古き日の後始末 1-1
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秋の、薄ぼんやりと霞んだようなやわい光を浴びて、ずっしりと実をつけた稲穂が揃って頭を垂れていたのも、早二ヶ月近く前のこと。
日差しはいまやすっかり冬の色、清澄と爽やかで、朝晩はきんと冷え、吐く息も白く色づけば、あれほど隆盛を誇っていた虫どもも鳴りをひそめて、道をゆくにも、二ヶ月前よりくたびれたような馬車の四輪ががたがたと鳴るばかり、音に驚いて飛び出す飛蝗もなく、道端に横たわる蛇もおらず。
馬車の前後に、一頭ずつの馬、踏み固められた街道に土塊も巻き上げず、グレアム王国の誇る工業のひとつでもある硬い馬蹄を高々と鳴らせば、馬の鼻息も荒く首を上下に振っている。
街道の左右は、いまではすっかり刈り取られて乾いた土が露出している稲畑、揺れる稲穂もないのだから、そこに潜む昆虫や動物がいるはずもない。
街道沿いの畦には茶色く枯れたような葉が茂り、傍らを流れる水路にはいまだ魚の姿、馬が近づくと、響く足音にさっと水面を逃げてゆく。
幸い、天気もよく、日差しはかっと強いが、浴びる背は温かくとも、陰る前面は肌寒く、北の空に黒い雲がもくもくと立ちこめて、雪の心配すらはじめる季節。
城を出た二ヶ月前とは風景が一変していても、やはり帰ってきたのだと感じるのは、街道沿いに点々とある民家である。
行きに手を振った幼子が、見間違いがほんのすこし大きくなったよう、無邪気だった顔に恥じらいを浮かべ、ちいさく手を振るのに、馬上の雲井正行は二ヶ月前と変わらぬ様子で手を振るのだった。
その正行も、この二ヶ月でほんのすこし体つきが大きくなったようである。
欠かさずしていた剣の訓練のためか、日々食料を求めて野生動物と格闘したせいか、ともかく馬上にてすっと背筋を伸ばす姿もさまになり、若い顔も薄く日に焼けて、どちらかといえば線の細い、繊細な顔立ちだったのが、精悍な男の顔になっている。
一方、馬車のなかのアリスは、この長旅に多少くたびれたよう、黒髪がさっとかかる青白い額に、あるいは濃いまつげの飾る目元に疲れの色は隠せぬが、これといった病は抱えずここまで戻ってきて、刈り取られた畑を眺めるのに、瞳はすっかり輝きを取り戻している。
そのとなり、あろうことか王女の肩にこつんと頭を置いて居眠りする侍女のクレアは、旅の途中では髪をまとめることもやめていて、アリスと同程度の長さの髪、しかしアリスとちがってすこし波打っているのが、肩にしっとりとかかり、結い上げるよりも幼い顔立ちに見せていた。
「城を出たのも、たしかよく晴れた日だったな」
馬車の窓にさっと陰が差し、見れば、馬の立派な筋肉と、正行の足だけが窓の外に見えている。
アリスが顔を出して見上げれば、透明な光を背に浴びて、
「晴れで出かけて、晴れで帰ってきて、途中には雨も降ったけど、結局はいい旅行だったかな」
「同盟も、きちんとできましたし」
とアリスが笑えば、窓から出した横顔にさっと光が当たって美しく。
馬車のなかでは、枕を失ったクレアが船を漕ぎ、かくんと首が揺れるのに驚いて目を覚ましている。
「王さまにも、いい報告ができそうだ」
正行はちょっと笑って、腰に下げた剣の鞘、きんと揺れて馬の背に当たる。
「そろそろノウム城が見えてくるころですよ」
御者台に座る兵士が言うのに、轅を引く二頭の馬は勇気づけられたようにいななきひとつ、途中、一度壊れて修復した四輪を転がし、ぐいぐいと進んでゆく。
がらがらと音を立てて街道をゆくのに、左手にはまた懐かしい民家、傍らに大きな水車を擁する家で、馬車の音に気づいて顔を出した一家が、王女の馬車をじっと見ている。
このあたりはすでに旧ノウム王国の領地、いまではグレアム王国の領地になっているが、名前以外に変わるものはなにもなく、グレアム王国に対して複雑な感情を持っている人間もすくなくはない。
アリスは、それも承知していながら、じっと見つめられる視線にも手を振る。
白い指がひらめき、細められた目が見つめれば、手を振られたほうは驚いたよう、目を見開いてそのまま見送るのもあれば、胸の前でちいさく手を振り返してくれることもあり、そういうときは民家が充分去ってから、アリスは正行を見上げ、正行もアリスを見ていて、どちらともなく笑い合うのである。
そんな一行のゆく街道、平原のなかをかすかに曲がりくねり、大蛇のように這うのが、行きは稲穂に隠れて見えなかったが、帰りはずいぶんと先まで見渡せる。
馬車が街道にぐっと浮き出した石を踏み、なかでクレアとアリスが抱き合うように飛び跳ねて、悲鳴やら笑い声やら、冷たい冬の風に乗って消えるころ、ようやく前方にうずくまった巨人の陰が見えてくる。
正行は馬上で目を細め、そのはるかに霞むノウム城に思いを馳せて、
「久しぶりだなあ、ほんとに――人生のなかで、これだけ長い旅なんかしたことないもんなあ」
独りごちれば、馬車から顔を出すアリス、
「そうなのですか、正行さま?」
「うん、おれの住んでた世界では、二ヶ月も家を離れることなんて滅多にないんだよ。まず学校があるし」
「学校――子どもたちが、いろんなことを学ぶ場所ですね」
とアリス、道中の慰みとして正行が住んでいた世界のことを聞いて、多少は詳しくなっている。
「学校を休んで二ヶ月も旅行するようなやつはさすがにいなかったよ。親の夏休みに合わせて九月に一週間くらい休んで海外へ行くやつはいたけど」
呟く正行の目は、過去を見つめるでもなく、懐かしむというよりは夢を見るような声色で。
「ノウム城にはそれほど長くいたわけじゃないけど、こうやって見るとやっぱり帰ってきたって感じがするな」
馬が呼応するようにいななけば、正行は苦笑いで硬いたてがみを撫で、
「おまえも、早く帰りたいか。いままで山道ばっかりできつかったもんなあ。もうちょっとがんばってくれよ。帰ったらうまいもん腹いっぱい食えるだろうからな」
話すあいだにも、前方のノウム城がすこしずつ近づいて。
透き通るような青空を白い雲がさっと横切り、ほんの一瞬太陽を覆い隠せば、広々とした野原、雲の陰がするすると走って、一行の背中を捉えれば、ひやりと肌寒い気配。
正行がさっと見上げるあいだに雲は退き、また日が差して、しかしさらに北からの巨大な黒い雲も着実に近づいている。
「今年は厳しい冬になりそうですな」
御者台の兵士がぽつりという言葉、妙に実感がこもって、正行はうなずいた。
「このへんは、結構雪が降るのか?」
「そりゃあ、降りますとも」
兵士は手綱を持つ手をさっと天に掲げて、
「冬のあいだは、このあたりもすべてまっ白、街道さえも見えなくなって、交通も非常にむずかしくなります。ですから、それまでに冬のあいだの食料や木材を溜めておいて、冬はほとんど城内、あるいは家から出ないというのがこの地方の冬なのです。大陸でももっと南へゆけばそうでもないのですが」
「へえ、そうなのか。じゃあ、山のなかのエゼラブルなんかは、もう雪が降ってるかもな」
「あのあたりも雪が深いことで有名ですからねえ。まあ、エゼラブル王国は魔女の国、雪などもろともしないといううわさもありますがね」
「魔女か、たしかに」
「そういえば、正行さま」
と兵士、後目で見る口元もにやりとして、声をひそめるように。
「エゼラブルの王女さま、ロゼッタさまとも、仲良くなられたようで」
「仲良くっていうのかな、あれは」
正行は頭を掻いて、
「一方的に連れ回されただけのような気もするけど」
「しかしそれが同盟の成立にも大きく寄与したのは間違いありません。それに、仲良くなければ、秘宝を送ったりはしないでしょう」
「ああ、あの水晶か。あれもなんだか悪い気はしたんだけど、どうしてもって言うからさ。ベンノのじいさんがよろこびそうだしな」
「かもしれませんな。ベンノさまは古今東西の知を極めて、なお学習を怠らぬ方、他国の秘宝ともあれば落涙しておよろこびになりましょう」
「うーん、美人の涙ならともかく、じいさんの涙は見たくないな」
「はっはっは、同感ですなあ」
かぽかぽと気楽な音の馬蹄で、気づけばノウム城はすぐ近く、視界を覆い隠すように高い城壁が天へ伸び、その奥にはさらに細長い尖塔もあって、先端ではグレアム王国の国旗が北風にはためいている。
ノウム城は城下町から城へ向かって大きく傾斜しているのが特徴で、馬車のたぐいはその傾斜を上下できぬため、城の外に厩舎と馬車を収める小屋があり、城門前で馬車を止めた。
開いた扉からクレアが先に降り、さっと出した手に軽く自分の手を重ねながらアリスが降りて、くっと伸びをして細めた目も愛らしく、白い裳裾が風に揺れる。
正行も馬から下り、手綱を引きながら厩舎へと導いて、ご苦労さんと目のまわりを撫でてやり、世話係に引き渡した。
無人の馬車も、そのままがらがらと小屋へ運び込まれ、これから整備と修理、任された背の低い痩せた男は腕まくりで気合いを入れる。
アリスは白い手を庇に、ノウム城をぐっと見上げるが、瞳に浮かぶかすかな悲しみと不安は病を抱える父のためにちがいない。
門前を守る兵士は最上敬礼でアリスを迎え、巨大な城門がゆっくりと押し開かれる。
正行はアリスの斜め後ろ、開く門ではなく、その手前の地面に視線を落とすのは、もう半年近く前のことになる、ノウム王国の王子が自刃した場所であった。
この冬には、その場所にも白い雪が降り積もり、あらゆる景色が変わってゆくのだろう。
そしてまた冬が訪れ、小鳥が餌をついばむころには、記憶もすこし色褪せているにちがいない。
堅固な城門があちこち軋みながら開かれ、その向こう側、城下町の住人が驚いた顔で見守るなか、アリスは堂々とノウム城に帰還を果たした。
続く正行や兵士たちもきっと顔を上げ、この国の士として志高く、しかし久しく見なかった遊び相手を見つけた子どもが正行に駆け寄ってくるのにはついつい笑顔で。
「どこ行ってたの、正行さま。王女さまとデート?」
と正行の足に抱きつく子どもが言うのに、アリスはさっと顔を赤らめ、正行は苦笑いで、
「おお、どこでそんな言葉覚えたんだ。残念だけど、デートじゃないんだよ。またあとで遊ぼうな。おれ、これから城に戻って王さまに報告しなきゃいけないからさ」
「うん、わかった。じゃあ、あとでね!」
と幼い声が手を振りながら去ってゆけば、アリスはそれをうれしげに眺めて、
「子どもはいつでも元気ですね」
「大人をからかうくらいにな」
「まあ――」
「わしらから見れば、おふたりとも子どものようなものですよ」
と後ろの兵士が笑うのに、ちがいないと正行も笑って、一行は城下町の傾斜をゆっくりと上がっていく。
勾配がきつくなれば、クレアがアリスの手を握り導いて、それを見て声をかけてくるのは大抵グレアム城から移住した住人たち、もとからノウム城に住んでいる住人たちとはやはり埋まらぬ距離がある。
並ぶ家々も、そろそろ冬支度を済ませようというころで、窓の鎧戸も閉まり、早暖炉の煙突からもくもくと雲を吐く家があり、道行く商売人も荷台いっぱいに薪を載せている。
服もまた毛羽立った分厚い布を纏って、女たちは着ぶくれした身体、頭は白い飾りつきの髪留めでぐいと結い上げている。
昼前の、ちょうど忙しい時間帯、洗濯物を満載した籠を抱き、通り沿いに干す母親の裳裾をきゅっと掴む幼子は、グレアムもノウムもまだ知らぬ年、好奇心にくるくると動く目で一行を見つめた。
それに応えるか否か、一行が城の前へ着くと、待ち構えていた兵士たちが敬礼とともに門を開いて、ちょうどよい止まり木と休んでいた何羽かの鳥が一斉に飛び立った。
その行方を見ながら、正行は門をくぐり、ノウム城のなかへと進む。
門をくぐった先の広間で、アリスはくるりと踵を返し、付き従う兵士たちをひとりひとり丁寧に見て、
「長い旅の道中も無事に過ごし、こうして城へ戻ってこられたのはみなさまのおかげです。ご苦労さまでした」
と丁寧に頭を下げた。
兵士ふたりは敬礼で、正行は照れた笑顔、アリスはとなりのクレアもちらと見て、
「あなたも、いろいろとありがとね」
「わ、わたしはなんにもしてませんから!」
とクレアが慌てて恐懼するのに笑顔で、アリスは兵士に向き直り、
「では、兵士の方々はお休みになってください。正行さまは、申し訳ありませんけど、父への報告にお付き合いくださいますか」
「もちろん。ただの付き添いではあるけど、責任もあるし」
兵士ふたり、それにクレアはその場でそれぞれ自分の部屋へと戻り、長旅の疲れを癒すのに、アリスと正行はふたりで肩を並べ、王の待つ寝室へ向かう。
途中ふと正行が、あっと気づいたように足を緩めれば、アリスは不思議そうに振り返って、
「どうかなさいました?」
「いや、仮にも王女のとなりを歩いちゃいけないなと思ってさ」
正行はいまさらのように頭を掻いて、
「おれ、どうもそういうの忘れがちなんだけど、ここで暮らしてる以上はちゃんとしないとな。アリスは気にせず、先に行ってくれ」
と殊勝に言うが、アリスはむっと怒ったような顔、唇を尖らせ、ぷいとそっぽを向けば、その横顔さえも美しいのだが、正行は戸惑った顔で。
「なんだよ、一臣下が王女と並んで歩くのはおかしいだろ?」
「それなら、言葉遣いも改めないといけませんわ」
アリスは怒ったように言ったあと、ちょっと慌てたように首を振って、
「うそです、正行さまはそんなこと気にしなくてもいいんです。わたしのことは王女として考えないでください」
「そういうわけにもいかないよ。おれもこの国の人間なんだし」
「むう……でも、みんながみんなわたしのとなりを歩いてくれないんじゃ、寂しいじゃないですか」
「そのうちとなりを歩いてくれるひとが出てくるよ。アリスくらい美人だったら、引く手あまただろ。いまはまあ、国の状況からしてむずかしいかもしれないけど、落ち着きさえすれば――」
「もう、正行さまったら、そういうことじゃありません」
アリスは足音も荒らかに歩き出し、追う正行はどこで怒らせたのかわからぬ顔、小首をかしげ、ただ二歩ほど後ろをついていく足音がまた、アリスの機嫌を損ね続ける。
王の寝室は、迷路のようなノウム城の奥にあって、そこへ辿り着くまで、いくつもちいさな部屋を越えねばならないが、アリスの白い指先が把手に戸惑っているうち、臣下らしく気を効かせた正行がさっと近づいて後ろから扉を開け、どうぞ、としかつめらしい顔でアリスを先に行かせれば、アリスはほんのりと赤い頬をぷいと逸らし、つかつか部屋の奥へ。
途中、アリスが怒ったように扉を開けば、そのすぐ向こうに偶然フードを被ったベンノが立っていて、ぬっと立つ黒ずくめの姿にアリスはちいさく悲鳴を上げた。
それで背を向けていたベンノも気づき、くるりと振り返って、皺の深い顔にぱっと明るい色が差し、
「おお、無事にお帰りになられましたか、アリスさま。それに正行殿も」
「久しぶり、じいさん」
と胸元に下げた貴石を握りしめて驚くアリスの後ろ、正行はひょいと手を挙げ、
「これから王さまのところに報告へ行くんだけど、いまからでも大丈夫かな」
「うむ、ちょうどいま起きておられるところなのだ。報告するならいまがよかろう。さ、アリスさまもお疲れでしょうから、報告を済ませてお休みくだされ」
「は、はあ、ベンノさま……」
アリスはまだどきどきと驚きの余韻残る胸、きゅっと押さえるようにしながら部屋の奥へ進み、自然とベンノは正行のとなりへきて、アリスをはばかるわけでもないだろうが、ちいさな声で、
「して、どうだった」
「同盟のことは、なんとかうまくいったよ」
「そうか、それはよかった」
ベンノはほっと胸を撫で下ろす様子、よほど心配していたらしいと正行はちいさな老体を見下ろして、
「あんまり心配すると、また禿げ――身体に障るぞ。じいさんも若くないんだから」
「いまなにか言いかけたの」
「気のせいだって。あ、そうだ、じいさんにいいものを持って帰ってきたんだ。クレアに預けてあるから、あとで王さまにも見せることになるけど、エゼラブルに伝わる秘宝ってやつをもらってきてさ。水晶なんだけど、魔法の力に反応するらしいんだ」
「ほう、秘宝とな」
深い皺の奥、ベンノの目がきらと輝き、
「それはあとで見せてもらわねばならぬの。しかし、そのような秘宝をよくぞもらい受けたの」
「友好の証かな? おれもエゼラブルにとって大事なものだから、遠慮はしたんだけど、女王はそんなもんいらないっていうし、王女はぜひっていうからさ」
「ふむ、そこまで言われたなら断るのも礼儀知らず、それもよかろう」
またひとつ部屋を抜けながら、正行は今度こそアリスをはばかるような小声で、
「こっちには、なにか変わりは?」
「うむ……」
とうなずくベンノもまた、アリスの背中をちらと見て、表情を曇らせる。
「王の容体は、依然予断を許さぬ。いや――悪化する一方といってもよい。南方の薬が効果的と取り寄せたが、病深く、もはやいかなる薬も効きはせん。この二ヶ月で、さらに痩せられた。もはや立ち上がる力も残っておられまい」
「そうか――どうしたものかな」
正行は視線を足下へ、よく磨かれた大理石の床には、ぼんやりとした人影が反射している。
「正直なところ、保って何ヶ月だと思う」
「さて――春までは、保つまい。いや、雪を見られるかどうかもわからぬ。せめてゆっくりと身体を休めれば寿命も多少延びようが、王自身がそれを許さんのだ。最期の瞬間まで王を全うするおつもりであろう。ならば、ロベルトやアントン以下武官文官問わず、王を支えるしかあるまい」
「そうだな……おれも、できるだけのことはしよう」
「うむ、しかしおまえさんは――」
とベンノが言いかけたとき、ちょうど三人は王の寝室へ辿り着いている。
ベンノは口を噤み、アリスは扉を叩いて、
「お父さま、アリスです。エゼラブル王国から帰って参りました」
「おう、よく帰った」
扉の奥から帰ってくる声も弱々しく、ひどくかすれた老人のような声色で。
アリスの表情にさっと陰が差したのも一瞬で、扉を開けたころには、父を心配させぬため、笑顔になって。
「お父さま、お久しぶりでございます」
頭を下げれば、ベッドの上、骸骨のような男がどんよりと澱んだ目でアリスを見て、
「久しいな、アリス」
とだけ言った。
ベッドの横に陣取る女中が場所を明け渡すと、絨毯の上を白い裳裾が走って、ふわりと傍らに腰を降ろした。
分厚い布団の上へ投げ出された手は、異様に骨が目立ち、指は長細く骨格標本のよう、肌は病人独特の浅黒いような色に染まって、アリスの白く若い手が握っても、それを握り返す指の弱々しさ、赤子よりもわずかな力なのである。
正行は部屋の入り口に立ち、王の姿に愕然として、そこからは一歩も前に進めないらしい、それでも笑顔のアリスが余計に切なく。
「同盟は、どうなった」
と病に老いたる王が問うのに、見た目はベンノよりもはるかに年長のよう、この城へきたころはまだ全身から放たれる威厳で他を圧倒していたのが、いまではそれもほとんど失せている。
それほどまでに病んでも、王が気にするのはなによりも国のこと、娘の健康よりも先に問う。
「エゼラブル王国、並びにオブゼンタル王国との同盟は、無事に締結いたしました」
「そうか――」
肺の底から澱んだ空気を吐き出すような、王は薄く目を閉じて、
「これでセントラムを攻める手立ても立つ」
「せ、セントラムを攻める?」
驚いたように声を上げ、身を乗り出した正行に、王はようやく気づいたよう、わずかに目蓋を開けて正行をちらり、
「正行か。そなたもよくやってくれた。しかしまた新たに仕事を頼まねばならん。やってくれるか」
「せ、セントラムを攻めるというのは、本当ですか」
正行は王を見て、それから背後のベンノを振り返ったが、ベンノは目を伏せてゆっくりとフードの奥の頭を振った。
「どうしていま、セントラムを。向こうが攻めてくる気配でも?」
「いや、向こうからあえて攻めてくることはあるまいが、攻められたときにはもう遅いのだ。憂いはすべて排除しておかねばならん」
王は咳込むように息を吐き、慌てて女中が寄るが、ゆっくりとした仕草でそれを制して、正行をじっと見つめる。
わずかに焦点が定まらぬようなその視線、黒い瞳も濁った灰色のように澱んで、以前のようにきらと輝く剣呑な光はないが、代わりに薄闇でほのかに輝く命の光が見え隠れしている。
見つめられればどきりとして、正行はその場に立ちすくんだが、王はぽつりと、
「古き憂いはおれの代で絶っておかねばならん……でなければ、死ぬに死ねん。正行よ。そなたはベンノやアントン、ロベルトと協力し、セントラムを攻め落とす手立てを考えてくれ。これがおれの最期の仕事となろう」
「お父さま……」
いままで堪えていたものがわっと弾けたようにアリスは涙し、再現なく溢れる涙が頬を伝って王の手に落ちるが、その涙で潤すことももはやできぬほど王の手は乾き、生気を失っていた。
王はじっと正行を見つめている。
正行はごくりと唾を呑み、うなずいた。
「できるだけ、がんばってみます」
「うむ、頼んだぞ。雪が降り出すまでに、どうにか――」
苦しげに眉をひそめたかと思えば、ぐっと身体を折り曲げて咳をするその割れた唇、じわりと血が浮かび、布団の上に紅の雫が涙のように落ちて染みゆく。
女中が背中をさすり、さっと正行のほうを見た。
正行は一瞬アリスに目をやって、それから逃げるように王の寝室を出た。
ぎいと軋んで閉まった扉を振り返れば、その細長いのが、まるで棺の蓋のようなのである。




