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第169話 試験勉強なのにどきどき

 四時間目の終業のチャイムが鳴って、決戦のときがついにやってきた。


 帰りのホームルームと掃除を済ませて、俺は妹原と正門で待ち合わせる。妹原は背筋を伸ばした行儀のいい姿勢で俺を待ってくれていた。


「すまん。掃除が遅れちまって」

「ううん。わたしも、さっき来たばっかりだから」


 恥じらいを感じながら返答してくれる妹原の仕草が、今すぐに抱きしめたくなるほど……可愛い。っていうか、会話がなんか彼氏彼女っぽくないか?


 これは俺の錯覚なのか? 俺の誇大妄想なのか!?


 いや待ち合わせの時点でこんなに興奮してどうする。勝負はまだはじまったばかりじゃないか。


「じゃあ、行こうか」

「うんっ」


 俺が前を歩くと、妹原がすぐについてきた。


 試験勉強という建前はあるが、これはれっきとしたデートだ。しかも山野や上月の力を借りずに、自分の言葉と行動で得られた成果なんだ。


 なんというか、それだけでも感無量だ。まだ付き合ってもいないというのに、俺は頭が悪いのだろうか。


 山野あたりに言ったら、目の前で露骨にため息をつかれそうだな。


 でも、いいんだ。嬉しいものは嬉しいんだから。ずっと想い続けてきた子とデートできることを喜んで、何が悪いっ。


 妹原に気づかれないように、横顔をそっと拝見する。鞄を両手で持ってうつむいている姿は、学園屈指のアイドルの名に恥じないほどに、可愛い。いや、美しい。


「図書館って、あんまり行ったことがないから、緊張しちゃうなっ」


 妹原が照れ隠しのように苦笑する。


「八神くんは、図書館でよく勉強するの?」

「えっ、あ、どうかな」


 普段から図書館になんて行かないが、そう言ってしまうと俺の下心が露呈されてしまう。


「試験勉強のときは、ときどき行くかな。図書館は静かだから、カフェよりも勉強しやすいんだよ」


 それなりに説得力のある嘘がするりと口から出てしまった。妹原に罪悪感を感じてしまうが、自分の身を守るために、素直に白状するわけにはいかないのだ。


 俺の動作がおかしかったのか、妹原がくすりと笑った。


「カフェはいろんな人がいるから、八神くんの言う通りかもね」

「そうさ。俺の同中の友達にも図書館で勉強してるやつがいるから、図書館で勉強するのはおすすめだぜっ」


 俺が無駄に胸を張って人差し指を立てると、妹原が声を立てて笑った。


 妹原との会話も、だんだんと自然にこなせるようになってきたなあ。そう思うと、また俺の単純な心がじんと熱くなる。


「妹原は、家で勉強することが多いのか?」

「うんっ。図書館で勉強してみたかったんだけど、お父さんやお母さんに言ったら怒られそうだったから」


 妹原の両親はこんなことでも怒り出すんだな。彼らは厳しいのではなくて、単に怒りっぽいだけなのではないだろうか。


「わたしひとりで図書館に行くのも、なんか違うなあって思ってたから、八神くんが誘ってくれてよかった」


 俺の身の程を知らない突撃は、なにげにファインプレーだったのか? 俺の気持ちが妹原に届いたんだったら、嬉しいぜっ。


 早月さつきの図書館は、駅から少しはなれた場所に建っている。そこはデパートや商店街からも距離があり、周囲の建物は市役所やオフィスビルばかりだ。


 大人でビジネスっぽい立地だから、俺や妹原みたいな学生はあまり歩いていない。図書館の中も人影は少なかった。


「席、たくさん空いてるね」

「そうだな」


 人が少ないのはデートにとって好都合だけど、寂しいと少しテンションが落ちるな。騒がしい場所よりはるかにいいけど。


 窓に近い隅の席を選んで椅子を引く。そういえば上月に勉強を教えるときは、この辺の椅子によく座ってるな。


 四人がけの席の正面に妹原が座り、となりに鞄を置く。中から古文の教科書とノートを取り出して、勉強開始だ。


 期末試験の古文の範囲は、伊勢物語の梓弓あずさゆみだ。『昔、男、片田舎に住みけり』ではじまる、あの眠たくなるような話だ。


 話の内容は、片田舎に住んでいた昔のとある男が、都会に出て三年間も帰ってこなかったので、付き合っていた女が別の男に求婚されて、その後いろいろともつれて女が死ぬ――というものだが、試験範囲じゃなかったら最初の一句すら読む気が起きないな。


 古文の嫌いな理由は、現代語に訳する難しさ以上に、話の内容に興味が出ないことに起因しているんじゃなかろうか。


 だから源氏物語などが好きな女子は古文の成績がいいけど、男子は相当なガリ勉か学級委員じゃなければ成績がよくないのだ。


 古文のくだらない推論はやめて、俺も妹原を見習って勉強しよう。


 妹原は古文の教科書を開いて、桜色のペンをノートに走らせている。脇を締めて、ほとんど音も立てずに読み書きする姿は、知性と気品を感じさせる。


 後ろ髪を括って、耳元から垂れる細い髪が艶やかで――見とれてしまう。


 妹原が顔を上げて、俺と目が合ってしまった。俺は慌てて視線を落とした。


 指のつま先から両足の末端まで、俺のすべての筋肉が紅潮している。全身を巡る血管は限界まで開いて、動脈からすさまじい早さで血液が流れていた。


 今、妹原とふたりで勉強しているだけで……嬉しい。恥ずかしいし、俺が緊張していることも気づいているかもしれない。けど、それ以上に、幸せだ。


 もう、妹原に気持ち悪いと思われてもいいから、彼女をずっと見ていたい。そんなことを思いながら俺は、教科書から目を離すことができなかった。


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