第155話 透矢の返答
「父さんな、今の会社を辞めて、シンガポールで事業を起こそうと思っているんだ。この事業で成功すれば、シンガポールで腰を落ち着かせることができるし、お前につらい思いもさせないで済む。お前にとってもいい提案だと思うんだ」
俺にとってもいい提案だって? とんでもない難題を簡単に言ってくれるな。
世間的に考えれば、高校生がひとり暮らしをするより、海外に渡ってでも親と暮らした方がいいかもしれない。だが――。
「お前はまだ高校生だが、学校――大学を卒業してからでもかまわないが、父さんの会社に就職すれば、就職活動でも困ることはない。お前にとって悪い話じゃないと思うんだ」
この人の言っていることは、それなりに筋が通っている。この人の話を聞いている分には、俺にとってメリットが多いように感じられる。
だからといって、二つ返事でシンガポールになんて渡れるわけがないだろう。
俺にだって、少ないながらに日本に友達がいて、上月の父さんと母さんにも日ごろからお世話になっているんだ。
そういう人たちを捨てて、おいそれと海外になんて渡れるわけがないだろ。
「どうだ、父さんとシンガポールに来ないか?」
親父がまた背を正して俺を見据える。
ドイツに留学している雪村は、この人の気持ちがよくわかるのだろうが……ダメだな、やっぱり。
日本にいる大事な人たちを捨てて海外へと渡る人たちの考え方は、俺の考え方とは相容れない。
「透矢、どうするの?」
上月が不安そうに俺を見上げる。返答なんて、考えるまでもない。
「シンガポールになんて行くわけねえだろ」
親父が肩を落として苦笑した。
「そういうと思ったよ。いきなり言われても困るもんな」
「当たり前だ。っていうか、日本にいる人たちを捨てて海外になんて行けるわけないだろ」
俺は日本にいる人たちを捨てて、海外で成功したいとは思わない。
この人の希望や考えは、雪村の言葉で少しは理解できたが、それをいいと思うかどうかはまた別の話だ。
俺は、日本にいる大事な人たちと助け合いながら暮らしていく。だから、この人にはついていかない。
この人を毛嫌いしているからではない。俺の頭でしっかりと考えた上での結論だ。
「話はそれだけか?」
「あ、ああ。できれば、お昼でもいっしょに食べたかったんだが。そこのお嬢さんもいっしょに」
「悪いが、今日はこれから友達が来るから、昼飯はいっしょに食えない」
「そうなのか。なら仕方ないか」
親父が悄然と立ち上がった。
「父さんはこれで帰るが、寂しかったらいつでも電話してくれ。お前は父さんの息子だ。これまでは母さんにお前のことを押し付けていたが、お前の面倒をちゃんと見るつもりだ」
この人の言葉をどこまで信じていいのかわからないが、ひとまずうなずいておく。
「父さんの事業のことも、興味が沸いたらいつでも相談してくれ。お前だったらいつでも大歓迎だ」
「わかったから、さっさと行け」
「じゃあ、またな。……きれいなお嬢さんも、透矢のこと、よろしく頼むよ」
親父は寂しげに笑って、リビングから出ていく。上月が俺の腕のあたりを引っ張った。
「送らなくていいの?」
「そんなことはしなくていい。丁寧に扱って、向こうが調子に乗り出したらうざいからな」
「で、でも、お父さんが帰っちゃったら、またしばらく会えなくなっちゃうんだよっ」
リビングの廊下の向こうから、扉の開く音が聞こえる。すぐにばたんと音がして、部屋に静寂が訪れる。
あんなやつと離れ離れで暮らしていても、なんら寂しくはない。俺には上月がいるし、山野や弓坂たちもいるから。
友達を見捨てて海外に行くことの方が、俺にとっては悪に思えてならない。そこまでして海外に進出する理由や意義が、俺には見出せない。
上月は俺と廊下を交互に見比べて、いつになく狼狽していた。そして深くため息をついて、
「シンガポールなんて言葉が出たから、驚いちゃった。そんなところに急に来いって言われたって、困るわよね」
呆れ果てた感じでつぶやいた。
上月の言う通りだ。俺にだって日本の生活があるのだから、自分の都合で勝手に話を持ち出されても困るだけだ。
「透矢が行くって言ったら、どうしようかと思ったけど、よかった」
「行くなんて、絶対に言わねえよ。俺は、日本にいる人たちを見捨てて、海外で成功したいだなんて思わない。それに、母さんだって、そう思ってるだろうよ」
言いながら和室の奥にたたずむ母さんの仏壇の方を見やる。
天国にいる母さんは、俺の結論に賛同してくれるはずだ。日本に帰ってきて、日本に骨を埋めた人だから。
「うん。そうだね」
上月も和室の方を見て、嬉しそうに微笑んだ。急にソファから立ち上がって、
「雫たちが来るまで、まだ時間があるから、何か食べよっか。あたし、お腹空いちゃった」
軽く伸びをしながら上月が言った。
そう言われると、急に腹が減ってきたな。今日は起きてから何も食べてないから。
「じゃあ、悪いけど、なんかつくってくれるか? 俺も腹が減っちまったよ」
「しょうがないわね。今日はめずらしくがんばってたから、あんたの分もおまけでつくってあげるわよっ」
「今日はって、なんだよ。最近は割とがんばってる方だろ」
「はいはい。わかったから、あんたはそこでおとなしく朝のテレビでも見ていなさいよ」
上月は俺の反論をいつもの面倒くさそうな感じであしらって、キッチンへと歩いていく。
こいつとはすっかり腐れ縁みたいな関係になっちまったけど、これはこれで悪くないのかもな。俺は肩の力を抜いて、ソファの背もたれにもたれかかった。




