最終夜
本日二話投稿で、こちら二話目です
本作と出会ってくださり、ありがとうございました
そして、苦しくもかけがえのないそれらの若い時代から、二十年近くが経過した。
ユリアンは少しだけ猫背になり、四十二歳を数えた。
多くのことが昔とは変わってしまった。
イルクナーの名は誰の口にも上らず、マインラートの行方はようとして知れない。
ユリアンは、その冤罪を晴らすことはできなかったし、わだかまりは残ったままだ。
役立たせるために預かったはずの黒い革鞄はユリアンの書斎にずっと眠っていて、今もその重さを考えて胸が苦しくなる。
弁護士のヨーナスはイルクナーに対してなにもできなかったという責任を感じ、強く慰留したが決して首を立てに振らずに「修行して出直しますよ」と言い残してシャファトを辞した。
現在は隣国フロイントリッヒヴェルトに設立された国際人権裁判所にて小法廷の人員として働いていて、こちらから送る年ごとの便りに、思い出したようにときどき絵手紙を返してくれる。
彼の健勝と活躍は新聞を通して報されるので、それで問題ない。
母ロスヴィータは五十歳という若さのときに、脳の病を得てしまい、しだいに自分のことすらも忘れて行ってしまった。
そのゆえに父ヨーゼフは正式に退官し、若いころにともに過ごした領地へ母を連れて療養生活に入り、三年後に看取った。
ユリアンのことはわからなくても、足元にまとわりつく孫のことは笑顔で迎えてくれた母の穏やかな顔を覚えている。
その孫も今は十八歳になり、妹も生まれた。
変わってしまった。
なにもかも。
記念日に家族四人で数時間の道を連れ立って出かけ、馬車を降りる。
州境近くに設けられた国営墓地のひとつだ。
白い花に埋もれた丘と整然と並ぶ墓碑と舗装路が綺麗で、目を細めてその光景を見渡した。
「良い日和だな」
すっかり頭髪に白いものが目立つようになってしまった父ヨーゼフが、同じようにあたりを見回しつぶやいた。
ユリアンがここに来るのは実に六年ぶりで、予想していたよりもずっと穏やかな気持ちで踏み入れることができて、少しだけ自分も成長できたのかもしれないと思う。
以前来たときは突然のことになにもかもが受け入れられず、棺にかぶせられていく土の茶色と、据えられた石灰岩の灰色しか憶えていない。
――三十二歳という若さで見送ることになってしまった愛しい伴侶が眠る場所には、変わらずに懐かしいその名が四角い石に刻みこまれている。
『オティーリエ・フォン・シャファト』
胸を高鳴らせてその名を手紙に綴った日々のことを、昨日のことのように思い出せる。
子どもが生まれ、家族みんなで幸せに暮らせたのは十二年という短い期間だけだった。
単純な感染症のはずだった。
いつもと同じように「おはよう」と笑ってくれることを疑ったことなどなかった。
白髪のときまでずっとともにいて、子らの成長を見届けるのだと。
そう思っていたのに。
自分だけが老いていく感覚が心をからめ捕る。
置いていかれているような、置いていくような、どっちともとれない哀しみが胸を占めている。
「僕、母さんのこと好きだよ、これからも」
ユリアンの背丈を越した妻と同じ黒髪の息子が、墓碑銘を見つめながらつぶやく。
「わたくしだって」
四つ下の娘が対抗する。
ユリアンは黙って笑い頷いた。
息子は今年成人した。
娘も来年お披露目を迎える。
父親であり、夫であるユリアンだけが、これまでどこへも向かえずに立ち止まってうつむいていたのだろう。
自分は他になにかを為しえたのではないか、なにかを違えてしまったのではないか、という出口のない迷いは、ずっとユリアンを苦しめて来た。
子どもたちと同じ気持ちを自分の中で素直に受け留めてもかまわないのだと気づけたのは、つい最近のことだ。
その結論は、ユリアンを縛りつける後悔の鎖を絶った。
たとえ、せつなさは消えなくとも。
「怒られてしまうな、オティーリエに。
時間をかけ過ぎだと」
自嘲を交えて言うと、父ヨーゼフだけではなく子どもたちにまで即座に肯定されてしまう。
あんまりじゃないか、とも思う。
「この丘のてっぺんまで行きましょう、きっと綺麗ですわ」
明るい声で娘が言い、息子を引っ張って行く。
丘の頂上にある樹を目指していくそのふたつの背を見る。
そしてずっと黙って見守っていたヨーゼフへ、その顔を見れぬままユリアンは言った。
「父さん、今晩は飲みましょう」
「ああ、付き合うぞ」
「聴かせてください、父さんがどうやって乗り越えたのかを。
――母さんが、亡くなったことを」
「あ? わたしのロスヴィータへの愛を甘く見るなよ? 一晩で語れると思うのか? 覚悟しろ?」
「知ってますよ。
わたしは貴方たちのような夫婦になりたかった」
足元に視線を落としてつぶやく。
「知ってますよ」
その言葉を聞くと、父は何も言わずにただ微笑みを残してゆっくりと二人の孫の後を追う。
ひとり立ち、ユリアンはもう一度妻が眠る場所に向き直った。
泣きたいような気持ちがないわけではない。
すべてを振り切れたとも思わない。
けれど。
ずっと、言いたかったことがある。
「――君にとって、わたしはいい夫だっただろうか」
今やっとこのときになって、かねてから苛まれていた疑問を口にする。
思い出すのは息子が生まれる際に投げかけられた問いかけだ。
彼女が満たされない気持ちを抱いていたかもしれない可能性は、ずっと考え続けてきた。
「君と出会って、君と別れるまでの十五年間、わたしと共にいて君は幸せだっただろうか」
そうだったらいい、と心から願った。
どんな困難があったとしても、ユリアンは彼女を伴侶にできたことを感謝しているから。
できるだけのことはしてきた。
心の底から愛してきた。
それでもこの心をどこか不安へと駆り立てるのは、やはり未練があるからなのだろう。
二人のことを口さがなく言う者たちは今も昔も存在する。
それでも、ユリアンは幸せだった。
ユリアンの子を産んでくれたことだけを言うのではない。
それはきっと父ヨーゼフが、亡き母ロスヴィータを想い続けるのと同じで。
ユリアンは幸せだった。
それは誰にも否定できない事実だった。
だから。
「オティーリエ……わたしの妻になってくれて、わたしを選んでくれて、ありがとう」
自然と、微笑みが言葉を紡ぎ、ユリアンは亡き妻へ伝えたかった言葉をつぶやく。
きっとこれで、自分も先に進める。
「君の愛は、美しかった」
一面の白い花の絨毯が、風にさざめいてとてもきれいだった。
三年という長きに渡り、連載しました
こちらは『いねむりひめとおにいさま』という作品のスピンオフ作品ですが、胃が痛くなる仕様としてはメイン作でした
おつきあいくださったすべての皆さまに感謝します
読んでくださって本当にありがとうございました
(今後加筆修正することがあるかもしれませんが、その場合は活動報告等でお知らせします)




