第173話 妹原の思いがけない誘い
クリスマスパーティの計画が水面下で進められながら、試験勉強の期間がすぎていった。
週が明けて、期末試験がやってきた。二学期の試験なだけあって問題は一学期よりも難しくなっていたが、妹原といっしょに勉強した古典の問題はかなり解くことができた。
図書館で勉強したときは、緊張して勉強が手につかなかった印象だけど、意外なほどに頭に入っていたんだな。見慣れた梓弓の文面を見て思った。
三時間目の数学の試験も、山野たちに教えてかなり印象に残っていたのか、ほとんどの問題をすらすら解けたしな。
ひとりで勉強するよりも、だれかと勉強した方が頭に入りやすいのかな。どこかの大学にいる脳科学者に、その辺の脳の構造やら変化について解明してほしいぜ。
「数Iの問題は解けたか?」
試験の終了を告げるチャイムが鳴り、後ろの席に座る山野から回答用紙を受け取る。試験のときは出席番号順に着席するから、入学当時の窓際の席になるのだ。
山野と弓坂の回答用紙の上に自分の回答用紙を乗せて前へ渡す。振り返って尋ねると、山野はいつもの無表情フェイスで言った。
「ああ。お前に教えてもらったところは大体解けたぞ。あれなら赤点は免れるんじゃないか?」
それはよかったな。俺の拙い指導が役に立ったようだ。
「ヤマノンは、ヤガミンと、お勉強してたのぉ?」
山野の後ろから弓坂がひょっこり顔を出す。この席について三人で会話していると、入学した頃をいつも思い出すんだよなあ。
「ああ、ちょっとファミレスでな」
「そうなんだぁ。あたしもぅ、いっしょに、お勉強したかったなぁ」
弓坂がわかりやすく肩を落として消沈する。山野はわりとあっさりしているが、弓坂がなんかかわいそうじゃないか?
「ゆ、弓坂は、どうだ? 数Iはばっちりだったか?」
落胆している姿が見ていられなかったので、たまらずに声をかけてみたが、
「ううん。あんまり、解けなかったぁ」
試験の出来もいまいちだったんだな。踏んだり蹴ったりとは、このことを言うのか。
「ま、まあ、あれだ。明日のテストで挽回すれば、だいじょうぶだって! な、山野っ」
「そうだな。それに、今回は誘わないですまなかったが、次の試験勉強のときは、弓坂も誘うから、気を取り直してくれ」
山野が機械のように無表情かつ素直に謝罪すると、弓坂は頬を少し紅潮させて微笑んだ。
……なんか、あれだな。俺もちゃんと励ましたのに、説得力に圧倒的な差を感じるな。当たり前のことではあるが。
もう付き合っていると言っても過言ではない二人といても、邪魔になるだけだな。俺は机のフックにかけた鞄を肩にかけた。
「じゃ、俺は先に帰るからな。明日の試験対策、ちゃんとやっとけよ」
「ああ」
「ヤガミン、またねぇ」
寒空の下、古びた校舎をひとり後にする。桂と木田を誘って帰ろうと思ったが、あいつらはすでに帰宅したのか、教室に姿はなかった。
この前は数学の勉強を教えてやったのに、薄情なやつらだ。
通学路のわきを流れる瀬上川を眺めながら、ふと山野と弓坂の姿が脳裏を過ぎる。
今さらになって気がついたことだが、恋人ができたりすると人間関係って変わるんだな。
入学したときはあの窓際の席で、山野や弓坂と恋愛相談なんかを気兼ねなくしてたんだけどな。
あのときは、気の合うこいつらといつまでも呑気にしゃべっていられるんだと思っていたけど、そんな俺の発想は幼稚だったんだな。なんということを考えると、少し切なくなってくる。
他の友達にも彼女ができてきたら、やべえな。だれからも相手にされずに独り――なんていうことには、ならないよな。
「八神くんっ」
背後から声をかけられて、どきっとした。この細くて艶のある声は、妹原だっ。
「妹原っ」
振り返ると、紺のコートを羽織った妹原がたたずんでいた。
「こんなところで、どうしたの? 試験で疲れちゃった?」
「えっ、あ――」
俺は足を止めて、意味もなく川を眺めていたのか。思い耽っていたから気づかなかった。
「いや、なんか、いろいろ考えてたら、足が止まってたみたいだ」
「ふふっ、なにそれ」
頭を掻きながら言ったら、妹原にくすりと笑われてしまった。嬉しすぎて、俺の口もとが気持ち悪く緩んでしまいそうだ。
「駅までいっしょに帰ろう」
「ああ、そうだな」
妹原に誘われるだけでも奇跡的な出来事なのに、横に並んで帰れるなんて……ああ! 心臓がばくばく動いて、爆竹みたいに破裂しちまいそうだっ。
「妹原は、もうとっくに、帰ったんだと思ってたけどな」
なるべく平静を装って口を開くが、未だに声がふるえるぜ。
すると妹原は、少し言葉をつまらせて、
「うん。……その、教室に、忘れ物をしちゃって」
恥ずかしそうに言うものだから、つい噴き出してしまった。
「おとぼけさんだったのは、わたしもいっしょだね」
「大げさだな。忘れ物なんて、だれだって一度はするだろ」
「そうかな。でもわたし、忘れ物とか、物をなくしたりとか、けっこうするんだよ。ほら、この前だって、朝に楽譜をなくしちゃったし」
そんな話を前にしてたなあ。
「妹原って、忘れ物とかするんだな。なんでもきっちり完璧にこなしてるイメージだけど」
「ううん、全然っ。わたし、絶対にそんなキャラじゃないもんっ」
妹原が柄にもなく全身を使って否定したものだから、俺はまた大笑いしてしまった。妹原って、こんなコミカルな動きもするんだなあ。
「それで、さっきは何を考えてたの?」
妹原が首を少し傾けて尋ねる。恥ずかしい内容だから、あんまり言いたくはないんだけどな。
「その、大したことじゃないんだが、友達に彼女ができると、いろいろ変わるんだなあって、思って」
「いろいろ変わる?」
「ああ。俺は、前に山野と弓坂の三人で昼飯を食べてたんだが、今はあいつらの中に入らないようにしてるんだ。最初はあんまり気にしてなかったんだけど、こういうのって少し寂しい気がしてなあ」
友達と距離ができる理由なんて、喧嘩くらいしかないと思っていたけど、そうじゃないんだな。
俺は山野を嫌っていないし、弓坂のことも当然嫌っていない。二人にはいつまでも仲良くしていてほしいと、星に願ってもいいくらいの気持ちだけど、ひとりでいると複雑な気分になっちまうんだよな。
嘆息する俺を眺めて、妹原がくすりと笑った。
「八神くんって、いつもそんなことを考えてるんだね」
「根暗なやつだなって思ってるんだろ?」
「ううん。八神くんは友達思いで、木田くんや桂くんといつも楽しそうにしてるから、明るくて楽しいことばかり考えてるのかなあって思ってたんだけど、八神くんは大人なんだね」
俺が大人?
妹原が鞄の紐を両手でにぎりしめる。
「わたしは、人と付き合うこととか、漠然としか考えたことがないなあ。クラスのみんなは、恋とか好きな人のことに夢中なのに」
「妹原――」
「ダメだよね。これじゃあクラスで取り残されちゃうねっ」
妹原が俺を見上げて苦笑する。
妹原こそいつもにこにこして、クラスのみんなに苦しいところなんて一度も見せていないのに、俺みたいなやつのことを気にかけてくれる。
妹原は音楽と学業を掛け持っているのだから、クラスのみんなと差ができてしまうのは当然だ。妹原が気に病むことではないと思う。
「妹原は音楽と学業の掛け持ちだからな。他に余裕が持てないのは仕方ないさ」
「うん。そうだよね」
こんなわかりきった言葉をかけられたって、何も嬉しくないよな。妹原、すまない。
程なくして早月駅が近づいてきた。あそこに到着してしまったら、今日の短いデートも終了してしまう。
試験日じゃなかったら、なんとか理由をつけて遊びに誘うこともできるかもしれないけど、それはやっぱりできないよなあ。
音楽と学業をがんばって両立している妹原を邪魔してはいけない。辛く悲しい決意を胸に誓ったときだった。
「八神くん。あの……少し、時間あるかな」
入学して初めての、妹原からの誘いだった。
「時間? まあ、なくはないけど」
まったく予想だにしていなかったので、少し混乱して曖昧な返事をしてしまった。俺の時間なんて、今日のすべてをくれてしまってもいいのにっ。
妹原は、駅のバスターミナルのそばで立ち止まっていた。鞄の紐を強くにぎりしめて、次の言葉を伝えるべきか迷っているようだった。
そして、決然と小さな顔を上げて、
「八神くんに、どうしても話したいことがあるの」
……えっ、話したいこと?
俺に話したいことって、なんだ? しかもこんな真剣に、そろそろ別れようとしていたこのタイミングで?
まさか、この展開は……高校生向けの少年誌で言うところの、ヒロインが主人公に、愛の告白をするタイミング……なのかっ!?




