第五十五夜 まだ肌寒い初夏だった。
時間だけが過ぎていくのを呆然と見送った。
雪解けの季節にユリアンは自分の無力を知る。
父ヨーゼフとも多くのことを話し合った。
今後シャファト家としてどのような立場を取って行くべきか。
イルクナーを救う手立てはあるか。
ユリアンの気持ちは揺らぐことなく、全面的なイルクナーの擁護だ。
父は真剣な面持ちで頷いた。
そんな折に届いた報せは残酷だった。
亡きマクシーネ夫人の実家であるシーラッハ伯爵家が、イルクナー子爵家との絶縁の姿勢を、書面で公に示した。
正確に言うとマクシーネ夫人との義絶であり、それは死者に鞭打つ行為ながら確実にイルクナーと距離をおける方法でもあった。
全く想定していなかった出来事であり、イルクナーに関係する者にとって天地が揺らぐかと思えるほどの衝撃でもあった。
イルクナーは、マインラートは、オティーリエは、捨てられてしまった。
なんと言っていいかわからなくて、言葉なんかなにも役には立たなくて、ユリアンはただオティーリエを抱きしめた。
きっとそれは自分が不安だったから。
イルクナーの従僕たちは、すべてシャファトに引き揚げた。
それぞれの進路を共に考え、ある者はシャファトの領地邸へ、ある者は他家へ、ある者は十分な金額の退職金と共に別の場所へ、そして一部の、決して首を縦に振らなかった者たちだけが、イルクナー家の守りについた。
マインラートは淡々としている。
面会するごとに痩けていく頬、希望を失う瞳の光。
それはオティーリエも同じで、わずかながら口元に刻まれた微笑みの形が痛々しかった。
そんな中、ユリアンはなにができただろう?
自分だけは希望の灯火を絶やしてはならないと思った。
けれど悼む期間を過ごす中、社交になど出られずになにひとつままならない。
それすらも言い訳だと叫ぶ者がユリアンの中にいる。
けれど、なすべきことがわからずに、心がうずくまる。
そんな中でもマインラートの裁判は決行された。
弁護席に立つ予定だったヨーナスは満身創痍ながら車椅子で臨んだが、当日になって不測の事態が働き、車椅子での入廷を断られた。
そんなこともあろうかと、シャファト家お抱えの弁護士団は前もってヨーナスとの合議を続けており、多少の緊張を見せた代理の者は想定以上にその役を立派に果たしてくれた。
二回、三回と急き立てられるようにそれは続き、初夏を迎える。
こんなにひとつの裁判に集中して審議がなされるなどおかしなことだとは誰もが気づいている。
けれどなんら確証なく誰しも口にできないまま時が過ぎた。
その間、ユリアンも父ヨーゼフもただ手をこまねいていたわけではない。
ユリアンはユリアンの職務の傍ら、職権上触れることのできる情報に基づいて多くの貴族位の人間の身上調査をしたし、松葉杖をつきながらでも弁護士ヨーナスはその手足となって動いた。
父ヨーゼフは宮廷会議の議長としての人脈を最大限駆使しつつ、表面上は穏やかに情報収集に当たった。
けれど、結果は惨憺たる有り様だった。
わかっている、これはなにかがおかしい。
なのに、なにもこの手に捕らえられない。
このままではマインラートが、亡きモーリッツ氏が、国家反逆謀議の主犯と仕立て上げられてしまう。
まだ肌寒い初夏だった。
時折小雨の降る様子から、ユリアンはこの季節が嫌いになった。
薄曇りの空が、届きそうで届かない、掴めそうで掴めない、求めてやまないものを遮っているように思えて、ユリアンの気持ちを塞いだ。
――マインラートが一切関与していないという情報は、ついぞ、見つけ出せなかった。
なにひとつ。
ある日、面会に訪れた。
珍しく澄んだ青空で、白々しさに反吐が出た。
マインラートの表情は穏やかだった。
何もかもを受け入れたのかもしれないし、何もかもを諦めたのかもしれなかった。
けれど力なくうつむいていて、決してユリアンと目線を合わせようとはしない。
そんな彼に告げるべき言葉が重い。
重い。
「……父とわたしとで、調べたんだ」
ユリアンは握りこんだ両の手を、さらに固く握りしめた。
「……これだけは、言わせて欲しい。
わたしたちは、君が、そしてイルクナー家が、この一件に全く関与していないことを確信している」
その言葉を聞いて、マインラートは項垂れていた首を上げてユリアンを見た。
その次の言葉をユリアンは紡げなかった。
自分の無力さに噛み締めた歯が鳴った。
マインラートが口を開いて、濡れた瞳で震える声を押し出したのを、ユリアンは自分の罪状を告げられる思いで聴いた。
「……証拠が、見つからなかったんだね?」
その声は震えていて上擦り、この偉丈夫が見せる初めての弱さのように思えた。
目を伏せてはいけない。
ユリアンは自分を叱咤した。
そしてオティーリエと同じ灰色のマインラートの瞳を真っ直ぐに見つめたまま、はっきりと首肯した。
マインラートは叫んで立ち上がった。
狭い部屋の中を歩き回って彼は雄叫びつつ涙し、そしてもう一度ユリアンを見た。
言葉はなかった。
互いにもう何も言うことはできなかった。
しかしマインラートがユリアンへと向けた瞳には、確かに感謝の光があった。




