第五十七夜 「ありがとう、ユリアン。ありがとう」
夜のために夜を愛するべきだろうか。
沈黙を静けさのまま留めておけるだろうか。
わたしはどうするべきなのだろうとユリアンは考えに落ちた。
きっとその疑問はユリアンだけのものではなくて、自分をとりまく多くの人々が感じているものなのだ。
マインラートを獄中から解き放つにはすべての集約点を暴かなければならなくて、それはこれまでもできなかった。
諦めてしまうにはユリアンは若すぎて、けれど状況はなにひとつ拓けない。
できること、為せること、手当り次第すべてに身を伸ばしたけれど、空を掴むことすらできなかった。
あとは結審まで数回の公判が残るのみと目されており、そのゆえにユリアンはマインラートの在宅勾留を申請した。
もうすでにイルクナーは見るも哀れなほどに調べつくされ、そこからなにかを差し引くとしても悲しみが増すだけだ。
どちらにも向かえないというのなら、せめて彼の家の扉を彼の手で閉じるべきと思う。
希望がない。
希望がない。
ユリアンが、マインラートに差し出せる希望はない。
互いにもうなにも言わずにわかっていた。
マインラートはなにも尋ねなくて、それがユリアンには痛かった。
「あとは、私にさせてくれるか」
その言葉にユリアンはうなずくことすらできなくて、噛み締めた唇と涙が答えた。
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王都ラングザームに居を構えるイルクナー邸は、騎士を育成するという権能ゆえに子爵家のタウンハウスとしては規格外の敷地を抱えている。それらすべては遠い過日に幾代も前の王から貸与されたものだった。
今は封鎖されその中で訓練に励む年若い小姓たちの姿はなく、これから夏を迎える季節だというのに寒々としていた。
使用人が引き揚げられ手入れがされなくなった邸宅は、昼の日が差してもどこか拭えない薄暗さを抱えているように見える。最後の守りに着いていた、家令のヴァルター、そして十二人の小姓がマインラートを迎えた。朗らかな笑顔で、というわけにはいかなかった。
マインラートは獄屋にある中、複数の友人たちへと手紙を書いていた。それは小姓たちを受け入れてくれないかという嘆願で、ほとんどの返事は是だった。言葉少なに彼らはマインラートを励まそうと、支えようとしてくれている。これまでイルクナーが為した善を覚えてくれている。それはとてもありがたいことで、どんなに先行きが闇にあってもマインラートの気持ちをなだめてくれる。
そうだ、これからマインラートは闇に飲まれるのだ。
泣いてくれた義弟の顔を思い出す。
獄中であってもわかるものなのだ。
ユリアンはすべての手を尽くしてくれた。
その結果を、自分は粛々と待つのみだ。
受け入れる準備は、もうできた。
集ったすべての者たちの、顔をひとりずつ見た。誰もが気のせいではない陰りを顔に落としている。
そしてマインラートは口を開き、「ありがとう」とつぶやいた。その声は静まり返った部屋に染み渡るように響いた。
「おまえたち全員の、行き先が決まった。すべて名のある御家だ。
どうかそれぞれの場所で、立派な騎士になってくれ。おまえたちの成長を最後まで見届けられないこと、許してほしい。
今日を以って、イルクナーの名は忘れるように。そして、どうか壮健で、いついつまでも平穏で、安らかであってほしい」
誰もが声なく泣いた。
イルクナーの終わりなど、誰も信じたくなかった。
「いやだ」
黄金の髪の小姓が呟いた。
マインラートはそちらに顔を向け、その姿をじっと見る。
「もう、決まったことだ」
「いやです、私はイルクナーです。エドゥアルト・イルクナーです!」
歩み寄ってマインラートはその腕を取る。
「……その名はなくなるんだ」
「いやだ!」
小姓はマインラートの手を振りほどこうと足掻いた。
マインラートは腕に跡がつくほどに握り込み、自分の寄り子であった少年に自分の方を向かせた。
「受け入れろ、私も最早騎士ではない。私はおまえの寄り親ではないし、おまえは最早私の寄り子ではない。決まったことなんだ」
「いやだ!」
少年は足掻いて泣いた。
「私はイルクナー! マインラート・イルクナーに仕える者です!」
マインラートが持つ騎士爵はとうの昔に失われた。裁判が終わればおそらくイルクナーの名も潰える。
他の小姓が少年を止めることはなかった。誰もが気持ちを同じくしていたし、抗いたいのは一緒だった。ただ、少年が一番年少だったから、それを表現できたにすぎない。マインラートもそれを理解している。
激しく泣く少年に、誰もなにも差し出せなかった。
「エド……?」
そのとき、小さな女声がその場を鎮めるように響いた。
「オティーリエ?」
マインラートがその姿を見て名を呼ぶ。
彼女の瞳は泣きじゃくる少年に向けられていた。
エドゥアルト少年は驚いて居住まいを正すと、涙を拭って彼女に向き直る。
彼女は兄と少年に近づき、その両者の手をとった。
「ねえ……エド、覚えているかしら」
詩を諳んじるかのようにオティーリエは言葉を紡いだ。エドはその美しい灰色の瞳から目を逸らせなかった。
「わたしに息子が生まれたら、きっとあなたが寄り親になってねって。立派な騎士にしてねって」
その場にいて、その言葉を聞いて涙しない者などいなかった。
「ねえ、約束よ? あなたは強い騎士になって、そして、わたしの息子を導くの。
イルクナーじゃなくても。あなたがあなたであって、きっと」
オティーリエは膝をつく。エドゥアルト少年は驚いて立ち上がらせようと身振りで示したが、彼女はそんな少年を見上げて、両の手でその頬を包んだ。
「イルクナーではなくなっても……あなたたちのことを愛しているわ」
決別の言葉だった。こらえきれずに嗚咽を漏らす音がいくつも響く。
エドゥアルトはなにも言えずに、義姉の穏やかな顔を見返した。
それぞれが、それぞれの歩みに着く。そして、ここで互いの道は分かたれた。
振り返ることを許されずに、イルクナーであった者たちは散り散りになってゆく。
すべての者の手に新しい名が記された手紙が託された。
ひとり、またひとりと部屋を去っていく。
マインラートはすべての背をオティーリエとともに見送った。
そして声なく部屋を出たときに、そこに居るだろうとあたりをつけていた姿をみつけて、心からの礼を言った。
「ありがとう、ユリアン。ありがとう」
妹を、イルクナーの娘として最後に立ち会わせるために連れてきてくれた義弟に、頭を下げる。
オティーリエを君の元にやれてよかった。
本当によかった。




