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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
人魚の島
59/122

人魚の島 6-2

  *


 湾の入り口まで泳いで駆けつけた正行が見たのは、幼い人魚が必死にもがく水しぶきと、それに近寄る不気味な黒い影であった。

 雲の影かと思うほど巨大な黒いもの、十メートルや二十メートルでは足りぬなにものかの影が深い海のなかを動き、幼い人魚にするすると近づいているのだ。

 鯨にしても大きすぎる影が寄るのに、幼い人魚も必死にもがいて湾のなかへ戻ろうとするが、それよりも背後に迫る影のほうが早い。

 とっさに水夫のひとりが湾を飛び出し、泳いで人魚のそばへ寄って抱き上げれば、もう影はほとんど足下で。

 湾へ戻る余裕はないと見た正行、ぱっと左右を見て、


「左の崖にしがみつけ、できるだけ高い位置に!」


 水夫は湾へ飛び込むのを諦めて、そのまま崖に寄った。

 そこへ、水中から黒い影がせり上がり、周囲に大波が立って、一瞬水夫の姿が見えなくなる。

 まさか崖に叩きつけられたのかと見ているなかで、黒い影は周囲に激しくしぶきを立てながら浮かび上がった。

 それがとにかく巨大な海獣なのである。

 表面は薄い灰色、太陽の下でぬらぬらと光り、開けた大口はそのまま町をも飲み込むような大きさ、口内だけがやけに赤く、歯のようなものの代わりに白い骨のようなものが幾筋も見えている。

 その口内にどっと海水が流れ込み、海獣の虚ろな黒い目が空を向いて、口が閉じる。

 しかし浮上の勢いは止まらず、海獣はそのまま頭から崖に衝突し、島全体が地震のようにぐらりと揺れ、湾のなかでも白波が立った。

 湾内の人魚も正行も呆然と見ているしかないような、まるで桁外れに巨大な海獣である。

 海獣はそのまま再び海へ潜ったらしく、しばらく波が荒く立っていたが、それも引くと正行は慌てて湾の外へ出た。


「あ、危ないですよ、正行さん!」


 とフローディアが追ってくるのにも気づかず、湾の外からばっと左の崖を見ると、水面からすこし高い位置、片腕に子どもの人魚を抱いた水夫がしかとしがみついていて、ほっと息をつく。


「よかった――いまので食われたのかと思った」

「いや、ほとんど食われかけてたが、なんとかしがみつくのが間に合った――湾のなかに戻るつもりだったら、そのまま吸い込まれてただろうな」


 屈強な水夫もさすがに肝を冷やしたよう、幼い人魚を正行に預け、急いで安全な湾内へ戻る。

 正行は泣き叫ぶ人魚の背中を叩いてなだめてやりながら、ちらと海を振り返り、どこまで深いのかわからぬ濃紺の色に、はじめて得も言われぬ恐怖を覚えた。

 黒い影は消えていたが、いまも海の底でじっと海面を眺めているかもしれず、それがいつ大口を開けて迫ってくるのか知れぬ。

 海は豊富な惠でもあるが、底知れぬ危険をはらんだものだと、まざまざと思い知らされたのだ。

 湾内へ戻ってくると、幼い人魚の両親らしいのがさっと寄ってきて、正行から子どもを受け取った。

 子どもは母親にしかとしがみついて泣きやまず、正行もまだ心臓が激しく脈打つまま、じっと湾の外をにらんでいる。


「なんだったんだ、いまのは」


 呆然と呟けば、となりの水夫も青ざめた顔で、


「船乗りをやって二十年も経つが、あんな化け物ははじめて見たぜ。あれじゃ、船も一飲みだろう。島でさえ食われかねん」

「このあたりに生息してる生き物なのか?」


 と正行が問えば、フローディアはぶんぶん首を振って、


「あんなの、見たことありません」

「じゃあ、どこかからやってきたのか、それともいままで姿を見せなかっただけなのか――なんにしても、とんでもないでかさだったな。ほんとに船も一飲み――」


 はっと正行と水夫は顔を見合わせ、


「アリス号は無事か?」


 とどちらからともなく囁きあった。

 すぐにもうひとりの水夫も呼んで、様子を見るか、それともすぐにアリス号のもとへ戻るか話し合い、いつでも安全な保証などないということで、ただちに船でもってアリス号へ帰還するという決定が下された。

 いままで陸に揚げていた船を降ろし、そこに三人で乗り込めば、なんとも言えぬ表情の人魚たちが取り囲む。


「いろいろ歓迎を受けて、なにも返せないうちに帰ることになって申し訳ないけど――」


 と正行は船の縁に手をかけるフローディアに言って、


「アリス号が無事かどうか、すぐに確かめないと。場合によってはすぐにアリス号でこの海域を脱することになるかもしれない。そしたら、もうここには戻ってこられないと思うけど……」

「はい、わかってます」


 フローディアはそれでも寂しさを隠しきれていない顔、ほかの人魚も名残惜しげなのと、目の当たりにした怪物に青ざめたのが半々で。

 そのなかでもなんとか助かった子どもの人魚とその両親は船のすぐ近くまで寄って、勇敢にも飛び出していった水夫に何度も礼を言った。

 水夫は、こんなときばかり照れた顔でろくに言葉も返さず、早く行こうというように櫂を振る。


「とにかく、いろいろとお世話になりました」


 正行は人魚全員に頭を下げて、


「あの怪物がいったいなんなのかわかりませんが、みなさんも気をつけて――湾の外へは、なるべく出ないほうがいいでしょう。あの巨体なら湾のなかまでは入ってこられないはずだし」

「しかし、湾の外へ出られないとなれば、いったいわれわれはこれからどうやって暮らせばよいのか……」


 年老いた人魚がぽつりと独りごち、正行もようやくそのことに思い当たる。

 外の怪物が恐ろしいからといって、湾のなかに閉じこもっていては食料が足りないのだ。

 しかしこればかりはどうしようもない問題と、首を振って、年老いた人魚はため息をついている。

 正行はじっとうつむいて考え込み、水夫ふたりはその背中を見つめていたが、ふたりしてちいさく息をつき、


「別に、おれたちはいいと思うぜ」

「え?」


 と振り返った正行、水夫たちは明るく笑って、


「ここの人魚たちをなんとか助けてやりたいって思ってるんだろ? まあ、そりゃ、あんな怪物相手になにができるのかわからねえが、その気持ちだけはおれたちにもある。危険でも、おまえさんがなにか思いつくなら、それをやってみようじゃねえか。なあ?」

「ああ、どうせおれたちは身体を動かすだけ、大した考えも出てこねえ。助けたくても、それができねえんだ。でもおまえさんならできるかもしれねえんだから、やってみる価値はある」

「でも――こんな言い方をするのはあれだけど、おれたちには関係ない問題だろ」


 正行はぽつりと言ったあと、自己嫌悪に目を伏せるが、ふたりの水夫は打ち合わせたように正行の背中をばしんとやって、


「いっしょに笑い合えば関係ないもなにもねえだろうが」

「本当に関係ねえと思うなら、おれだってわざわざあんな化け物に近づいて子どもひとり助けたりしねえよ。あとはおまえさんが覚悟を決めるだけだ」

「覚悟?」

「自分の正義を貫く覚悟さ。たしかにこのままこの島を離れれば、おれたちは無事かもしれねえ。でも、おれたちを危険にしてでも自分が正義と思うことを遂行しなきゃなんねえこともある。それじゃあ軍師も務まらねえぜ」

「――なんだ、好き放題だな」


 と正行は薄く笑って、それからすこしまじめ顔、水夫ふたりをじっと見つめる。


「じゃあ、いいんだな。おれは自分が信じたことをやる。立場的に、ふたりはおれに逆らえないんだ。おれがやれといったことをやるしかない。まあ、下克上だっていうなら、話は別だけど」

「それも楽しそうだけどな」


 と水夫はにやりで。


「ともかく、いまは目的が一致してるんだ。その必要もねえさ」

「そうか――じゃ、ひとつ怪物退治といきますか」


 正行が言えば、人魚たちはどよめいて、


「あ、あんな怪物を退治なんてできるのか?」

「とても無理だ、どれだけ大きいのかもわからないのに」

「実際に退治できるかどうかはわからないけど、それに向けて考えてみることまで諦めなくてもいいはずだ。とりあえずこっちの戦力を確認しなきゃな」


 いままで海に怖がり、明るくけらけらと笑っていた正行は、もうすっかり軍師らしい顔、フローディアが話しかけるのをためらうほど厳しく眉根を寄せて考え込む。


「アリス号が無事だとして、船員が四十弱。それからアリス号とちいさな船が十数艇か。それであの化け物に立ち向かうには、ちょっとむずかしいな」


 正行はちらと湾の外を眺めた。

 その瞬間、例のあまりに巨大な黒い影が水面でゆらりと歪んで、また深い海の底へ沈んでゆく。

 怪物はどうやらそこで餌を待つことに決めたらしいのである。

 人魚たちが恐ろしい怪物の影に怯えた表情を見せ、正行はさっとそれを見回した。


「見てのとおり、どうもあいつはしばらく居座るつもりらしい。できればあなたたちの力も借りたいんです。人魚は、すばやく泳ぐということ以外になにができますか」

「なにがといっても――」


 互いに顔を見合わせ、人魚たちは困ったように首をかしげる。

 どうやら二百あまりいる人魚たちには、これといった代表者がいるわけでもなく、緩い集合体として生きているらしい。

 普段の生活ならそれでもよいが、このような場合ではむしろ決定が鈍る、と正行が心中で嘆息するうち、船の縁に手をかけているフローディアがきっと顔を上げて、


「水を操る魔法なら、すこし。でも、あれだけ大きい相手にどれだけ効果があるかはわかりませんけど」

「水を操る魔法か――いや、うまくいけば、使えるかもしれないな。じゃあ、このうちで、あの怪物と戦おうってひとは?」


 正行はぐるりとあたりを見回したが、穏やかな海から顔だけを出している人魚たち、ためらうようで、なかなか手が上がらぬ様子。

 人間ならまず若い男が志願するだろうが、人魚ではそのような社会通念もないらしく、屈強な肉体を持つ若い人魚たちでさえ眉を歪ませて困り顔。

 いつかフローディアが言っていた、人魚には性差があまりないというのも関係しているのかもしれぬ。

 それでも正行が強い視線で眺めるうち、ぽつりぽつりと手が上がりはじめた。

 二百あまりいる人魚のうち、志願したのは三十ほどで、充分な戦力とは言えまいが。


「――これも、仕方ないか」


 一国の軍師として、戦力がもっとあれば、と望むことは当然だが、まさか無限の戦力があるわけでもなし、与えられた戦力で最良の結果を出すものが優れた軍師と呼ばれるのである。

 正行は人間四十、人魚三十の戦力でなにができるかと必死に頭を巡らせて、それがどうやらむずかしい顔をしていたらしい、すでに戦闘を志願して腕を上げていたフローディアがくるりと反転し、ほかの人魚たちを見やって、

「みんな、戦いましょう! 本当なら、これはわたしたちの問題のはずです。それを人間である彼らが手助けしてくれるというのです。どうして戦いもせず、ここで人間たちが戦う様子を見ていられるのですか。まずはわたしたちが戦わなければ」

 強い感情がこみ上げてくるのか、フローディアが目を潤ませて、仲間の人魚たちを見回した。

 それに心を打たれたのか、三十あまりの志願者が、二百近くにまで跳ね上がる。

 なかには老人や子どももいて、全員が全員役立つというわけでもないが、正行は人魚がフローディアを中心に一丸となるのを見て、満足げにうなずいた。


「人間と人魚が協力すれば、できないことはないはずです。あの怪物を倒すことだって、きっとできる。がんばりましょう」


 正行は胸を張り、堂々と言ってのけ、どんな状況にあっても決して気後れせぬのがひとの上に立つ人間の特性だと、水夫ふたりは感心したようにうなずいた。

 しかし正行の頭のなかは、もう二百弱の人魚を用いた作戦の発案に動いている。

 じっと一点を見つめて考え込んだのは、ほんの数秒、やがてその薄い唇がぽつりと。


「あとは向こう側の人間たちに協力してもらわないとな――」


 そしてその困難さを思い出し、だれにも気づかれず、ちいさく眉をひそめるのだった。



 彼はかつて、人間たちに恐れられた三体の怪物の一体であった。

 うち一体は、大陸の北の山を寝床にしているという姿なき巨大な怪鳥。

 うち一体は、大陸の地下深くに眠り、身じろぎひとつで地上には激しい地震が起こり、山が崩れ地が割れるという原始の蛇。

 そして彼、広い大洋に生息し、島ひとつを飲み込むとさえされる巨大な海獣である。

 無論、彼は自分がそのように人間たちから恐怖され、伝説と呼ばれる存在であることを知らぬし、それ以外のこともなにも知らぬ。

 島かと見間違うほどの巨体には知性というものがわずかしかなく、感ずることといえば空腹、そして満腹である。

 彼は日ごろ、深い海の底に暮らしているが、腹が減れば海面まで浮上し、魚やほかの海獣を食べ、ときには海中で大口を開け、水面を走る人間の船を丸呑みする。

 そうして腹を満たせば、また人知れぬ海の闇のなかへ戻っていく彼だが、近ごろ彼の腹を満たすような獲物がすくなく、空腹にのみ導かれて彷徨ううち、温暖な海のとある島にたどり着いたのだ。

 その海は、彼にとってはすこし温かすぎて動きが鈍るが、豊富な栄養を持つ餌がいくつか生息しているようだった。

 彼はまず島の周囲をぐるりと回り、いくつか船らしいものを見つけたが、それよりも水面でぱしゃぱしゃと跳ねている水しぶきが気になって、それを捕食するために海面近くへ浮上した。

 彼にとって生きることとは腹を満たすことであり、つまりなにかを捕食することなのである。

 その獲物はなぜだかうまく取り逃してしまった彼だが、今一度浅い海に潜み、無防備なる獲物が現れるのを身じろぎしながら待っていた。

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