第三十一夜 いつかの声が響いたように思えた。
イルクナーに立ち寄って何か不足がないかを確認してからユリアンは家路についた。
本当はすぐにでも家に帰って鞄の中身を確認したかったけれど、必要な責任は果たさなければならない。
ユリアンが後にしたときよりも状況は改善されていた。
日常生活に響く部屋から順に調査がなされたためだ。
「こちらはなにもご心配いただかなくても大丈夫ですわ。
シャファトからのご援助すべてに感謝します」
マクシーネ夫人は鷹揚に微笑む。
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「……とんでもないものを預かったな、ユリアン」
夕食後、例の黒い革鞄のことを父にのみ告げ、人払いをして二人で父の書斎にこもった。
中身を検め、共に黙々と読み込んだ後、父から出た言葉はその一言だった。
結論から言うとユリアンも同じ心境だ。
なんてものを寄越してくれたのか、とケッペン氏の顔を思い浮かべて心のなかで責める。
その顔になにを言ったところで埒もない。
もう、ユリアンも父も知ってしまった。
それは、朝廷に置ける汚職の記録と、それにいずれかの上位の貴族が関与していること、また、この度の公文書の盗難とその容疑者の逃走にも、それらの者たちが与している、乃至、主導している可能性の示唆。
何も言えなかった。
なにも。
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一週間の休みの中で、為すべきことがありすぎた。
ユリアンの襲爵記念祝賀会の準備もある。
婚姻が済んでいないのでオティーリエはこれには参加しない予定であったのだが、身柄がシャファトにあるのでそれは難しい。
むしろここは参加させることによりシャファトの立ち位置をはっきりとさせる必要があった。
イルクナーと姻戚関係を結ぶことを否としていない。
また、イルクナーに咎はないとの見解を。
これではまるで晒し者だ。
けれど今取れる最善はそれだった。
ユリアンは家令のフースにひとりの侍女の紹介状を書かせ、暇を言い渡した。
「新しい御館様はお若いわね。
いわくつきの御令嬢を迎えるだなんて」
偶然耳にしたその言葉はシャファトには要らない。
王宮騎士団第三師団事務棟と、イルクナーと、我が家の往復。
手を尽くしたが、モーリッツ、マインラート両氏の釈放にはこぎつけられなかった。
そうこうしている間に第三師団によるイルクナー家の捜索も終わった。
「状況証拠しかありませんね」
ホルンガッハー氏はある時ユリアンにそう呟いた。
「これなら、きっと……」
それはイルクナーに関わる者全ての願いだ。
申請していた休みが尽きて、ユリアンは朝廷へと赴く。
上手く笑えるだろうか? 今まで通りに振る舞えるだろうか? もし周囲が、これまでとは違ったら。
なにを自問したところで答えは直面しなければ得られない。
「おはようございます」
扉を開けて出した声は、いつもの通りだったとユリアンは感じた。
「おはよう、ユリアン」
返ってきた言葉も声色もいつも通りだ。
けれど何もかもが違った。
ユリアンの目には違って見えた。
この中の誰かか。
誰かが皆を裏切っている。
「おまえさあ、そんだけ惚れたんなら、幸せにしてやれよ、その子。
おまえの嫁になるって決めたときから、その子にとっちゃ、おまえがすべてだ。
その手を取ったんだから、離すんじゃねえぞ。
絶対だ。
きっと、おまえにはそれができる」
いつかの声が響いたように思えた。
「おまえも幸せになれよ、ユリアン」
あの言葉も、嘘だったのか?
公示されていない事実について誰に述べることもできない。
腹の底にやりきれない不信感を沈めて、ユリアンはそれまでとは違う日常へと戻った。
ケッペン氏の言葉がただ胸にある。
「朝廷内及び上位貴族内での情報収集と調査を。
そうして、イルクナーが無実であることの証明を」
2019/12/25
「襲爵記念式典」を
「襲爵記念祝賀会」に修正しました。




