が刻まれたら最後、その「呪い」は術者〈ロゼ〉の死をもってする以外に、止める手段はない。
だからこの話の結末は、最初から二つしかなかったのだ。
――〈魔王〉であるロゼをこの手で殺すか。
――〈魔王〉の復活を見過ごし、フリーレアを亡者の街へと変えるか。
関わらない、という選択肢はない。
放置は復活の許容と同義であり、たとえロゼに一度も会わなかったとしても、彼女は勝手に〈魔王〉として覚醒させられる。
延命の選択肢もない。
ロゼにかけられた「呪い」は日を追うごとに強くなり、彼女が最後まで「呪い」に抗することは不可能だ。
プレイヤーは否応なしに選択を迫られる。
彼女を殺して世界を救うか、世界を見捨てて彼女を救うか。
いや、人格の消滅を「死」と定義づけるなら、「彼女」の運命はもう決まっている。
これは約束された悲劇であって、プレイヤーに選べるのは、「彼女」の死をどう演出するかという、ただそれ一点だけ。
この「フリーレアの吸血鬼」イベントが、非常に評価が分かれる理由は、そこにある。
練り込まれた物語に、情緒豊かな台詞回し。
悲しくも惹きつけられる、悲劇のストーリー。
それをもって、このイベントこそが〈ブレイブ&ブレイド〉の最高傑作だ、と言う人もいた。
――だが、俺はこのくそったれなイベントが大っ嫌いだった。
二周目、三周目になれば、感動も情動も薄れる。
ゲーム攻略を見据えるなら、フリーレアを崩壊させる訳にはいかない。
どうせ死ぬのが決まっているなら、それは早くても遅くても違いはない。
そんな言い訳をして、「呪いの標」を受けた直後、自分を殺してくれと願い出る彼女の頼みを叶えてきた。
無感動に、機械的に、俺は当たり前のように「彼女」を殺しながら、ただ、それでも心の奥底では考えていた。
――これがゲームじゃなかったら、と。
もし自由に行動が出来るなら、「呪いの標」を受ける前にヴェルターを倒して、ロゼを救ってやれるのに、と。
「く、そ……!」
吐き気すら覚えるような重圧の中、泥の海に浸かったかのように鈍い身体を、それでも必死に前に動かす。
すぐ、そこまで来たのに。
彼女の運命を変えられる機会が、ほんの目の前まで来ているのに。
ここで、諦める訳にはいかない!
近く、けれどあまりにも遠い数メートル。
まるで星のように近くて遠い彼女に、それでも俺は手を伸ばす。
しかし……。
「あははははは! 〈魔王〉様! ロゼ様! どうか、どうかもう一度……!」
ヴェルターの狂った哄笑が、魔法陣の光を強くする。
吸血鬼の身体は半分崩れ、もはや右足も左手も、すでに灰へと変わっている。
それでも突き出した右手は、その狂気を帯びた鋭い眼光は、いささかも衰えてはいない。
真っ赤な光を放つ「魔王の遺物」は閃光と共に砕け散り、そこから巨大な血の剣が浮き上がる。
覚えている。
あれが彼女の身体を貫き、その胸に、文字通りに一生消えることのない刻印を残す映像を。
彼女の未来が確定する、絶望の瞬間を。
それでも、俺の足はどうしても動いてはくれない。
あとほんの数歩の距離が、どうしたって縮まらない。
そうして、血の剣が動き出す、その直前。
ロゼの視線が、俺を捉える。
「レクス、さま……。たすけ――」
だがその瞬間、血色の剣がその切っ先を魔法陣の中心に、ロゼの胸へと向けられ、
「ロゼェエエエエエエ!!」
俺は必死に彼女の名前を呼び、そして……。
「…………ぁ」
そんな俺の、すぐ目の前で……。
無情にも闇の剣が胸を貫き、そこに「呪いの標」が刻まれるのを、見た。
※ ※ ※
虚脱感に、ガクリと崩れ落ちる。
――「呪い」は成った。
今さら何を騒いでも無駄だし、覆りはしない。
すでに、場を覆うような濃密な魔力は姿を消している。
それでももう、立ち上がる気力すら残っていなかった。
ゆっくりと、赤い光が収まって……。
閃光に眩んでいた視界も次第に元に戻っていき、だんだんと周りの様子が見えてくる。
「そん、な……」
風に乗って届いた嘆きの言葉は、果たしてどのような意味だったのか。
声に導かれたように、俺はそっと、周りを見回した。
目を見開いたラッドにニューク、座り込んだままのプラナとマナ。
何かを悟ったように唇を噛み締めるレシリアに、まだ自分の身に起こったことが理解出来ずに、亡羊とした表情で胸を押さえるロゼ。
誰もが放心したようにその場から動けぬまま、魔法陣の中心を見つめていた。
そして最後に。
俺は、ヴェルターへと視線を向ける。
ついには四肢の全てを失って地面に横たわり、それでも執念で「呪い」の成立を確かめようと現世に留まる狂った吸血鬼。
その姿に、ゲームでの最期の姿が重なる。
杭を胸に受け、萎れて血を吐きながらも、満足そうな笑みを浮かべたその顔がオーバーラップして、
「な、ぜ……」
だが、その表情だけは、ゲームとはまるで違った。
まるでありえないものを見たかのように、呆然とこちらを……。
魔法陣の上に座り、胸の真ん中に煌々と「呪いの標」を光らせた「俺」を見るヴェルターに、俺は気さくに右手をあげて応えてみせる。
「――なぜ、おまえが、そこにいるぅううううう!!」
驚愕と憤怒、それから隠し切れない絶望の叫びを断末魔に残し、彼の全ては灰となって風にさらわれていき……。
役目を終えた俺の右手の〈キャッスルリング〉もまた、砕けて風に舞ったのだった。
レクス「やぁ!」
次回、薔薇の館編エピローグ!
すごい短くなるはずなので21時更新余裕です!!





