第十二章 外伝 暗転
第十二章の暗転に絡む出来事の、きれっぱしです。
ちらっと書いてみたくなったので書きました。
アインホルンのメンバー、誰も出ません!
せっかく書いたので、こちらにアップ。
深海、と呼ばれるネットワークがある。
インターネットの奥底、一般的な検索エンジンからはアクセスすることができないインターネットの深層……違法な情報と依頼、仮想通貨が飛び交う世界では、匿名性を確保した者同士が合法非合法問わずにやりとりをする。
アクセスする際に、特別な機器は要らない。無料のブラウザをインストールするだけで事足りる。しかし、何も考えずに一般人が一度足を踏み入れてしまえば、その経路を暴かれ、本来のIPアドレスまで漏洩することになりかねない。安易に手を出せば、これまでの生活すべてを失うことになる危険性を孕んでいる。
その中に、幻界に関する記述があった。
今となっては三つの世界を行き来する超越者、そして幻界においてはGMのひとりでもある彼女は、コンマ一秒も要することなく、それが記された瞬間、内容を把握した。そうでなければ「超越者」ではなく、また、彼女の管理者に頼られるほどの存在でいられないからだ。髪の毛を引っ張られるような感覚で、彼女はそれに気づいた。
――五月四日、だ。子どもの日なんて迎えさせてやるもんか。
事実も虚構も混在する深淵で、セリアは眉を顰めた。同時に、書き込んだ者が誰なのかを探る。匿名性を確保するために無数のコンピュータを経由する仕組みであれ、経路は存在する。そして、彼女は誰よりもこの世界の住人だった。
だが、セリアの役目は投稿者を把握するまでである。
頬に真白の指先を触れさせ、そっと溜息をつく。細めた紺青の瞳と流れる銀糸を光格子にきらめかせながらも、その場には誰一人として彼女の美貌を讃える者はいない。そして、彼女自身も、ディープ・ブルーでそれを求めてはいなかった。
「――智、現実はお願いね」
同意する者、囃し立てる者、その情報に付随するすべての足跡を拾い上げ、最終的な判断は現実にいる己の管理者に丸投げする。
仮想現実からでも、世界は越えられる。管理者の耳元の端末に囁かれたことばに、持ち主は口元を歪めた。
MRユニット《ガーファス》越しに開かれた無数のウィンドウの上に、問答無用に開かれた特別仕様の通知、その内容を理解すれば肩も落ちる。
「冗談?」
『投稿者は土屋大輝……幻界では現実における脅迫の事実によって永久追放処分になったプレイヤーよ。幻界内での通報、現実での暴行事件に関して警察や検察側に残された調書も見る?』
実際には、既にその資料をウィンドウで次々と見せつける始末である。個人情報どころか許可なしでの機密文書の閲覧だが、世界中どこを探しても彼女を裁ける法など存在しない。人でありながら、人ではない。地球上にその身体は存在せず、仮想現実にのみ像を結ぶ少女は、耳元で囁くだけではあきたらず、その姿を悩ましげにくねらせながら智の首へと両腕を絡ませた。
「いやいやいや、おまえな、その投稿者よりもスレッドに書き込んだ他の面子のほうがヤバすぎだろ!?」
『ふふふふふ』
土屋の情報をとりあえずとばかりによそへと指先で弾き、智は下へ隠れてしまったウィンドウを引き上げる。ひとつひとつの書き込みと、その投稿者が名前だけではなく、社会的地位やこれまでの皇海におけるトラブルの情報を含めて羅列されている。
さらさらと滝のように銀糸が視界の端で流れていく。
五月二日から五月五日にかけて、皇海ゲームショウが開催される。幻界もまた出展しており、今回は特に、ドゥジオン・エレイムというアトラクションを用意していた。ゲーム内で手出しができないなら、と考えるならば、うってつけの大舞台である。
だが、一般人である管理者にできることなど、たかが知れていた。
警備体制の強化、人員増強……この程度ならば、運営側への働きかけで可能だろう。一ゲームメーカーであるセイレーンが別に依頼を行なうより、余程横の連携が取れるはずだ。
警察のほうへの漏洩は、セリア自身が既に行なっている。警察もディープブルーを巡回しているものの、英語圏である上に情報が多岐に渡り、把握しきれていないのが実情だ。だが、皇海市のある県警には特殊な事情があり、県内における検挙率をこの二十年ほど他県よりも十%以上引き上げていた。
その特殊な事情が、管理者の携帯電話の呼び出し音を響かせた。
『お仕事熱心ね』
「私用電話だろ」
『あら、彼があなたに個人的なことをお話したのは、咲椰伽との結婚が決まった時くらいでしょう?』
「麗しき友情。マジ泣けてくるよなー。
――よぉ、渉」
警察による巡回の数も、これで増やせる。
問題は、表立って動けなくなった時のことだ。違法な行為に対し、合法な行為で対処しきれないことがある。
皇海学園の抱える闇が、ひっそりと手を伸ばしている。子どもの戯言だけで済めばいいが、事をすべて公にすれば、その飛び火はゲームショウを荒らすだけでは済まない。
もしもの時の動かせる駒、しかし、できれば子どもたちを使いたくない。
それは単なる、大人のこだわりだった。
子どもが、子どもの日を拒む。
その虚しさはどこか胸を突いた。一歩間違えれば、自分もディープブルーで遊び、誰かを陥れる人生を歩んでいたかもしれなかったころがある。
しかし、智自身はもう、愚かな子どもではいられない。気持ちがどれほどあの時代を懐かしもうと、自分たちは今を生きている。だから、守りたいものを守るために、打てる手をすべて打ち、そして――排除する、だけだった。
暗転。
闇の中でも、MRユニットは生きる。
智は皇海国際展示場の補助操作卓の前に鎮座し、ドゥジオン・エレイムの余韻を一呼吸で振り払う。
「――来澄」
その呼びかけに合わせて、コール音に続いて回線が繋がる。かつて、AGEのメンバーに与えた端末は、如何なる妨害電波も受け付けない。今もなお、彼もまた衛星電話代わりにしばしば使っていた。
『智さん?』
「ちょっと手ぇ貸してくんない?」
『えー……と?』
「かわいい息子の雄姿なら、もう見ただろ? さすがに今呼び出しかけるとかわいそうでさ」
『――医者として、ですか?』
「まさか」
お互い、一児の親となって幾年月が過ぎただろう。
それでも、彼の腕前が衰えたとは思わない。むしろ、メスを握る手はよりその扱い方を磨いているのではなかろうか。
彼の息子にチケットを融通したのは、智自身だ。
渉の息子と来るかと思っていたが、実際には幻界の友人たちとのオフ会としゃれこんでいて、その実力も見させてもらった。
楽しげに戦う様子は、いつもの彼と同じようで違う。全力で仲間を想う様子に、目を潤ませたのもまた事実だ。
そして、その父親の宿直明けが今朝であったことも、もちろん智は把握済みである。めったに姿を見ない息子の、楽しく遊んでいる様子など見たいに決まっているではないか。
「非常電源までのルートにいちゃいけない人間が物騒なもん持ってうろうろしてるんだよ。寝かせておいてくれないか? 道案内に、セリアを送る」
『――了解しました。
拓海のために、一肌脱ぐとしましょう』
徹夜明けなどものともせず、実に朗らかな声で友は応えた。そして通信は途絶える。
これで、暗部は片付く。
そして同時進行で起こる、十分で片づけなければならない大規模な騒乱を――ただのちょっとしたトラブルで済ませるための、戦いが始まった。




