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第36話 上月の複雑な気持ち

 上月は、結局学校に姿を見せなかった。


 あいつのことなんて別段気にかける必要はないのだが、昨日のあの泣き顔がどうしても脳裏から離れず、帰宅してからも気になって仕方がなかった。


 家に着いて休んでいても熱は下がらないし、むしろ本格的に上昇してきている気すらするが、やれやれ。俺から上月の家に出向いてやるしかないか。


 コンビニで買ったカレーパンを呑み込んで、漢方の苦い風邪薬を胃に流し込む。風邪で調子の悪くなっている腹にパンが入り込んでかなり気持ち悪いが、都合よくお粥をつくってくれる人なんて俺にはいないのだ。


 かなり寒気がするので、家を出る前に体温計で測ってみると、体温が三十七度九分まで上がっていた。明日からいよいよ風邪で寝込むことになりそうだ。


 キッチンの棚に常備しているマスクを耳にかけて、一階下にある上月の家へと向かう。そういえば、あいつの家に行くのは何ヶ月ぶりだろうか。


 扉の横にあるインターフォンのボタンを押すと、すぐに上月の母さんから応答があった。俺の名前を告げるとすぐに扉を開けてくれた。


「あら、透矢くん。……マスクなんかして、風邪引いちゃった?」

「あ、はい」


 おばさんは四十歳くらいの、とても気立てのいい人だ。背は上月と同じくらいで身体がとても細いから、年齢を全く感じさせない。かなり美人だ。


 俺の死んだ母さんの親友だった人だが、俺にとっては年上の大人の女性だ。だから、この人の前に立つとかなり緊張してしまう。


 でも、おばさんは俺のことをなぜか気に入ってくれているから、食事のことなど色々と気にかけてくれる。とてもいい人だ。


 おばさんは嬉しそうに微笑むと、俺の顔をしばらく見つめて、


「透矢くんがうちに来るなんて、めずらしいわね。麻友に用事?」

「はい。うちにいます?」

「ええ。いるわよ。ちょっと待っててね」


 そう言っておばさんは扉をそっと閉める。そこで緊張が途切れて、俺は溜まっていた息を吐いた。


 おばさんはすごくきれいな人だから、面と向かって話すのはやはり苦手だ。ものの数秒しか話していないのに、背中から大量の汗が流れ出てたしな。


 でも、一人暮らしをしている俺のことを一番気にかけてくれている人だから、苦手だなんて絶対に言いたくはない。


 風邪の寒気を外で我慢すること一、二分。上月が出てくると思っていたが、扉を開けたのはおばさんの方だった。


「ごめんね。麻友は出たくないって」

「そうですか」


 上月はまだ拗ねているのか。それなら仕方ない。あいつに謝るのはあきらめるか。


「透矢くんがせっかく来てくれたんだからって、説得してみたんだけどね。あの子もなかなか頑固だから。……麻友とけんかしちゃった?」

「え、ええ。別に大したことじゃなかったんですけど、ちょっと」

「そうなんだ。いつもごめんね」


 いえいえ。おばさんは何も悪くないですから。


 この調子でいると話が長引いてしまいそうだったので、俺は持ってきたビニール傘とタオルをおばさんに渡した。


「あら、どうしたの? それ」


 上月に昨日投げつけられたものだが、借り物だからちゃんと返さないといけないよな。


「昨日、あいつが持ってきてくれたんです。雨が降ってたから」

「あらっ、そうだったの? 全然知らなかった」


 えっ、知らなかった……?


 上月はたしか、お母さんに言われて仕方なく持ってきてやったって、言っていたはずだけど。


 けどおばさんは、不思議そうな顔で傘とタオルを受けとって、


「昨日、あの子が帰ってくるなりタンスを開けてごそごそと何かを漁ってたから、何してるのかしらって思ってたけど、これを持ち出してたのかしら?」


 そうだったのか。


 それなのに、俺はあいつの言葉を真に受けて、ひどい言葉を投げかけてしまったのか。……上月、すまないな。


「用事はそれだけ?」

「あ、はい。すいません。夕飯の支度してましたよね?」

「ふふっ、いいのよ。透矢くんと話ができて、おばさんは嬉しいから」


 そんなことを言われると照れちまうから、やめてくださいよ……とは言えないよな。


 おばさんは俺が照れ隠しに苦笑しているのに気づいてか、嬉しそうに微笑んだ。


「麻友がいつも押しかけて、ごめんね」

「いえ、別に」

「あの子は口が悪いから、強く言われてイライラしちゃうこともあるでしょ? そういうときはおばさんに言ってね」

「あ、いえ。そんな」


 おばさんは謙遜して言ってくれているが、この人にとって上月は可愛い一人娘だ。だから間違ってもこの言葉を真に受けてはいけない。


 俺は少し考えて、伝える言葉を選んで、


「あいつは、言い方はまあ、少し厳しいと思うときがありますけど、間違ったことは言わないし、全部俺のことを想って言ってくれてるから、いいんですよ。むしろありがたいっす」


 俺の容量の小さな脳ではこれくらいの世辞しか言えないが、おばさんは喜んでくれるだろうか。


「透矢くんは優しいのね」

「いえ別に。そんなことないっすよ」


 昨日は感情にまかせて、あいつを怒鳴り散らしちまったしな。


「すいません。じゃあ、今日は体調悪いんで、この辺で失礼します」

「ああ、そうよね。じゃあ今日はうちでご飯食べてく?」

「いえ。今日は食欲が沸かないんで、家でずっと横になってます」

「あら、そお? 起きれなかったら、いつでも言って頂戴ね。差し入れとお薬持っていくから」

「わかりました。ありがとうございます」


 おばさんはやっぱりいい人だ。俺は丁重に頭を下げて、おばさんと別れた。



  * * *



 家に帰ってからはテレビも見ずに十八時から寝室で寝込んでいたけど、熱は全然下がらない。


 明日からゴールデンウィークがはじまるっていうのに、布団で寝て過ごすって、最悪だな。あのままみんなで遊園地に行っていたら、もしかしたら今ごろ妹原と付き合っていたかもしれないというのに。


 ……いや、それは百パーセントあり得ないな。調子に乗ってつい妄想をしてしまったが、妄想はすればするほど現実の自分がむなしくなるだけだから、あまりやらない方が身のためだよな。


 ほら、余計なことを考えたから頭がまた痛くなってきた。


 スマートフォンのメーラーをチェックしても、メールは一通も来ていないし、身体を起こしてゲームをする気力もわかない。


 無意味にだらだらしていても仕方ないから、今日はもう寝るか。まだ夜の八時前だけど。


 シャワーを浴びておきたいけど、今は超絶に寒気がするからそれもかなりきびしい。


 明日はどうせどこにも行かないし、だれにも会わないだろうから、シャワーを浴びるのは断念しよう。


 俺は部屋の電気を消して、厚手の布団に包まった。


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