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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
心の行方
69/122

心の行方 3-2

  *


 ハルシャから派遣された兵三千はいくつかの集団、軍に分かれ、人里を避けた進軍によって密かにグレアム王国領内に侵入していた。

 それがはじめて結集したのが、アルフォンヌが封じられた古城から遠からぬ草原のこと、アルフォンヌははじめて見る異国の兵にも気圧されず、堂々と武装した屈強な男たちの前に立ち、自らの目でもってひとりひとりを見てまわった。

 その後ろを旧ノウム王国の重臣がぞろぞろと付き従い、まるでアヒルの親子が逆転したような滑稽さ、それでもハルシャの兵士たちは笑うことなく、きっと前を向いたまま、アルフォンヌに忠誠を誓う。

 この状況にほくそ笑んでいるのが立役者であり、ノウム王国復古の暁には重要な肩書きと多額の報酬を手にするであろうコンドラートであり、よろこばしくないのは見事出し抜かれた形となったほかの重臣たちである。

 事実、アルフォンヌがハルシャの兵を率いてノウム城を攻めると言い出したとき、時期尚早という慎重論はいくつでも上がってきたが、コンドラートの意見であれば封じ込めることができても、アルフォンヌの命令とあれば従うしかない、とくに従わぬ人間はこの場で斬って捨てるとまで言われては。

 重臣たちのなかには、三千の兵を目の当たりにして態度を変えた人間もいたが、一部はいまもノウム城の攻撃には慎重な姿勢をとっている。

 いわく、


「いかにアルフォンヌ王子が早熟であり天才であるとはいっても、いまだ幼いことには変わりない。その指揮での城攻めには不安がある」


 という現実的な意見と、出し抜かれたコンドラートへの敵愾心で反対しているという子どものようだがその分根強い心理があって、アルフォンヌはそれらを見抜くにはいささか幼すぎた。

 そしてアルフォンヌも、自分の指揮下に入る三千の屈強な兵たちを目にして、得も言われぬ高揚感を覚えていた。

 兵を指揮する夢想をすることはあっても、それがこれだけ早い時期に実現するとは思っていなかったアルフォンヌなのだ。

 顎を引き、前方をにらむ兵士たち、盾と剣だけの軽装で、すべてが歩兵だが、城攻めにおいて不安はない。


「こちらは城壁を壊す手立てもございませぬ。籠城されてはやっかいですから、相手が城門を閉める前に城内まで入り込み、すぐに決着をつけましょう」


 とコンドラートが耳打ちするまま、アルフォンヌはうなずき、まるで自分が発案したかのような気分で兵に命じるのだった。


「われわれの目的はただひとつ、ノウム王国の復古とノウム城の奪還である。そのために諸君らの貴い命を預かり、使うこととなる。しかし正義はわが方にあるのだ。逆賊たるグレアム王国、あるいはその兵が勝利するなど、天が許さぬ。勝利は必ずわれらの手のなかへともたらされるであろう。進め! ノウム王国を逆賊から取り返すのだ!」


 アルフォンヌのちいさな身体には不釣り合いな剣をぶんと振り上げれば、兵士たちの地鳴りのような声、すぐさま行進が開始される。

 三千の兵は土煙を上げ、土塊を蹴り上げ、声もなく繁る草花を蹂躙し、規則的な足音を大地に響かせて進みゆく。

 アルフォンヌはその姿を感動の眼差しで見つめ、自らは馬に乗り、鼓舞するように兵の周囲をぐるぐると回りながら、半年近く暮らした古城をあとにした。

 一路向かうは慣れ親しんだノウム城、そして父と兄と使用人たちと幸せに暮らしていたあの日々である。

 アルフォンヌの幼く濡れた瞳は、それを取り返すことに一切の狐疑なく、そうなった暁の未来さえ見ていた。

 思慮深い重臣たちも、そのアルフォンヌの横顔を見れば、みなぐっと喉を鳴らし、落涙さえするほどで、冷静に反対意見を述べることなどだれにもできなかった。

 大軍にじゃれつくようなアルフォンヌの単騎、コンドラートはその後方で、舞い上がる土煙に潜むよう、わずかに笑っている。

 そこへ軽やかなトロット、アルフォンヌの金髪が風になびき、白い頬に朱が散る。


「コンドラート、この軍勢で、ノウム城まではどの程度かかろうか」

「さほど遠くはありますまい。このまま何事もなければ三日後にはノウム城へ着いて、その日のうちに占領、いや、奪還できるでしょう」

「三日か。たしかに、遠くはないな。いままで待っていた時間に比べれば」


 アルフォンヌはコンドラートに馬を並べ、それからすこし目線を上げて、空を見るような仕草、


「ぼくが無事にノウム城を奪還できたら、父上と兄上も安心して眠ってくださるだろう。逆賊、グレアム王国を討つことができたなら」

「アルフォンヌさまは、ハンスさまの最後をお聞きで?」

「知っている。臣下は隠そうとしていたようだが、グレアム兵の話を盗み聞いていた。兄上は、立派な王子だった」

「そう思われますか」

「兄上は兄上の方法で城を、ノウム王国を守ろうとしたのだ。自らの自刃をもって降伏を申し入れるなど、並の人間にはできまい。そこへきて兄上は、見事にやってのけられた」

「では、グレアムさまの最後は」

「いや――父上のことは、うわさにも聞いていない。知っているか、コンドラート」

「申し訳ございませぬ。そのころ、私はまだノウム王国にはおりませんので」

「ふむ、そうか。まあ、あの父上のことだ、きっと最後まで王として抵抗し、グレアムに一矢報いて果てられたのだろう。父上は王である以上に、誇り高き武人であった」

「アルフォンヌさまもその血を継いでおられます。必ずやグレアムさまのように偉大なる王になりましょう」


 アルフォンヌはわずかにくすぐったいような顔をして、それを隠すため馬の腹を蹴った。

 駆け出した馬の上で巧みに手綱を取るアルフォンヌは、この行軍である種和みのようになって、兵士たちは持てるかぎりの速度でノウム城を目指した。

 アリスと正行がグレアム領内から出ていった、わずかに数日後のことである。



 一方、大陸の南に広がる広大なハルシャ領内の古城で、ロマンはアルフォンヌの出撃を聞いていた。

 報告へやってきたのはまだ若い青年、ロマンはそのときいつものように地図を見下ろしていて、報告を聞いても身じろぎひとつ見せず、蝋人形のように動かなかった。

 そう考えてみれば、青白い頬がぬらりと滑るような質感で、目など磨き抜かれた貴石のよう、本当に人形めいて思えてくるところで。


「陛下――皇帝陛下」


 青年はロマンが自称する肩書きで呼びかける。


「よかったのですか、ノウム反乱に主力軍三千を受け渡して」


 机に置いた一本の蝋燭が揺れるだけの暗い室内、ロマンははじめてじろりと視線を上げて、


「おれの判断が誤りであったと思うのか」

「い、いえ、そのようなことは!」

「なに、怯えることはない。おれは暴君だが、気に食わんといって首を切ることはない。なにしろ大事な首だ、どうせなら有効に使うさ」


 ロマンがにたりと笑えば、首もとにひたと剣を押し当てられるような、ぞくりとくる寒気を感ずる。


「しかしおまえは、三千程度の兵を貸し出して、わが方が不利になると思うのだな」

「いえ、その――」


 青年は答えに窮して視線を彷徨わせたあと、首筋を伝う汗を気にしながら言った。


「大陸の西でガルメニアの攻略にも手間取っております上、さらに大陸中央へと進出しようとしているところ、少数といえど優秀な兵を欠くのはやはり得策ではないかと」

「なるほど、なるほど」


 ロマンはちいさくうなずいて、


「無論、進軍のことを考えるなら、わずか三千であれ兵を失うのは手痛いが、しかしこう考えてはどうだ。それら三千の兵力は、大陸北端にて別の侵攻作戦を実行しているのだと」

「別の侵攻作戦を?」

「アルフォンヌはノウム城奪還、ひいてはグレアム王国打倒を目指している。そのためにわが兵を使っているわけだが、考えようによってはわが兵力がノウム城を落とし、グレアム王国を打倒するといえぬこともない。無論、単なる巧言に過ぎんがな」

「しかし、陛下、お言葉ですが、私にはアルフォンヌ率いる反乱軍がことをなし得るとは思えぬのです。わが兵は強力ですが、それを率いるアルフォンヌは決して経験豊富とは言えぬ、幼い将でありまするがゆえ」

「幼いながら、案外やるかもしれんぞ」


 ロマンはどこか韜晦するような笑みで、それがふと失せたかと思えば、


「まあ、大陸の北で起こっておることはしばらく連中に任せればよい。やがては北端までおれが支配するが、それは最後のお楽しみだ。甘い果物は最後まで取っておく。まずは、その前に立ちふさがるものを排除せねばな」

「立ちふさがるもの?」

「皇国よ。血筋という一点によって人民の上に立つ鼻持ちならん連中を打ち倒してやるのだ。どんな高みに――あるいは地の底にいるのか知らんが、その気がないというのなら無理やりにでも地上に引きずり出してやる」


 言葉に憎しみは込めても、心の底からそう思っているとは考えられぬ、ロマンのにたにたと他者を小ばかにするような笑みなのである。

 ロマンは絶えずそんな笑みを浮かべ、それ以外の感情がないのかと思わせるほどで。

 ロマンのもとで動いている臣下たちでさえ、ロマンが地図をにらむその顔と、にたりと笑った顔しか見たことがない。

 声を荒らげることもなく、ことさら暴力的な態度に出るわけでもなく、残虐非道な暴君といううわさのわりに、ロマンはおとなしい人間であった。


「アルフォンヌが蜂起したとなれば、そろそろわが方も動かねばなるまいな」


 ロマンがゆっくりと椅子から立ち上がれば、存外に小柄なその身体である。

 鍛え抜かれた兵士に比べれば貧相そのもの、中肉中背で特徴がなく、黒い髪を短く刈り込んだ顔にもまたこれといった目立つ部位もないので、ロマンというひとりの人間としては恐ろしいほど没個性的なのだ。

 そのありふれた容姿の男が大陸の南半分を血で染め上げ、不遜にも皇帝を名乗り、いましも領土を広げ続けているとは、だれが想像できるであろう。

 蝋燭を吹き消せば、部屋は暗闇、ロマンの短い歩幅の足音だけが響き、ぱっと扉を開け放った瞬間、まばゆい陽光が差し込んでくる。

 そこは小高い丘の上に立つ古城であった。

 外へ出れば、周囲がぐるりと見渡せるが、その景色を埋めつくすひとの群れ。

 見渡す限りに黒い頭が蠢き、細波のように揺れて、至るところに突き出した旗印、ハルシャの白地に黒の円が翻る。

 いまや数十万に達したハルシャの軍勢である。

 ロマンはそれを見下ろし、編隊完了を報告しにきたそれぞれの軍の指揮官に向かい、静かに命じた。


「皇国へ向けて進軍をはじめろ。途中に点在する国、町はすべて潰して構わん。しかしまずは使者を送り、投降を促せ」

「はっ――進軍開始!」


 野太い声が大軍に響けば、世界の終わりのような咆吼、空気がびりびりと震え、残虐の波が大陸のすべてを飲み込みながら北上を開始した。

 ロマンは両手を後ろに、ぐいと胸を反らせて兵がどろどろと奇妙な生物のように蠢くのを眺めて、ぽつりと独りごちる。


「この速度でいけば、皇国に迫るのはだいたい祭りの前後程度か。ちょうどよい、皇国に集まった王侯貴族をすこし脅しつけてやろう。運がよければ、例の男と相まみえることもあるかもしれん。それとも、どうかな――雲井正行は、自国の防衛に必死で皇国には戻ってこぬか」

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