表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
155/211

第155話 透矢の返答

「父さんな、今の会社を辞めて、シンガポールで事業を起こそうと思っているんだ。この事業で成功すれば、シンガポールで腰を落ち着かせることができるし、お前につらい思いもさせないで済む。お前にとってもいい提案だと思うんだ」


 俺にとってもいい提案だって? とんでもない難題を簡単に言ってくれるな。


 世間的に考えれば、高校生がひとり暮らしをするより、海外に渡ってでも親と暮らした方がいいかもしれない。だが――。


「お前はまだ高校生だが、学校――大学を卒業してからでもかまわないが、父さんの会社に就職すれば、就職活動でも困ることはない。お前にとって悪い話じゃないと思うんだ」


 この人の言っていることは、それなりに筋が通っている。この人の話を聞いている分には、俺にとってメリットが多いように感じられる。


 だからといって、二つ返事でシンガポールになんて渡れるわけがないだろう。


 俺にだって、少ないながらに日本に友達がいて、上月の父さんと母さんにも日ごろからお世話になっているんだ。


 そういう人たちを捨てて、おいそれと海外になんて渡れるわけがないだろ。


「どうだ、父さんとシンガポールに来ないか?」


 親父がまた背を正して俺を見据える。


 ドイツに留学している雪村は、この人の気持ちがよくわかるのだろうが……ダメだな、やっぱり。


 日本にいる大事な人たちを捨てて海外へと渡る人たちの考え方は、俺の考え方とは相容れない。


「透矢、どうするの?」


 上月が不安そうに俺を見上げる。返答なんて、考えるまでもない。


「シンガポールになんて行くわけねえだろ」


 親父が肩を落として苦笑した。


「そういうと思ったよ。いきなり言われても困るもんな」

「当たり前だ。っていうか、日本にいる人たちを捨てて海外になんて行けるわけないだろ」


 俺は日本にいる人たちを捨てて、海外で成功したいとは思わない。


 この人の希望や考えは、雪村の言葉で少しは理解できたが、それをいいと思うかどうかはまた別の話だ。


 俺は、日本にいる大事な人たちと助け合いながら暮らしていく。だから、この人にはついていかない。


 この人を毛嫌いしているからではない。俺の頭でしっかりと考えた上での結論だ。


「話はそれだけか?」

「あ、ああ。できれば、お昼でもいっしょに食べたかったんだが。そこのお嬢さんもいっしょに」

「悪いが、今日はこれから友達が来るから、昼飯はいっしょに食えない」

「そうなのか。なら仕方ないか」


 親父が悄然と立ち上がった。


「父さんはこれで帰るが、寂しかったらいつでも電話してくれ。お前は父さんの息子だ。これまでは母さんにお前のことを押し付けていたが、お前の面倒をちゃんと見るつもりだ」


 この人の言葉をどこまで信じていいのかわからないが、ひとまずうなずいておく。


「父さんの事業のことも、興味が沸いたらいつでも相談してくれ。お前だったらいつでも大歓迎だ」

「わかったから、さっさと行け」

「じゃあ、またな。……きれいなお嬢さんも、透矢のこと、よろしく頼むよ」


 親父は寂しげに笑って、リビングから出ていく。上月が俺の腕のあたりを引っ張った。


「送らなくていいの?」

「そんなことはしなくていい。丁寧に扱って、向こうが調子に乗り出したらうざいからな」

「で、でも、お父さんが帰っちゃったら、またしばらく会えなくなっちゃうんだよっ」


 リビングの廊下の向こうから、扉の開く音が聞こえる。すぐにばたんと音がして、部屋に静寂が訪れる。


 あんなやつと離れ離れで暮らしていても、なんら寂しくはない。俺には上月がいるし、山野や弓坂たちもいるから。


 友達を見捨てて海外に行くことの方が、俺にとっては悪に思えてならない。そこまでして海外に進出する理由や意義が、俺には見出せない。


 上月は俺と廊下を交互に見比べて、いつになく狼狽していた。そして深くため息をついて、


「シンガポールなんて言葉が出たから、驚いちゃった。そんなところに急に来いって言われたって、困るわよね」


 呆れ果てた感じでつぶやいた。


 上月の言う通りだ。俺にだって日本の生活があるのだから、自分の都合で勝手に話を持ち出されても困るだけだ。


「透矢が行くって言ったら、どうしようかと思ったけど、よかった」

「行くなんて、絶対に言わねえよ。俺は、日本にいる人たちを見捨てて、海外で成功したいだなんて思わない。それに、母さんだって、そう思ってるだろうよ」


 言いながら和室の奥にたたずむ母さんの仏壇の方を見やる。


 天国にいる母さんは、俺の結論に賛同してくれるはずだ。日本に帰ってきて、日本に骨を埋めた人だから。


「うん。そうだね」


 上月も和室の方を見て、嬉しそうに微笑んだ。急にソファから立ち上がって、


「雫たちが来るまで、まだ時間があるから、何か食べよっか。あたし、お腹空いちゃった」


 軽く伸びをしながら上月が言った。


 そう言われると、急に腹が減ってきたな。今日は起きてから何も食べてないから。


「じゃあ、悪いけど、なんかつくってくれるか? 俺も腹が減っちまったよ」

「しょうがないわね。今日はめずらしくがんばってたから、あんたの分もおまけでつくってあげるわよっ」

「今日はって、なんだよ。最近は割とがんばってる方だろ」

「はいはい。わかったから、あんたはそこでおとなしく朝のテレビでも見ていなさいよ」


 上月は俺の反論をいつもの面倒くさそうな感じであしらって、キッチンへと歩いていく。


 こいつとはすっかり腐れ縁みたいな関係になっちまったけど、これはこれで悪くないのかもな。俺は肩の力を抜いて、ソファの背もたれにもたれかかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ