第194話 心で選ぶか、考えて選ぶか
「弓坂と雪村のどちらかを選べと言われたときはつらかったな」
山野がビリヤード台に左手をついてキューをかまえる。キューの先を二度ストロークさせて、白い手球の芯を撞いた。
軽めの夕食を終えて、俺たちは映画館の近くにあるビリヤード場へ向かった。ビリヤードをしようと山野がいきなり提案してきたからだ。
俺はビリヤードなんて一回もしたことがないから乗り気じゃなかったけど、ビリヤード場のおしゃれな店内に入って考えが少し変わった。
明かりの少ない店内は薄暗くて、バーみたいに雰囲気が落ち着いている。客層はサラリーマンなどの社会人ばかりだから、みんなゲームに集中していて口数が少ない。
こんな大人びたところでデートできたら、女子はすごく喜びそうだよな。機会があったら使ってみよう。
「そういえばあのとき、お前はどうやって弓坂を選んだんだ? 参考に聞かせてくれよ」
山野が撞いた手球は黒の的球を落とせなかったので、俺の番がまわってきた。子どもの頃にテレビで観たビリヤードの選手の構えを真似てみるが、キューの先端は手球の左端をかすり、情けない音がフロアに響いた。
「お前、ビリヤード下手だな」
「うるせえ」
ビリヤードをするのは今日が初めてなんだ。ルールすらよく知らないのに、球なんてうまく当てられるわけないだろ。
山野が手球をとって向こうの穴――ポケットというらしい――の近くへ移動する。ポケットの傍に置かれている四番の的球の手前に手球を置いた。
「俺の場合は、お前と違って答えが決まっていたからな。選択の余地はなかったんだがな」
山野が手球の真ん中を正確に撞いて、四番の的球をポケットへ落とした。
「そうなのか?」
「ああ。前にも言ったが、雪村は夢を叶えるためにドイツへ渡ったからな。雪村とよりを戻すことは現実的ではないとわかっていたから、あいつを選ぶ余地なんてなかったんだよ」
その割りにはずいぶんと悩んでたじゃないか。
「だったらあんな思わせぶりなことをしないで、弓坂とさっさと付き合っちまえばいいじゃねえか。弓坂はお前の返事を待ちわびてるんだぞ」
「まあそうなんだが、そう簡単に答えを出せない事情があったんだよ」
山野はこちらに向かってキューを構え、十二番の的球を狙う。右側を当てられた的球は反対側に空いている左のポケットへ直進するが、狙いがわずかに外れて的球はポケットの手前で止まった。
「事情?」
「簡単に言っちまえば俺の気持ちだ。雪村とよりを戻すことなんてできないと頭でわかっていても、気持ちがついて来ない。過去の恋愛と決別しろと何度も自分に言い聞かせても、あいつとすごした思い出やあいつの笑顔が思い浮かんで、俺の決断を阻害するんだ」
過去の思い出が今の決断を阻害する。
「弓坂の泣く姿を見て、俺は焦った。あいつの涙の原因が俺にあると知って、このままじゃいけないと何度も思った。だがいくら自分に言い聞かせても、俺の心の奥底に潜んでいるもうひとりの自分が意固地になって動かなくなるんだ。呪縛されてるんじゃないかと思っちまうくらいにな」
お前も今の俺が感じているような苦痛に悩まされていたんだな。
「心や考えというのは不思議だな。心と考えは同じようでまったく違う。考えは理性で制御されるものだから、自分の都合や状況に応じて色や形を自由に変化させることができる。だが心は違う。心は感情や無意識から発せられるものだから、都合よく変化させることができない」
山野の言っていることは真理をとらえていると思う。
理性や考えだけですべての悩みや問題が解決できるのなら、ひとつの課題で何日も悩むことにはならないのだ。状況や将来性、また損得や確実性を考慮して堅実な選択をすればよいのだから、思考に頼った問題解決の仕方はある意味で単純だといえる。
心が言うことを聞かないから厄介なのだ。
人の心は損得で動かない。たとえ大損するとわかっている選択であっても、その選択が真に自分にとって価値のあるものならば、心はなんのためらいもなくその選択を決断させるだろう。
選ぶ相手が自分にとってかけがえのない人であったのならば、心はわき目も振らずにその人を選ぶのだと俺は思う。
「だが俺は最近よく思うんだが、考えに遮られない、感情や無意識から発せられるものこそが、俺の本性というか核となる部分なんだと思うんだよ。自分の都合で変化させる考えや意見は決して本心ではない。だから俺は、簡単に弓坂を選べなかったんだよ」
だらだらとはじめたゲームを中断して、俺はウィンナーと鶏のから揚げを注文した。ハンバーガーとフライドポテトだけでは空腹が満たされなかったのだ。
「前に付き合っていた、思い出補正のかかった元カノと弓坂じゃあ、即決するのは難しいかもな」
「わかってくれたか」
「だが山野。弓坂だっていいやつだし、あいつとの思い出だってたくさんあるだろ。それなのに、お前の核の部分が未だに弓坂を選んでいないなんて言ったら、俺はこの場で切れるぞ」
山野の気持ちは充分に理解できたが、俺にとってはこいつの元カノよりも弓坂が大事なんだ。だから、こいつにとって弓坂の価値が未だに元カノよりも低いだなんて、絶対に言ってほしくない。
壁際のテーブルを挟んで座る山野が俺を正視する。そして「やれやれ」とつぶやいた。
「お前の友達にかける思いの強さには、毎度ながら脱帽させられるな。お前のそういう思いの強さが、あいつ――上月を動かしたのだろうが」
そうなのか? 当事者の俺には、あいつの真意を窺い知ることはできない。
「弓坂のことなら心配するな。あれから時間をかけて俺の気持ちはあいつへ向いた。あいつを捨てるようなことはしない」
「それなら、あいつへ気持ちを伝えてやれよ。あいつはお前の告白をずっと待ってるんだぞ」
すると山野はまた俺を正視してしばらく硬直した。意外と長い睫毛が何度か動く。
「今日はお前の恋愛相談をされるために来たはずなんだが、なんで俺が説教されてるんだ?」
言われてみれば、たしかにそうだ。なんで俺は腕組みしてこいつを睨みつけてるんだ?
「お前にそう言われたんじゃ、仕方ないな。いつか言わなければいけないと思っていたから、家に帰ったらあいつに電話するか」
山野は意外と優柔不断な男だが、ついに決断したみたいだった。よかったな、弓坂。
「それで、お前の思考と核の部分は答えを導き出せたのか?」
山野が反撃とばかりに問い詰めてきた。
「どうだろうな。まだ漠然としたままだな」
「だろうな。俺と一回話したくらいで解決できるのなら、何日もかけて悩む価値などないだろうからな」
山野が腰を上げる。ビリヤード台に置いたキューと手球をとって台の向こう側へ移動する。
「どちらも良くて選べないんだったら、発想を変えた方がいいかもな」
「発想を変える?」
「そうだ。つまり良い方じゃなくて悪い方――という言い方はかなり語弊があるな。振ってより後悔するのはどっちなのかを考えてみるのはどうだ?」
振ってより後悔する方を、考える……?
「お前にとって妹原も上月も大事なやつだ。つまり妹原をとっても上月を選んでも、お前は結局後悔するということだ。妹原を選べば、上月との過去や思い出がお前を苦しめることになる。だが上月を選んでも、妹原とすごした時間やこれまでの苦労を思い出して後悔するんじゃないか」
「そうだな」
「ということは、どちらを選んでもお前は後悔しちまうんだ。だから発想を変えて、なるべく悔いが残らない方を選ぶようにすれば、少しは決断しやすくなるんじゃないか?」
山野がキューを構えて手球を撞く。手球は十四番の的球に当たり、的球は右端のポケットに収まる。
「悔いが残らない方を選ぶ、か。その発想は思いつかなかったな」
「俺もとっさに閃いたものだ。これが正しいのかどうかは、よくわからないぞ」
いつも論理的な意見で詰め寄ってくるのに、珍しいな。思わず苦笑してしまった。
「心配するな。こんな難問に即答できるやつは、きっと人間じゃねえ。それにいいヒントがもらえたから、気持ちがだいぶ楽になったぜ」
「そうか」
壁にかけたキューをとって立ち上がると、さっき注文したウィンナーと鶏のから揚げが運ばれてきた。




