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第187話 上月の涙

 上月は泣いていた。しくしくと声にならない涙を流して。


「えっ、なになに? 何があったのぉ?」

「さ、さあ」


 テレビの前で間抜けな声を出す桂に松原が相づちを打つ。突然のできごとに戸惑わないわけがない。


「麻友ちゃんっ、だいじょうぶ!? お腹でも、痛くなっちゃったのぉ?」


 弓坂が懸命に上月を励ますけど、上月は顔を上げてくれない。細い肩をふるわせるだけだった。


 どうしたんだよ。何があったんだよ。


 気の強いあいつが泣く姿は、そんなに見たことがない。俺の母さんのことになると妙に涙もろくなるけど。


 みんなが近づかないようにしていたから、仲間はずれにされたと勘違いしているのか? そうじゃないっていうのに。


 妹原も山野も困り果てて、急変してしまった上月の対処に苦慮していた。みんなで楽しいひと時をすごしていたのに、こういうときはどうすればいいんだ。


 弓坂はもらい泣きして、俺や山野に視線を送るが、どうすればいいんだよっ。俺だってわかんねえよっ。


 上月のすすり泣く声しか聞こえない時間が何分間つづいていたのだろうか。沈黙を破ったのは山野だった。山野はワークステーションの電源を切って、テレビの画面を消した。


「気づけばもうこんな時間だな。宴もたけなわだし、この辺りでお開きにするか」


 俺は反射的に壁掛け時計を見上げた。時刻は夜の八時半を過ぎている。


 宴もたけなわというほどの時間ではないが、帰り支度してもいい微妙な時間だな。山野の発言は時間を最優先としたものではないけれど。


「そうね。九時前には帰らないとお母さんに怒られるし」

「ええっ、マジかよぉ。もうちょっとだけ、遊んでいこうぜぇ」


 桂は空気を読まない主張をしたが、それは木田と松原に拒否された。これだけ盛り下がってしまったら、おとなしく解散するしかないだろう。


「弓坂は上月を家まで送ってやってくれ。後片付けは俺たちでやっておくから」

「う、うんっ」


 弓坂が上月を抱いて、「麻友ちゃん。帰ろうっ」と言って、やっと上月が動いてくれた。


 でも、こいつの泣いている姿なんてとても直視できない。俺は片肘をついて、リビングのカーテンを見つめた。



  * * *



 キッチンの棚から四十五リットルのゴミ袋をふたつ取り出して、山野と松原に渡した。


「適当でいいから、ゴミを分別しておいてくれ」

「わかったわ」

「燃えるゴミと燃えないゴミで分けるのか? 空き缶とかペットボトルは分けないのか?」


 こんなときでも山野は冷静なんだな。俺は頭の後ろを掻いた。


「空き缶とペットボトルは分けないといけないな。面倒だけど、こっちに入れてくれ」


 さらにふたつのゴミ袋を取って山野へ渡した。


 妹原と話してばかりいたから全然気づかなかったけど、部屋はかなり散らかっていた。テーブルの上はジュースの空き缶とスナック菓子の袋でまみれている。


 空のペットボトルは床に転がり、お茶が少しこぼれていた。ピザの入っていた平らな箱も、乱雑に床の隅へ積まれていた。


「あーあ。せーっかく盛り上がってたのによぉ。俺のテンションがた落ちだぜぇ」


 桂がペットボトルをゴミ袋へ入れながらぼやいた。


「みんな乗ってきたから、そろそろ格ゲーでライトっつぁんの神技を披露してもらおうと思ってたのによぉ」

「だよな。上月氏のせいで、すべて台無しになってしまったな」


 木田の発言で静かに圧迫されていた空気が一瞬で張り詰めた。松原が「ちょっとぉ!」と奇声を上げた。


「あんたら、なんていうことを言うのよっ。あの子が可哀想でしょっ!?」

「そんなこと言ったってぇ! じゃあ、なんなんだよっ。いきなり泣いたりして、俺たちなんかしたわけ!?」

「そんなの、知らないわよっ。あたしはっ、あの子の気持ちになって考えなさいって、言いたいだけ」

「あいつの気持ちになってと言われても、泣いた理由がわからないのに、どうやって考えろというのだ?」

「うっ、それは――」


 間抜けな木田にしては冷静な反論だった。松原は返答しかねてそっぽを向いてしまった。


 でも松原の気持ちはわかる。木田や桂の意見も一理ある。


 上月は繊細だから、やはり俺たちの態度から疎外感をもってしまったのだろうな。そう考えるのが妥当な気がするが、どこかしっくりこない。


 妹原に意見を求めようと思ったけど、妹原は弓坂みたいに泣き出しそうだったから声をかけられなかった。顔を赤くして唇を小さくふるわせている。


 片付けする手を動かすことすら億劫なようだ。


「妹原、無理しなくても――」

「わたし、そろそろ時間だから、帰るね」


 妹原はゴミ袋を置いて、いそいそと帰り支度をはじめてしまった。俺に振り向かずに。


「ふぇっ。妹原、もう帰んの?」

「片付けはまだ終わっていないのだが、抜け駆けする気か?」


 木田と桂は不満を漏らすが、妹原は見向きもしない。振り返る余裕すらないのか。


 山野は彼らの様子をいつもの無表情で観察していた。しばらくして「ふう」とわざとらしく嘆息して、


「後は俺と八神でやっておくから、お前らも妹原といっしょに帰れ」

「えっ、マジマジ?」


 思わぬ提案に桂と木田が飛び上がりそうなくらいに喜んだ。


「八神、いいよな」

「あ、ああ」


 妹原のことも気がかりになってしまったから、俺は生返事を返すしかない。妹原もどうしちまったんだよ。


「じゃあ山野くん、後はよろしくね。八神くんも、お邪魔しました」

「ああ」


 俺たち以外の四人で帰り支度をして、松原が最後に挨拶してくれた。あんなに楽しいパーティだったのに、こんな結末になってしまうとはな。


 山野とふたりきりになると、リビングが途端に広く感じる。ついさっきまで八人を収容してかなり狭苦しかったのに、急に寂しくなっちまったな。


 テーブルの上のゴミは片付いたが、クリスマスツリーや壁に貼り付けた飾りがそのままだから、作業はもうしばらくつづきそうだ。これさえなければ気兼ねなく楽しめるんだけどな。


「山野、お前も帰っていいぞ。後は俺がやっとくから」


 この発言は決して本意ではないが、山野を一応気遣っておく。


 だが勘のいい山野は、俺の安易な考えを見抜いているようだ。メガネのブリッジを慣れた手つきで押し上げて、


「あのツリーをひとりで片すのは大変だろう。俺は何時に帰っても文句は言われないから遠慮するな」


 ここぞとばかりに頼もしい言葉を吐いてくれた。さすが密かな気配りの達人だぜ。


 後片付けなんてさっさと終わらせたいが、静かにしていると思考が無駄にはたらいてしまう。


 妹原のことも気がかりだけど、やはり一番気になるのは上月だ。部屋の隅で泣いていたあいつの姿ばかりが脳裏に浮かんでしまう。


「上月は、どうしちまったんだろうな。今日は終始機嫌が悪かったし。やっぱり、仲間はずれっぽい感じになっちまったのが原因なのかな」


 あいつへの不満じゃないけど、俺の心にも鬱積していた何かがあったんだろうな。山野の同意を得たい一心で言葉が漏れた。


 だがそのぼやきに対する返答は、予想だにしないひと言だった。


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