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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
秘宝と王女と大鳥と
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秘宝と王女と大鳥と 5-2

  *


 後ろ手にぐいと手首を押さえられ、囚人のようにうなだれて歩く正行のとなり、ロゼッタは胸を張って毅然たる姿勢。


「なんで、のこのこ出てきたんだよ」


 と正行が小声で言えば、ロゼッタは拗ねたように唇を尖らせて、


「だって正行くん、危なかったじゃん」

「おれのことは放っといてもよかったんだよ」


 正行も正行で、心持ち怒ったような口調で。


「おれはグレアム王国の人間だぞ。おれのせいでロゼッタが怪我でもしたら、とんでもない問題になる。そういうときは見捨てるのが正解なんだ。おれよりロゼッタのほうが大事なんだから。王女として、そういうことも覚悟しなきゃいけないんだよ」


 ばっと正行を振り返ったロゼッタの目には、きらと美しい涙、拭おうにもロゼッタの手は背中に回され、長身痩躯の兵士に押さえられている。


「あたしは、王女じゃないもん」


 つつと涙が頬を伝えば、気丈に振る舞うも声は震えて。


「さっきみたいなことがまた起こったとしたら、きっとあたしはまた正行くんを優先すると思う。王女とか、国とか、そんなこと関係ないじゃん。友だちが危ない目に遭ってたら、助けるのが普通じゃないの?」

「それは、そうだけど」


 と正行も罪悪感を覚えるような顔、歯切れも悪く、


「ときには、目の前で死んでいく人間を見捨てることもある。そういう世界なんだよ、ここは」

「ちがうよ」


 ロゼッタは断固として、


「絶対に、ちがう。そんな世界じゃない。もっとやさしくて、温かい世界のはずだもん。もしそうじゃないなら、あたしがそんな世界にしてみせる。他人を見捨てなきゃいけない世界なんておかしいじゃん」

「理想は、そりゃだれも見捨てないで、だれも傷つかないのがいちばんだ。でも理想ばっかり見てたんじゃ目の前のことが見えなくなる。もしあそこでおれを見捨ててたら、すくなくとも捕まるのはおれひとりで済んだはずだ」

「正行くんだけが捕まって、あたしひとりでこの森のなかを彷徨うの?」

「ロゼッタなら無事に城まで戻れるだろ」

「そんなことない。正行くんは、あたしのこと、ぜんぜんわかってない」

「わかるわけないだろ。おれは、おれのことしかわかんねえよ」


 と正行が苛立ったように言えば、ロゼッタはまたぽろぽろと落涙して、先ほどまでの立派な態度もどこへ言ったのか、うつむいて、しくしくと声を漏らす。

 正行もため息をついて首を振り振り、森のなかを行くのに、先行する兵士、ゲオルクが振り返って、


「けんかするのもいいが、道はこれで合ってるんだろうな。道案内だけはちゃんとやってもらわなきゃ困る」

「合ってる!」


 ロゼッタが自棄のように叫べば、ゲオルクは肩をすくめ、


「気が強い女王さまだ。女はやっぱり、もうすこしおしとやかでないとな」


 とぶつぶつ、短剣を振り回して道を開く。

 五人組になった一行、ロゼッタが導くとおりに森を進んで、早一時間ほど。

 周囲の景色には変化はないが、すこし前から光がちらちらと漏れるようになってきて、どうやら木々の密集がほんのすこしずつすくなくなっているらしいのである。

 時間は昼前か、白い木洩れ日ははっと立ち止まるほど美しく、また神々しい。

 それが木の幹を照らせば、いままで深い茶色に細部も沈んでいたのか、にわかにわずかなささくれや樹液の黄金色、そこに群がる玉虫の虹色が鮮やかに切り取られ、大きな葉も濃い緑のなかにも爽やかな輝き、葉脈が透けて見え、葉の裏から覗けば、蟻かなにかが葉の上をもぞもぞと這う影もはっきりと。

 地面へ落ちた茶色く枯れた葉もまた光のなかに蘇り、はたと立ち止まってみれば、この森はあらゆるところに生命があって、森全体が生きているのだと思い知らされる。

 ゲオルクも自然の大きな営みには感じるところがある様子、いままで遠慮なく短剣で切り裂いていたのが、できるだけ手でかき分けるようになり、白刃がきらと輝くのはどうしても手では進めぬ蔦を裂くときだけ。

 ようやく涙を止めたロゼッタは、ゲオルクの背中をじっと見つめて、


「あなたたち、オブゼンタル王国の兵士ね」

「さあ、どうかな」


 ゲオルクはちらと振り返り、嘲笑めいた笑みひとつ、


「そうだとしたら、王女さまはどうするんだ」

「どうしてオブゼンタル王国の兵士が、秘宝を探しているの。あれはエゼラブル王国の秘宝、あなたたちが見つけ出しても意味はないと思うけど」

「秘宝そのものは、おれたちにはどうでもいいことだ。ただ、王女さまも秘宝にまつわる伝説は知っているだろう。あれは、強い魔法を支える秘宝だと」

「だからエゼラブル王国には優秀な魔法使いが生まれる――でも、そんなのただの伝説かもしれないわ。秘宝なんて、本当はないかも」

「いや、ある」


 とゲオルクは断言するに、


「おれはこの森に入って、その存在を確信した。なにもなしにこんな森が形勢されるわけはない。おそらく秘宝の魔法が影響しているんだろう。エゼラブル城をこの近くに作るのは、洩れてくる魔法を得るという理由もあるはずだ」

「――もし、秘宝が魔法に関係するものだとして、魔法の使えないあなたたちが得ても仕方のないものじゃないの?」

「さてね、そのあたりはこっちにもいろいろあるのさ。ちなみにおれたちのことはさすらいの兵士三人衆とでも思ってくれ。どこの兵士か、なんの目的か、聞かぬほうが身のためだ」


 がさがさと腐葉土を進む足音、五つ分が響けば、臆病な獣は出くわす前にそそくさと逃げていく。

 光がまばらに差すなかで、ちょうど頭上からきらきらと木洩れ日降る木々のすき間、ロゼッタがふと立ち止まり、


「そろそろ疲れたわ。休憩しましょう」


 と言い出す。

 ゲオルクは振り返って目を細め、


「いま、自分がどういう状況かわかっていないのか。それとも天性のわがままか。秘宝の場所まで、日が暮れるまでに到達したい。休んでいるひまはないぞ」

「森もずいぶん奥まできて、もう一時間くらいで着くわ。ちょっとくらい休んでも平気でしょ」


 ロゼッタが薄い唇を尖らせれば、なんとなくそのわがままが許されるような、のんびりとした雰囲気になって、ゲオルクはちょっと肩をすくめたあと、


「すこしだけだぞ。すこし休憩して、すぐに移動する」


 と木の根元にどかりと腰を下ろした。

 それで、ほかも休む体勢、武器も持たぬ正行とロゼッタは手も自由になって、並んで腰掛ければぎこちない気配。

 正行がちょっと顔を上げてロゼッタの横顔を見ていれば、ロゼッタもふいと視線を上げてぶつかるが、言葉もなくすれ違ってまた足下へ。

 腐葉土の上、枯葉を上ろうか下へ潜ろうか惑う蟻を眺め、あるいは頭を熱く照らす光に目をやって眩しさに顔をしかめ、とみに動きまわるところを見れば、落ち着かぬのは正行のほうらしい。

 木の根元へ置いた指先も、硬い表面をゆっくりと撫でて貧乏揺すりにも似る。

 目立ったきっかけはなかったが、正行は意を決したよう、


「さっきはごめんな」


 と声をかければ、ロゼッタのまつげがふいと動いて、


「ううん、あたしもごめんなさい」


 ロゼッタもまた、膝を両腕で抱いて、指先でなんとなく膝頭を撫でながら言葉を待っていた様子。


「正行くんと出会って、また二、三日だもんね。なんだかずっといっしょにいるような気がしちゃってた」

「森に入って、それくらいだからなあ」


 正行も視線を宙へ投げて、そのころを懐かしむにはまだ早いが。


「あたしね、ほんとは怖がりだし、小心者なの」


 とロゼッタはぽつりぽつりと吐露して、


「冒険してみたい、いろんなものを見てみたいってずっと思ってたけど、いままでひとりきりだったから、ほんとにお城を抜け出す勇気はなかったもん。それがね、今回は正行くんがいっしょにきてくれるっていうから、はじめて勇気が出て、ここまできたの。この森だって不安でいっぱいだったけど、正行くんがあたしよりももっと不安そうな顔してたからね」

「悪かったな、男のくせに怖がりで」


 拗ねた顔の正行、さっとあぐらを組めば、ロゼッタの顔にもぱっと光が当たって、きめ細かな肌が煌めくよう、その光を周囲へ放つように笑う。


「でも、ふたりだからここまで進んでこられたんだと思うの。だから、正行くんを助けたのは、正行くんのためだけじゃないんだよ。あたしもひとりじゃ不安だから、いてほしかったの」

「わかってるよ――そういうのも、わかってるはずだったんだけど」


 自省し、正行は頭を掻く。


「国ではいっつも内政だ外政だって、ひとの顔が見えないなかでいろいろ勉強させられてたからな。いつの間にか、そんな考え方になってたらしい。この世界にきたころは、大事なのは人間だってわかってたはずなのにな」

「この世界に?」

「あれ、言ってなかったっけ。おれ、異邦人だからさ。もともとはぜんぜんちがう世界にいたんだよ」

「そ、そうなの? 聞いてなかったよ、そんなの」

「まあ、わざわざ言うことでもないしな」


 ぽつりぽつりといびつを転がすように語らうそば、三人の兵士は油断なく監視しながら固まって、なにやらこそこそと話している様子。

 その内容までは、ふたりには聞こえてこないが、正行はふとそれを見つめて、


「さて、仲直りもしたところで、この先どうなるかまじめに考えないとな」


 とようやく参謀らしい目つき、あぐらの足首を押さえながら、


「あの三人の目を盗んで脱げ出すのは、たぶん無理だ。すくなくともいまのうちは」

「秘宝の場所まで連れていって、油断させて逃げるっていうのは?」


 ロゼッタはあえてそちらを見ないが、監視の目がきらと光るなか、なにか話していることは気づかれているのだから、いまさら隠す必要もない。


「秘宝の場所って、ほんとにわかるのか?」

「秘宝があるかどうかはわかんないけど、森の奥っていうならちゃんと連れていけると思う」

「よし、じゃあそこで隙ができるかどうか、ひとつ注意して見ておこう。でも、もし隙がないと思うなら、無理して動くなよ。向こうはロゼッタが王女だってことには気づいてるから、よほどのことがないかぎり手荒なことはしないはずだけど」

「うん、大丈夫」

「秘宝までの道を知らないってことは、たぶん森を出る道もわからないはずだ。秘宝を手に入れても案内役は続くはず、機会はまだまだあるんだから、焦らないようにしないと」


 声をひそめて言えば、樹上から、子どもの泣き声のような甲高い音が降ってきて、ふたりは同時に仰ぎ見た。

 するとふたりが寄りかかる木の枝、一匹のちいさな猿が長い尻尾を揺らしながら、ふたりをじっと見下ろしている。


「アレン猿」


 とロゼッタが呟き、正行ははじめて見るその姿にちいさくうなずき、すぐに興味を失ったように視線を戻そうとしたが、ふと思いついた顔、兵士たちに気づかれぬよう、ロゼッタにそっと近づいて、


「あの猿を、ここまで呼べるか」

「え、わかんないけど――どうして?」

「いいから、やってみてくれ」


 真剣な眼差しにロゼッタもうなずき、あくまで兵士に気づかれぬよう、視線は前に戻して、後ろに回した手で地面を探る。

 運良く指の届く範囲、赤い木の実が落ちていて、それを樹上に見えるよう左右へふりふり、ちいさな猿はそれに合わせて身体を揺らす。


「もうすこしだ、もうすこし」


 と正行がちらと頭上を窺えば、猿は一声鳴いて、細い枝を器用に歩き、幹をするすると下りてきて、ロゼッタの指から木の実を受け取る。

 それに合わせて正行はすこし前屈み、ロゼッタはその背中に隠れるようになにやら動くが、同時にゲオルクがくるりと振り返り、


「おい、そろそろ行くぞ」


 と一声。

 正行とロゼッタは慌てて立ち上がり、素直に両手を差し出す。


「従順でよろしい」


 ゲオルクも満足げ、さっと短剣を掲げれば、白刃がまばゆく輝いて。

 五人は再び森の奥へ向けて歩き出したが、ちらと振り返る正行とロゼッタ、その視界の端で、ちいさな猿の長い尻尾が揺れていた。

 先頭はやはりゲオルクで、手で枝を退け、肩で葉を弾き、蔦を切り落としては樹液が刃を濡らすのに剣先をすばやく振る。

 太い幹を迂回し、根を越え、頭上仰げば、いよいよ葉の数もすくなくなっている。

 薄くちいさな葉は、風にも軽やか、揺れ動いては木洩れ日ひらめき、緑に透けて見える。

 それに慕って地面もふやけたような感触から硬く乾いた土に変わりつつあり、蔦や繁る草も減った様子、先頭のゲオルクも短剣を振るうことがめっきり減った。

 全員、言葉はなかったが、なにかしらの予感を覚えるらしく、敵味方でありながら足並みを揃えて進めば、ついにその場所まで辿り着いた。

 それまで密集していた木や羊歯植物がさっと消え、あたりは野原、青く爽やかな風が吹き、地面を覆う草を揺らしている。

 円形の広場で、まるでだれかが線を引いて定めたよう、ある一定の距離以上は木の一本も生えず、空から見れば隕石でも落ちたようにそのあたりだけが禿げているように映るだろう。

 先頭のゲオルクが広場に踏み入れ、続いて正行とロゼッタも草を踏みつけながらゆけば、遮るもののない頭上には抜けるような青空眩しく、思わず手を庇にかざしかけるのを、後ろからふたりの兵士がぐいと押さえている。

 ゲオルクもちらりと空は見上げたが、それよりも視線を吸い寄せられるものが広場の中央、石造りの祭壇である。

 高さはゲオルクの腰あたり、青みがかった石材で、四角柱、上部へいくほど細くなり、周囲には蔦模様がぐるりと刻まれていた。

 そんなものが広場に中央、静かに鎮座しているのだ。

 祭壇には風雨による劣化は見られず、いま掘り出したばかりのよう、鑿のあとさえきらきらと光を受けて輝いて、どうやら青銅に似るが、天然の石らしい。

 その祭壇の上に、子どもの頭ほどの大きさ、つるりと丸い水晶が置かれている。

 これも長い間雨風に晒されていたはずだが、すこしも曇りもなく、それでいて水晶の内部は暗い闇が立ちこめたように見えず、そもそも異様なほどに美しい球形、燦々たる光を受けてもそれを内部に取り込むがごとく反射させない。


「これが、秘宝か」


 一目でそうとわかる代物であることは間違いないのだ。

 ゲオルクは抜き身の短剣を左手に提げたまま、ふらふらと祭壇に近づいた。


「班長、近づいても大丈夫なんですか」


 と熊のような大男、マルクスが心配げに言えば、ゲオルクはくるりと振り返り、


「秘宝が目の前にあるんだぞ。近づかなければ、取れないだろう」

「でも、罠とか」

「む、たしかに。秘宝なら、充分に考えられるな」


 ゲオルクはようやく短剣を腰に戻して、腕組み、むむと眉根を寄せて考えるのに、


「よし、ではマルクス、おまえが取ってみろ」

「な、なんでぼくが!」

「秘宝をいちばんに触らせてやろうというのだ。名誉なことだぞ」

「で、でもでも、罠があったらどうするんですか」

「だからおまえが取ってみるのだ」

「班長の鬼っ」

「鬼でもなんでも班長命令である。それに、心配するな。もし罠があっても、秘宝はなんとしても持ち帰る」

「ぼ、ぼくの安全は確保してくれないんですか」

「そのでかい身体はなんのためにある? 気合いでなんとかしろ、気合いで」

「うう、ひどい班長だ。こんな班長の部下になって、ぼくほど不幸な兵士もいないにちがいない」


 とマルクス、はらはらと涙しながら正行の手を放すものだから、正行は思わず、


「げ、元気出せよ」


 と励ました。

 マルクスはちらと顔を上げ、正行を後目、そこには親愛がこもって


「おまえ、いいやつだなあ。ごめんな、あのときちょっと殴って」

「いや、気にすんなって」

「マルクス、なにを敵と馴れ合っておるのだ。さっさと罠にかかって任務遂行の足場となれ」

「罠にかかる前提だもんな、いやになっちゃうよなあ」


 うつむいてぶつぶつ、祭壇へ近づく背中はがっくりと肩も落ち、哀愁漂う。

 ゲオルクのそばを抜けるとき、


「気合いを入れろ、大一番だぞ!」


 と背中を叩かれ、びくりと身体を硬直させれば、ともかくそれで決心はついたよう、マルクスは顔を上げて祭壇へ向かった。

 青く厳かに輝く祭壇、蔦のレリーフはひどく写実的で、実際に蔦が絡みついているようにすら思われる。

 マルクスは祭壇の手前でごくりと唾を飲み、その先は一歩一歩、つま先で足場を確かめながら進んだ。

 巨漢に似合わぬ慎重な足取り、草の根を靴の先でかき分け、硬い地面を確認しては一歩、なにか爆発でも引き起こすのではと身をすくませるが、何事もなく二歩三歩と進んで、祭壇と、そこに鎮座する黒い水晶は腕を伸ばせば届く距離。

 マルクスの腕がふいと上がり、祭壇へ伸びれば、


「おお」


 と後ろでゲオルクが呟き、マルクスはびくりとしたように振り返る。


「なんでもない、早く取れ」

「は、班長、なんでちょっと後ずさるんですか」

「爆発でもして、巻き込まれたらことだろう――気にするな、さっさとやれ」

「や、やっぱりぼくのことを見捨てる気だ! ヨーゼフ、おまえはぼくの味方だよな?」


 マルクスは期待を込めて言うに、ヨーゼフはロゼッタの手を押さえたまま、半分目を閉じてうつらうつら、視線でも感じたのかはっと目覚めて、


「なんか言った?」

「お、おまえなんかもう仲間じゃないぞ!」

「どうでもいいから、早くやれ」


 と無情に急かされては、マルクスも覚悟を決めるしかない。

 太い丸太のような腕に汗の粒を浮かべ、南無三と一声、水晶に両手をぴたりと当てた。

 ゲオルクは罠の発動に備えて身構え、ロゼッタも怯えたように目を背け、マルクス自身可能なかぎり水晶から身体を遠ざけるが、あたりはしいんと静まり返り、時折鳥の羽ばたきがぱたぱたと響くのみ、おおよそなんの変化も起こらぬ。


「なんだ、罠などなかったのか」


 ほっとしたような、どこか残念がるような、そんなようなゲオルクの声である。

 マルクスは心底から安堵して、水晶を持ち上げるためにぐっと力を込める。

 太い腕に筋肉が隆々と盛り上がり、いかに水晶が重たかろうと持ち上げられぬはずはないが、


「あれ?」


 と間の抜けた声、マルクスはゲオルクを振り返る。


「どうした」


 ゲオルクの声も、距離が離れているから、遠くへ叫ぶようで。


「班長、水晶が動きません」

「もっと力を込めろ。大きさを考えれば、それなりに重たいはずだぞ」

「全力でやってますけど、びくともしないんですよ」


 マルクスは眉根を寄せ、両手に力を込めて引っ張るが、まるで大地の一部のように動かぬ。

 最後には滑らかな表面を汗ばんだ手がつるりと滑り、


「わわっ」


 と勢い余って後ろへひっくり返れば、ゲオルクも情けないと息をつく。


「ええい、代わってみろ」


 罠がないとわかってみれば、警戒する意味もない、ゲオルクはすたすたと祭壇に近づくと、無造作に水晶を掴んだ。

 しかと両手で挟み込み、真上へ引っ張ったり、押したり引いたり、とにかくでたらめに力を込めてみるものの、なるほど、まるでびくともしない。


「むう、どうなっているんだ、これは」


 台座たる祭壇の一部と一体化しているのかとも考えるが、下は青銅に似た鉱物、水晶とはまるで似ても似つかぬ素材で、やはり黒い水晶がとんと置いてあるようにしか思われぬ。


「マルクス、おまえはそっちから引っ張れ。おれはこっちから全力で押す」

「はあ、わかりました」


 マルクスは、転んだ拍子に拾ったらしい草の葉をぱっと払って水晶にすがりつく。

 ふたりしてこめかみに青筋を立て、力任せに押しても引いても効果がない、そこへロゼッタが、


「それは魔法がないと動かないんじゃないかしら」


 と言い出せば、ゲオルクははたと動きを止めて、


「そうか、その可能性はあるな。この秘宝が魔法に関係しているなら、魔法使いでないと動かせんようになっているのかもしれん。このなかで魔法使いは――」


 ゲオルクの視線が、まずマルクスへ向かい、すぐヨーゼフへ、それから正行で一瞬止まったが、結局はロゼッタへ戻る。

 ロゼッタはすっと通った鼻筋を誇るようにあごを上げ、ふんと笑って、


「あたしだけみたいね」

「ヨーゼフ、手を放してやれ。代わりに男のほうをしっかり捕まえておけよ」


 自由になったロゼッタは、再び腕を押さえられた正行をちらと振り返りながら、ゆっくり台座に近づいた。

 ゲオルクとマルクスが場所を明け渡せば、まるで女王に仕える騎士のよう、ロゼッタは胸を張り、堂々と祭壇へ近づいて、水晶に片手を添えた。

 正行は、それまで黒々とわだかまってなにも見えなかった水晶が、さっとその闇を払いのけて透き通るのを見た。

 同時に祭壇そのものがまばゆいばかりの発光、月光にも似る青白い光があたりを満たして、正行は思わず顔を背けた。


「な、なんだ、どうした」


 とゲオルクも光に目を細めながらしゃがみ込めば、その地面が小刻みに揺れている。

 地鳴りのような低い音、腹の底にずんと響けば、立っていられぬほどの揺れ、ただロゼッタだけは水晶に軽く触れているだけで平然と立ち、その顔を青白い光が白々と照らしている。

 正行の腕を押さえていたヨーゼフが揺れに耐えきれず地面にひれ伏し、その隙に正行はさっと距離をとるが、とてもまともには歩けぬほどの地鳴りと揺れ、地面を転がるようにして祭壇へ近づけば、頭上の空にも似る青い光のなかに緑の光が混じって、見ればそれはレリーフとして刻まれた蔦模様、むくむくと隆起して本物の蔦となり、動物のように蠢き絡んで、祭壇を取り囲みはじめている。

 同時に周囲ではいくつもの地割れ、亀裂が走っていくのに、そのすき間から太い木の根や幹がぐいと現れ、天高くに向かってそびえ立っていく。

 木の一本もなかった広場は、瞬く間に周囲と同じ深い森、それも天を穿つような巨木が立ち並ぶ森へと姿を変え、祭壇は半ば木の根に埋もれて、ようやく光も収まった様子。

 それと同時に地鳴りと揺れもなくなって、正行は何十メートルあるか知れぬ巨木を見上げ、思わず立ちすくんだ。

 周囲ですら数十メートル、幹を覆う皮のささくれひとつが人間大で、ほとんど霞むような先にある葉は一枚で空を覆い尽くせるほど、枝は巨人の腕じみて、ぐねぐねとのたうち回ってはとなりの木に絡みついたり、枝同士が結びついたり。

 地面からは木の根が露出していて、それがまた恐ろしい大きさ、ぐいと折れ曲がれば小山のようで、浮き上がった根の下には無数の細い根が地面まで伸び、あたりには真新しい土塊が散乱している。

 りんと鈴のような音に顔を上げれば、鮮やかな赤い鳥がさっと横切って、その羽根の向こう、ほんのわずかに揺れる木の葉が見えていた。

 この巨大な木々は、ほんの数分で隆起したものなのだ。

 あまりのことに正行が呆然と立ち尽くせば、


「正行くん!」


 とロゼッタの声、はっと気づいてあたりを見回し、まだ兵士三人が無事にいることを知る。


「逃がすな、追え!」


 巨大な木の根に悪戦苦闘しながらゲオルクが叫び、正行は慌ててロゼッタの待つ祭壇へ近づいた。

 ロゼッタはすっかり透明になった水晶をいとも簡単に祭壇から持ち上げ、ぎゅっと腕に抱き、正行をちらと見る。


「行こう」


 と正行もうなずいて、木の根をくぐり、土塊を飛び越え、ロゼッタに手を貸しながら森の奥へと向かう。

 しかし兵士たちはその体格を活かしてぐいぐいとふたりに迫り、いまや手も届く距離、ロゼッタは水晶を正行に手渡すと、


「伏せて!」


 両腕をまっすぐ突き出して軽く目を閉じれば、時ならぬ突風、あたりの木葉や土を巻き上げて吹き荒れる。

 正行は慌てて地面へ身を伏せ、一瞬遅れた兵士たちが文字どおり風に飛ばされるのを見た。

 ある程度距離ができたところで、ふたりは再び走り出す。

 巨大な根は乗り越えるよりくぐる場所を探すほうが早いと察して、ふたりは這うように進み、正行がロゼッタの手を引いて進めば、ロゼッタも正行の手を引いて方角を誘導する。

 ふたりはやがて新たにできた巨大な森を抜け、それまで通りの深い森に入ったが、それでいくらか安堵したよう、ロゼッタはちらちらと後ろを振り返りながらも美しく笑って。


「秘宝は、本当にあったんだね」

「らしいな。これは、間違いなく秘宝だもんな」


 と正行は自分が抱えた水晶を見やる。


「じゃあ、大鳥だって絶対どこかにいるはず!」


 ロゼッタは意気込んで、あたりを見回すが、逃げる足は止めずに。

 正行もあの巨大な森を見たあとでは、想像をはるかに超える鳥が住んでいてもおかしくないという気になって、それとなく視線で探っている。

 いつしか手を握り合ったふたりは、森をさらに奥へ奥へと進んで、深く蔦や葉が茂るせいか、追ってくる影も見えぬ位置。

 勢いに任せて枝を飛び越え、草むらに着地すると、なかに潜んでいたらしい獣がびくり、驚いたように飛び出してふたりを見つめる。


「ごめんねっ」


 とロゼッタはいちいちに答えながら、さらに先へと進んだが、不意にびくりと立ち止まった。

 同時に正行も足を止めて、茫然自失、さっと顔色を失っている。

 どこまでも続いているように感じられた森は、ふたりも眼前、唐突に途切れて、目も眩むような崖になっているのだ。

 傍らには、どうやらエゼラブル城から続く川の終点らしい、滝が止めどなく流れているが、あまりに崖が高すぎるせいで川の水は宙に消え、真下には滝壺もなにもない、ただ繁る樹林が見えるのみ。

 木の幹にすがって崖の縁まで寄り、ぐいと下を見下ろせば、吹き上げる風に前髪が舞い上がり、正行は思わず目を細めた。

 はるか下の森、白く霞んで見えるほどで、とても飛んで無事に済むような高さではない。

 ちらとロゼッタを見る正行の、口元には引きつった笑み、水晶を落とさぬように抱えて、


「空飛べる魔法とか、あったりしないの?」

「あるには、あるけど」


 ロゼッタは目を伏せて、指をつんと突き合わせ、


「さっき、風を起こしたでしょ? あれ、結構力がいるの。もう空飛べる分は残ってないかも……これでもあたし、魔法の力は強いほうなんだけど」

「まあ、使えないもんはしょうがないよなあ」


 と正行も諦め顔、すぐに頭を切り換えて、


「森へ戻って、逃げる場所を考えよう。なんとか逃げ切るぞ」


 くるりと踵を返した矢先、がさがさと草を分け入る音がして、三つの顔がぬっと現れる。

 正行はすかさずロゼッタを背中に、水晶も手渡して身構えるが、相手も歴とした兵士、容易に飛びかかるようなことはせず、三人で囲むようにじりじりと距離を詰める。


「後ろは、崖か」


 とゲオルクは呟き、勝ち誇ったような笑み。


「まず、水晶をこちらへ渡せ。それからひとりずつ手を挙げておとなしく投降しろ。なんとか森を出なきゃならん。その案内も頼まんとな」

「案内が済んだら、どうするつもりだ」


 正行は後ろ手に、ロゼッタの身体をそっと押さえる。

 ロゼッタも水晶を胸の前できゅっと抱き、正行の背中にしがみついて。


「案内が済んだら、そうだな」


 片手ではあごを撫でているが、もう片方は剣の柄に添えられ、あくまで油断のないゲオルク、


「おれたちのことを他言しないと誓うなら、そのまま解放してやってもいい」

「どうやっておれたちを信用するんだよ」


 と正行はちいさく笑って、


「どのみち、無事には済まさないってことだろ」

「ま、そうともいうかな。おれも手荒い真似は好きじゃないが、これも仕事だ。まずは水晶をこっちへ渡せ。秘宝はおれたちが預かる」


 そうしているあいだにも、ほかのふたりは森のなか、じりじりと距離を詰めている。

 正行は進退窮まり、どうすべきかとロゼッタを振り返った。

 ロゼッタも正行を見上げて、その瞳には強い決意の光、抱いた水晶をちらと見て、


「これはエゼラブル王国の秘宝よ。他国のあなたたちに、渡すわけにはいかないわ」

「ふむ、そいつは困ったな」


 とゲオルクは柄を握り、すらりと剣を抜き払う。

 青白く輝く剣の、いかに剣呑なことか。

 植物の汁らしいものでうっすらと汚れてはいるものの、刃は鋭く、邪魔になる枝も一太刀で。

 正行は一歩後ずさるが、すぐ後ろは目も眩む崖、左右への逃げ場もなく、ここはおとなしく捕まるしかないかと考えるが、


「あなたたちに渡すくらいなら――」


 とロゼッタは正行の背中から抜け出すと、水晶をきゅっと抱いて、崖下をちらと見た。


「王女として、自分で処分するわ」

「早く押さえろ!」


 意図を察したゲオルク、ぎくりと身体をすくませて叫ぶが、それよりも一息早く、ロゼッタは地面を蹴っていた。

 後ろにまとめた長い髪、ふわりと舞い上がり、視界から消える。

 正行はそれを見て、逡巡もなく、気づけばやわらかな腐葉土を離れ、宙へと飛んでいた。

 激しく舞い上がる髪や裳裾、ロゼッタは身体を丸め、腹の上に水晶を置いて、後生大事に抱え込んでいる。

 ほんの一瞬遅れて飛んだ正行は頭を下に向けて加速すると、ロゼッタの肩を掴み、耳元で轟々と風の鳴るなか、ぐっと抱き寄せて吹き荒れる風から守るように腕で包み込んだ。

 魔法もなく、この高さでは助からぬ、脳の後ろがぐらりと揺れるような浮遊感のなかで、正行は不思議と満足なのである。

 ロゼッタが言ったように、理屈とは関係なく動いたことだが、再び同じ状況になってもやはりこうするだろうというような、妥当な行動でもあるのだ。

 落ち行くふたりは寄り添って、息もできぬ抵抗のなかでも穏やかな顔つき、むしろ崖の上から見るほうが苦々しく顔を歪め、


「ふたりして飛び降りるとは」


 ゲオルクがぐっと歯噛みするのに、剣をしまって、


「こうなっては、仕方ない。なんとか森を出て、下へ行くぞ。秘宝は真下に転がっているはずだ。それを回収して、オブゼンタル城へ戻る」


 と早森のなかへ戻ろうとするのに、部下ふたりが釘で留められたように動かぬ。

 またかとため息ひとつ、ゲオルクは部下ふたりを振り返って、


「どうした、早く行くぞ。また森を出るのに何日もかかっては敵わんからな」

「は、班長――」

「どうしたんだ、マルクス」

「ああ、あれを、あれを見てください……」

「なんだ、なんだ」


 がさごそ、草を踏みつけながら崖まで戻ったゲオルクは、部下ふたりと同じように、口をあんぐりと開け、目を見開いた。

 両手をだらりと下げ、全身から脱力したように呟けば、


「な、なんだ、あれは――」


 崖から一望する大地、遠くは折り重なる山々、近くは深い森だが、そこにさっと影が差している。

 雲が出たのか、と錯覚するほど巨大な影、しかしその形が、細長い胴体にさっと羽根を伸ばした鳥のような姿。

 はっと空を見上げても、しかしその姿はどこにもなく、空は雲ひとつない快晴なのである。

 姿なき鳥の影は片方の羽根で山をいくつも覆い隠し、長い尾は地平線の果てまで伸び、羽ばたけばその突風は木々をなぎ倒すほどに力強く、三人の兵士たちは森の奥まで吹き飛ばされ、太い幹に身体をぶつけてぐったりと気を失う。

 大地を覆い隠す巨大なる怪鳥、雷鳴のように鋭く鳴いて空を震わせ、尻尾を振れば山が削れて形を変え、嘴を震えば大地に深々と裂け目が現れる。

 落下を続けるふたりは、すでに意識もない様子、自分たちを包み込むように落ちる影にも気づかずに。

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