始まり
夢を見る。
小さく、暖かい手を握っている夢を。
幸せだった過去の1ページ、何度なぞれば良いのか分からないほどの鮮明で、しかし古ぼけている記憶。
ありふれた日常のことだったと思う。
この夢を見る時、私はいつも必死に小さな手を握りしめている。
しかし夢の先はいつも残酷なものだった。
遠ざかる掌、小さな背中。
そして広がる赤。
世界は瞬く間に暗くなり暗闇の中、ふと、自分が血が出るほど握りしめていたのは、黒く鋭利な黒曜石だったと気づく。
そんな夢。
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「ただいま〜」
返事は無い。
静まり返った家にはテレビの音声だけがかすかに響いている。
奥にいるのは養母で、おそらくまた食事も取らずに亡失としているのだろうことが手に取るようにわかった。
靴を脱いで、薄暗い廊下を通り、リビングに着くと、想像通り、いや、いつもと同じように幽鬼のような風体の女が、身動ぎもせずに4人がけのリビングチェアに座っていた。
「お母さんまだご飯食べてないよね、今作るね」
冷蔵庫を開けると今朝作っておいた朝食と昼食がラップに包まれて置かれていた。手をつけなかったのだろう。これを翌日に食べるのもお決まりのことだった。
ユイは特に気にしないようにして、夕飯を作り始めた。
トントン、と包丁の音とテレビのバラエティの音だけが響く。時刻は8時をすぎていた。オープンキッチンの向こう側には、顔を上げれば養母の姿が見えただろう。ユイは意識的に顔をあげないようにしながら調理を進めた。
野菜を切り肉を切り炒めて煮込んで、何も考えないようにしながら。
「夕飯できたよ、今日はカレーだよ」
テーブルに2人分、夕飯を並べた。ユイのものは養母が残した昼食を温めたものだ。
リビングチェアは一つだけ子供用のものが置かれている。まるで楔のように、時間の止まった家に置かれている。
養父が家に帰るのはいつも日付を回った頃だった。朝も早くに出るので食事をとっているのかいないのかよく分からない。最後に顔を見たのはいつだっただろうか。思い出せない程遠い昔のことのように思う。
思い出したくないだけかもしれなかった。
湿気ったチャーハンを食べる時、かすかにスプーンが震えていた。ユイは気づかないフリをして黙々と食べた。養母は、席を立つまで身動ぎもせずにテレビをぼんやり眺めていた。カレーには興味も示さなかった。今日も流しに捨てられるのは目に見えていたが、出来るだけ早くこの場を離れたい一心でユイは匙を進めた。
シャワーを浴び、就寝前にお休みと声をかけるのもユイの日課だった。これを終え、自室に戻ればユイはつかの間開放されたような気持ちになれる。この日もいつもの通り声をかけた。返事は期待しなかったが、おもむろに養母が顔を上げた。
「お前が死ねばよかったのに」
テレビの雑音がもう少し大きければ、きっと聞こえなかった言葉だった。
「うん、ごめんね」
形だけの言葉を返した。
心が空っぽになってしまって、それしか返す言葉が思いつかなかった。深く考えないようにしながら廊下を引き返し、そういえば郵便物を取っていなかったと酷く冷静な心でそう思い出した。
あかりの点った玄関を開け、ポストを確認する。
一通だけ封筒が入っていた。宛名を見てすこし驚いた。ユイ宛のものだったからだ。差出人には『贖罪学園』とだけ書かれていた。
怪しげな新興宗教からのものかと少し落胆したが、贖罪、という言葉に惹かれ中身を覗くことにした。
中には転入許可証と、もう1枚。
『あなたの罪を知っています』
とだけ書かれた紙が入っていた。




