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第192話 選べない

 俺は結局ほとんど歌わずにカラオケボックスを後にした。桂が今度は「じゃ、次はゲーセンに行こうぜぇ」と言い出したので、俺はそれを断って三人と別れた。


 身体が重たいからまっすぐに帰ろうか。でも暗くなるまでまだ時間があるから、このまま帰ったらなんだか勿体ないな。


 目に付いた駅ビルに目的もなく入って、エスカレーターで上の階へと昇る。


 クラシックコンサートの前に妹原とエスカレーターに乗ったっけな。あのときはこんなに大きな葛藤に悩まされるなんて思ってもみなかったけど。


 冬休みのせいか、駅ビルは制服を着た学生や家族連れの客がたくさんいる。みんなすごく楽しそうで、そのはち切れんばかりの笑顔を眺めていると、悩みを抱えている人間なんて俺ひとりしかいないんじゃないかと錯覚してしまう。


 上月の気持ちはいつごろから変化したのだろう。


 母さんの葬式を迎えたときは、そんなことに気を配る余裕はなかった。


 母さんが死んでしまったショック。葬式に来ない親父へ膨れ上がってゆく憎悪。そして将来に対する不安が俺の胸のほとんどを占めていたから、あいつの気持ちが変わることなんてまったく予見できなかった。


 母さんが死んだ中学二年の一学期からあいつが急にあらわれて、俺の家で勝手に料理をつくり出した。「お母さんがやれって言ったから、仕方なくやってあげてるんだからねっ」って心の底から嫌そうに吐露していたのに。


 書店のフロアでエスカレーターを降りて、書籍を買う宛てもなくぶらぶらと歩く。ライトノベルのカラフルな背表紙を眺めても、気持ちがちっとも明るくならない。


 俺はあいつに、妹原と仲良くなりたいから協力してくれと懇願した。あのとき、あいつはどんな気持ちでそれを聞いていたのだろうか。


 わからねえ。いくら考えても答えが導き出せない。


 妹原のことが好きなんだから、あいつを振ってしまえばそれで終わりなんだ。返事するのがつらいなら、返事を曖昧にして今の関係を継続する方法だってある。


 でも、でも……そんな方法でいいのか。あいつをそんなふうに扱うことができるのか。


 俺はあいつに何度も助けられている。困らせられたり、頭に来ることだってたくさんあるけど、そんなものを軽く超えるくらいに俺は恩を感じているのだ。


 あいつを粗雑に扱うことなんて、絶対にできない。


 それなら妹原のことを諦めるのか。妹原をずっと思ってきたのに、それこそすっぱり諦めることなんてできるのか。


 わからねえ。どうすればいいのか、俺にはわからねえよ。透明のプラスチックの袋に包まれた名前も知らないライトノベルをにぎりしめたまま、俺は動くことができなかった。



  * * *



 日が暮れる前に外をぶらぶら歩いたが、明確な答えを出すことはできなかった。


 家に着いたときには午後の五時をすぎていた。暗い廊下を進んでリビングの電灯をつける。


 クリスマスパーティのときに出たゴミは粗方処分した。小奇麗に整頓された部屋は物が少なくて居住スペースが広く感じる。


 うちってこんなに広かったんだな。十年以上も住んでいるのにまったく気づかなかった。


 着ているダッフルコートを床に脱ぎ捨てる。ソファに腰を落とすと、身体が背もたれに引きつけられるような気がした。


 桂たちとカラオケしに行っただけなのに、身体が鉄の塊のように重い。寝転がると身体が起こせなくなりそうだ。


 リビングの天井を見上げながら、上月への返事を考えつづけている。考えたところで答えなんて出ないのだが。


 上月は、俺みたいなへたれでいいのだろうか。


 あいつだったら、俺なんかよりもいい男をたくさん見つけられる。あいつを好きだという男は多いし、前にだって中越みたいなイケメンの先輩から猛烈なアプローチを受けていた。


 あいつがその気になれば他の男とすぐにでも付き合えるのに、自分の魅力に気づいていないんだろうな。俺が言うのは変な気がするが、勿体ないやつだと思う。


 玄関のチャイムがリビングの静寂を破る。こんな時間に俺に用事があるのはだれだ。


 夜にうちに来るのは上月しかいない。最近は胸がどきどきしてばかりだな。心臓の動かしすぎで早死にするんじゃないだろうか。


 あいつと話すのはすごく気まずい。けど無視するわけにはいかない。


 玄関の扉に恐る恐る近づいて覗き穴に目を近づける。視線の先に映っていたのは予想に反して上月の母さんだった。なんだ、上月じゃないのか。


「どうも」

「こんばんは、透矢くん。お休みのところお邪魔しちゃったかしら」

「あっ、いえ」


 おばさんは今日も細くてきれいだ。肩にかかるセミロングの髪を後ろでくくり、薄い黄色のエプロンが家庭の温かくて慎ましやかな雰囲気をかもし出している。


 この人がきれいだから上月もきれいなんだよなと、密かに得心する。


「はい、これ」


 そう言っておばさんから持っていたタッパーを差し出された。青い蓋のタッパーは底が温かい。出来立てのお料理を持ってきてくれたのか。


「あの子、最近透矢くんにごはんをつくってないんだってね。肉じゃがたくさんつくったから、よかったら食べてね」

「あっ、どうもっす」


 おばさんの料理の腕前は折り紙つきだ。上月に料理を教えているのはだれでもない、この人なのだから。


 おばさんは俺と上月の状態をどれだけ知っているのだろうか。俺があいつを泣かせたと知ったら、赫怒してこの肉じゃがを取り上げるだろうか。


「あいつはどうですか? 元気にしてますか」

「そうねえ」


 おばさんは胸の近くで組んだ腕を上げて頬杖をついて、


「この前からあんまり元気ないわねえ。今日もずっと部屋に篭ってるし」


 怪訝そうに眉をひそめて話してくれる。俺とあいつが気まずくなっていることを知らないようだ。


「あの子の機嫌が悪くなるのはいつものことだから、そのうちに機嫌を直して部屋から出てくるでしょ」

「そうですね」

「もう子どもじゃないんだから、あの子にまかせておけばいいのよ。だから透矢くんは何も気にしないでね」


 なんというか、おばさんは意外とあっさりしてるんだなあ。あいつのことをもっと真剣に心配するのかと思ってたけど、そうじゃないのか。


 おばさんは大人のしっかりした女性だから、あいつの元気がない原因が俺にあったと知っても責め立てたりしないかもしれない。大人というのは、そういうものなのかな。


「ところで透矢くんは、来年のお正月もうちでおせち料理食べるでしょ?」

「えっ、おせちですか」


 急に正月の話に変わったな。一月一日はうちにだれも来ないので、夜に上月の家にお邪魔して夕飯をいただくのが恒例になっている。


 上月のうちのおせち料理はものすごく豪華で、まぐろたいの刺身から、伊達巻、紅白の蒲鉾かまぼこ、黒豆といった定番の料理、数の子や小魚みたいな名前のよく知らないやつまですべてきっちりと用意されるのだ。


 終いにはお年玉までくれるから、俺は毎年当たり前のように通っていた。


 けれど今回は、とてもそんな気分で行くことはできない。すごく残念だけど、適当に理由をつけて断ろう。


「あの、正月は友達とちょっと用事がありまして、うちに行けそうにないんですよ」

「あらあ、そうなの? 来年も透矢くんが来ると思ってたから、準備してたのに」


 おばさんの言葉が鋭利な矢となって俺の胸に刺さる。俺なんかのために毎年おせち料理を用意してくれているのに、申し訳ありません。


「お友達と用事があるんじゃ仕方ないわね。二日と三日はおばあちゃんのうちに行っちゃうけど、他の日はうちにいるから、気が向いたら来てね」

「わかりました」


 今年は顔を出すことはできないけど、お礼だけはちゃんとしておきたい。俺が六十度くらいまで腰の角度を曲げて頭を下げると、おばさんは苦笑して「透矢くんは律儀な子ね」と褒めてくれた。


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