第五十九夜 「ご懐妊です」
本日二話更新、こちら一話目です
そして次話で完結です
さようなら、とユリアンは心の中でつぶやいた。
なにに対する別れの言葉なのか、自分でも判別がつかなかった。
けれど、多くのものを手放さなければならなかったのは確かで、手の中に残ったかけがえのないものたちを掻き抱いた。
これからなにができるだろう、今からなにをすべきだろう。
前例なんて見つからない、手本も教本もどこにもない。
守るべきものたちの手触りがユリアンを現実へとつなぎ留めてくれて、これからはそれをよすがに歩いて行くのだろう。
ユリアンは二十四歳になっていた。
後悔するには若すぎて、すべてやり直すにはとうが立ち、ただ前へ前へと向かうために身を伸ばす。
「ご懐妊です」
訪問したシャファト家の契約医師が告げた言葉に、ユリアンは固まった。
うなずいてほほえんだオティーリエは気づいていたらしい。
舞い上がってしまって、ユリアンは医師に抱きついて頬に口づけた。
悲しいことがたくさんあった。
取り返しがつかないこともいくつもあった。
けれどこの便りを受け取ることができたことで、なにもかもが報われたように思う。
古くからシャファトに仕える者も、最近仕えるようになった者たちも、ともに手を取り合って喜んだ。
その中でも特に喜んだのはイルクナーから来た者たちで、元家令のヴァルターは男泣きに泣いた。
「ねえ、ヴァルター? この子に仕えてくださる?」
言葉少ないオティーリエの問いかけに、ヴァルターは声も出せずに何度も首肯する。
彼はそうして命を得て、ユリアンは差し止められた悲劇に胸をなで下ろす。
たったひとつの希望でも、人は顔を上げられるのだ。
これからいくつでも、光を掲げてみせようとユリアンは考える。
それが、シャファト伯爵家の家長としての、ユリアンの務めだと。
彼は家の者たちを守らねばならない。
「わたしたちが、オティーリエの両親としてあるべきと思う」
父ヨーゼフが述べた言葉に、母ロスヴィータが深々とうなずいた。
オティーリエは父母を亡くし、兄を失くし、どこへと帰ることもできない。
たくさんの不遇をかかえる義理の娘を厭うでも退けるでもなく、庇護すると宣言した両親を尊敬しつつ頭を下げた。
だいじょうぶだ、立って行ける。
ユリアンは決してひとりではない。
助けとなってくれる愛する人々がいる。
もはや名前はなにがいいかと議論が湧き上がっている。
こんなに楽しい気分になるのはどれくらいぶりだろう。
いくつもの候補があげられて、オティーリエのお腹が目立ちはじめたころに決まった。
男の子ならば、イェルク。
女の子ならば、ルドヴィカ。
こうしてユリアンの若き日々は苦くも美しく記憶された。
心に打ち込まれたくさびは重くて、ともすればそれに気を取られてしまう。
背負っているには大きくて、下ろしてしまうには未練があり、ただ前へ前へと向かうために身を伸ばす。
さようなら、とユリアンは心の中でつぶやいた。
なにに対する別れの言葉なのか自分でも判別がつかないながら、手の中に残った確かにかけがえのないものたちを慈しむ。
追想せぬほどに強くはなく、迷わないほどに円熟してもいないユリアンは、これからもなにかを探すように歩んでいくのだろう。
それでいい。
そうして行こう。
この手を離れてしまったものたちが、いつか戻ってこれるように。
おかえりなさい、と言えるときを希望し続けよう。
そうしよう。
難産だった。
家令のリーナスが早馬を駆けて報せに訪れ、急ぎユリアンは帰宅する。
「ねえ、ねえ、あなた」
叫ぶような言葉だった。
ベッド際でオティーリエの手を握りしめ、返事をする。
「ねえ、あなた。
わたしを愛してくれていた?」
絶え絶えの息で述べられた言葉に、ユリアンも助産婦も驚いて肩が跳ねる。
「一度も振り返らなかったから」
なんのことを言っているのだろう。
ただユリアンはその必死な様子に、わけも分からずに相づちを打つほかなかった。
奥様、息を! 助産婦がオティーリエに劣らぬほどに汗に濡れながら声を上げる。
「わたしは少し」
形をとったうわ言は、ユリアンを追い詰めた。
「悲しかったの」
男の子です!
聴こえた報せに体の力が抜ける。
全身で呼吸をするオティーリエの指先に唇を落として、汗で張り付いた額の髪をなでつける。
「ありがとう、ありがとう、オティーリエ」
つぶやきが届いたのか、オティーリエは一筋涙をこぼした。
後日あらためて尋ねたとき、彼女は自分のその言葉を憶えていなかった。
そして膝を糺して非礼を詫びてくれ、出産の際の迷い言として捨ててくれ、と懇願された。
なのでその意味を知ることはできなくて、その出来事はユリアンの心に忘れられた澱のように蓄積する。




