第190話 振り向いてくれない
上月は愕然と立ち上がって、息の詰まりそうな表情で身体をふるわせていた。
青い唇はかすかに動いていたが、制御の利かない口から声が出ない。凍えているように下唇を小さく動かしているだけだった。
まるで人殺しに襲われている被害者のような表情だ。一夜で俺は、恐怖の対象になってしまっていたのか。
「上月っ!」
上月がしどろもどろになって逃げ出す。持っていたハンドタオルを落としたことにも気づかずに去っていこうとするものだから、俺は無意識に追ってしまった。
「待てよ! なんで逃げるんだっ!」
ビニール袋に入っているコンビニ弁当が大きく揺れる。重いプリンが重りになって、振り子のようにビニール袋が動く。
こいつになんて声をかければいいのか、わからない。でも、不当に怖がられて気まずくなるのは嫌だっ。
上月はエントランスの前で足を止めた。細い背中をまっすぐに向けて佇んでいた。
心臓がどくんと跳ね上がる。とっさに追いかけてしまったけれど、何をしゃべれば許してくれるのだろうか。
「げ、元気か。昨日は、みんな心配してたんだぞ」
思いつくことなんて昨夜の出来事しかない。胸から警鐘が鳴り響いているが、何かをしゃべらないと気まずさで押しつぶされてしまいそうだ。
「あの後、さ。山野から、いろいろ聞いて、その悪かったと思ってる。……あんなふうになっちまったのは、俺のせいなんだろ」
直接的に言うのは憚れるけど、話し方が全然うまくないからオブラートに包んだ言い回しができない。
上月の後ろ髪がかすかに揺れているような気がした。冷たい空気から酸素が抜けて息苦しさを感じる。
「早く謝りに行こうと思ってたんだけど、その、部屋はまだ片付いてねえし、飯も……ほら。まだ食ってねえからよ。だから、飯を――」
「きもいって言いなさいよっ!」
上月が突然、叫んだ。
「なっ――」
「お前みたいなブスがっ、なに欲情してんだよって、言いなさいよっ。……そうすれば、全部終わるんだから」
持てる力のすべてを出して発した、心の叫びだった。
お前は、どうしてそうやって自分を傷つけようとするんだっ。
「言えるわけねえだろっ! そんなこと、思ってもねえのに」
俺の心がわなわなとふるえる。俺は何に対して怒っているんだ。
「嬉しかったよ。そんなふうに見られてるなんて、思ってもみなかったから、すげえ驚いちまったけど」
恥ずかしさと緊張で頭が白くなりかけてる。でも、歯を食いしばって耐えるしかない。
「お前は、ブスなんかじゃない。充分に魅力的な、いい女だ。だから、そんなふうに、自分を傷つけるようなことは言うな」
もっと優しい言葉をかけなければいけないのに、顎の筋肉が強張って口が動かない。ライターの火を顔に近づけたら、顔から火が燃え盛ってしまいそうだった。
気まずい沈黙が流れる。上月は決して振り向こうとしない。
今はどんな顔をしているのだろうか。怒っているのだろうか。それとも泣いているのだろうか。
「昨日は、ごめんなさい。せっかくのクリスマスだったのに、空気を乱すようなことばかりして」
その口調は、普段から聞くものと同じだった。
「気にするなよ。トップとヅラは文句を言ってたが、あいつらは俺が黙らせておく。またみんなで集まってパーティやろうぜ」
俺が言えることなんて、これが精一杯だ。上月、すまない。
上月が右手を強くにぎりしめた。
「落ち着いてからでいいから、返事を聞かせて。どんな返事でも、受け入れるから」
そう言い残して、上月はエントランスの奥へと消えていった。
俺はその場でへたり込んでしまった。
* * *
山野の言葉は、浅はかな責任逃れなんかじゃなかった。
上月はあんなにサインを出していたのに、何も気づけない。気がつかない。俺はくだらない過去に束縛された、つまらねえ能天気野郎だったのだ。
寒空のベンチに腰かけてコンビニ弁当を取り出す。弁当のごはんにコロッケや佃煮が乗っかり、逆にごはんがハンバーグの上に乗り上げている。
コンビニの店員が丁寧に袋に入れてくれたのに、見るも無残なごちゃまぜ弁当が俺の両手につかまれていた。
プラスチックの冷たい底を腿に乗せて、透明の蓋を開ける。コロッケとごはんを割り箸でつまんで、口へ放り込んだ。
「まずっ」
冷めたコロッケとごはんはまったく味がしない。中学校の調理実習でつくらされた料理みたいな味だ。
北風が吹いて手がかじかんでくるけど、部屋に戻る気がしなかった。どうしてだろうか。
俺は食べかけのコンビニ弁当に蓋をした。上月が持っていたハンドタオルを見つめた。
クリーム色のハンドタオルは砂がついて少し汚れている。両手でつよくにぎりしめていたのか、乾いた布はくしゃくしゃに折れ曲がっている。
――落ち着いてからでいいから、返事を教えて。
そんな決定権が俺にあるなんて、間違ってる。ふられるのだとしたら、それはあいつじゃない。俺の方だ。
それなのにあいつは、自分からふられようとしているんだ。きっと妹原や俺に申し訳ないと思っているから。
俺はどうしたらいいんだ。あの背中が脳裏に焼きついて、さらにわからなくなってしまった。
あいつを悲しませたくはない。けれどそれは、妹原と過去の俺を否定するということだ。
妹原の思いを断ち切るのか? うちの高校へ入学してから、がんばりつづけてきたのに。
俺は箸を止めて空を見上げた。冬の空は雲が高くて、空の彼方まで見られてしまいそうな気がした。




