第三十七夜 どうかこの熱を冷まして欲しい、とその雪に願った。
帰り際、登記管理局の別室に招じられた。
局長自ら、最初の身分登録官の言動について謝罪したいとのことだった。
「もう蒸し返して欲しくないのですが」
ユリアンが吐き捨てるように言うと、局長と副局長が無言で頭を下げた。
単にシャファトと事を構えたくないだけのことだろう。
「当人がここにいないということは、当人は謝罪の気持ちが無いということでしょう。
であれば、一刻も早くここを出たいですね。
ああ、登録をしてくれたまともな身分登録官さんは善い方だった。
それはお伝えしておきますよ、彼によろしく」
それだけ述べてユリアンは「いこう、オティーリエ」とその手を取って席を立った。
登記管理局の外に出る。
薄雲がかかった晴れた空が、冬の訪れを示唆するように高く薄く澄んでいる。
深く吸い込んだ空気もどこか張り詰めていて、もうすぐ雪が降るかもしれないな、とユリアンは思った。
「この後、皆はどうするんだい?」
「……コーヒーを飲みに行きましょう、てお話ししていましたの」
「いいね、最近は女性が集えるコーヒーハウスも増えたと聞いた。
楽しんできて」
「ユリアン様は……?」
「わたしは仕事に戻る。
冬期休暇前だからね、やることがたくさんある」
オティーリエの指先に口づけを落として、「じゃあ、五日後に」とユリアンはその手を離した。
「……ユリアン様」
歩き出したその背に、オティーリエの呼びかけは届かなかった。
ただその背を、オティーリエはじっと見つめた。
****
あの若い身分登録官だけではないことは知っていた。
朝廷へと戻る道すがら、苦い思いでユリアンは奥歯を噛み締める。
あのような意見を持っている人間は、掃いて捨てるほどいる。
ただユリアン本人にそれを告げる遠慮のなさを持ち合わせていたのが、あの身分登録官だっただけだ。
公には祝福されても、この結婚には翳が落ちる。
結局、イルクナー両氏の勾留執行停止は叶わなかった。
結婚式当日の面会は許可されたが、マインラートも同席できるかは回答を延期された。
第三師団の騎士たちは誰もが同情的であり、職務の範囲においての協力を惜しまない。
シュヴェンケ氏の言う通り、どうにもならないことが起きているのだろう。
今この時も、朝廷内で。
せっかく預けられた黒い鞄の中身は、まるで役立てられていない。
ただ、ユリアンの思いは変革された。
そのことはとても大きなことだった。
彼の生きる世界は、決して優しくはない。
恐らく父ヨーゼフは、その立場から何かしら感じていたこともあっただろう。
ゆえに、身分制議会の制定、という、反発しか得られない仕事にその身を捧げたのだ。
今ならば、それがわかる。
この国は、膿んでいる。
ユリアンがそれに気付けなかったほど、綺麗な外面をしているけれど。
ふ、と、ニクラウスの声が思い起こされた。
「どうしてイルクナー?」
彼はユリアンに、そう何度もしつこく訊ねた。
そしてそれはユリアン自身の疑問でもあった。
何故イルクナー? 何故彼らでなければならなかった? マンフレートがイルクナーの出であること以外に、なにか理由があるはずだ。
ニクラウスたちには必ず指示者がいる。
容疑者たち三名で行う犯罪にしては規模が大きすぎる。
そして、その先導者が上位貴族であると仮定した時に、ふと思いついてしまったことがあり、その内容が受け入れがたくて、ユリアンは思わず足を止めて天を仰いだ。父の顔が思い浮かぶ。
あまりのことに額に手を当てて目を瞑った。けれど一度芽生えてしまった不安は消えてはくれなかった。
喚き散らしたかったが喉が潰れてしまったようになって、代わりに嘆きの吐息が漏れた。
一般市民に門戸を開く身分制議会が制定された場合、一番に不利益を被るのは?
もちろん、それまで益を受けてきた者たちだ。
なんてことだ、とユリアンは思った。
声にならなかった。
議会に名を連ねる上位貴族たちの顔ぶれを思い出したくもないのに思い出す。
その内、身分制議会の成立に反対票を投じたのは誰だった? 父に、そして派閥間において厳正中立という立場を取るシャファトに、良くない思いを抱いているのは。
オティーリエと出会ったのは祝福だった。
そのことを否定したくない。
けれど、とても都合が良かったことだろう、実行犯であるマンフレートが出入りするイルクナーに、シャファトが近付くことは。
――捲き込んだのはイルクナーではない、シャファトではないか?
淡い雪が舞い降りてきて、額に当てたユリアンの手に落ちた。思い過ごしであってくれ。
どうかこの熱を冷まして欲しい、とその雪に願った。




